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スマホの中身を全部見る恋人関係は破綻する…哲学者カントが「愛には義務がある」と考えたワケ

プレジデントオンライン / 2023年7月1日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Urupong

他人同士がうまくやっていくにはなにが重要なのか。哲学者カントは、「引力」としての理性的な愛と、「斥力」としての理性的な尊敬のバランスが不可欠だと説いた。『人間関係の悩みがなくなる カントのヒント』(ワニブックスPLUS新書)より、独トリア大学付属カント研究所研究員・秋元康隆さんの解説を紹介しよう――。

■「友情は義務である」と述べたカントの真意

人々の間での友情は、人々の間での義務であるということ、これは容易に理解される。
アカデミー版(Ak)VI 469.

このようにカントは、友情について、それが義務であると述べています。しかし、友情が義務であるというのは、実はよくわからない言明と言えます。というのも、友情というのは感情であり、感情というのは「持とう」と意志したからといって、湧いてくるようなものではないだろうからです。

ではカントは、そもそも「友情」というものについてどのように理解しているのでしょうか。以下の文面が定義に近いものと言えるでしょう。

「友情とは、(それが完成した形において観られる限り)二つの人格が相互に等しい愛と尊敬によってひとつに結びつくことである」(Ak VI 469.)

■感情はコントロールできるものではない

ここでカントは、友情には愛と尊敬が必要であると言っているのです。すると疑念はさらに深まるのではないでしょうか。愛や尊敬というのもまた感情であり、やはり「持とう」としたからといって持てるようなものではないように思えるからです。

実はカント自身が、愛や尊敬について、それらが感情に属するものであり、自身でコントロールするようなものではないことを認めているのです。

「愛は、感覚の事柄であって、意欲のそれではないから、私は愛そうとしたからといって、ましてや愛すべきである(愛へと強制されている)からといって、愛することができるわけではない。従って、愛するという義務は実在しない」(Ak VI 401.)

私たちは誰かを愛そうとしたからといって愛せるものではありません。そのため、誰かを愛すべきという義務は存在しないのです。

■理性的な愛と尊敬とは何なのか

尊敬についても同じです。

「尊敬もまったく同様に、単なる主観的なもの、すなわち特殊な感情であって、(それを引き起こしたり、促進したりすることが義務であるような)ある対象についての判断ではない」(Ak VI 402.)

尊敬もまた感情であり、持ったり、持たなかったりといったことを自ら判断するようなものではないのです。

愛や尊敬というのは感情であり、自分の意志ではどうにもできないのであれば、それらを必要とする友情を持つようにコントロールすることもまたできないことになるのではないでしょうか。だとするとカントの説明は破綻していることになるのではないでしょうか。

いえ、カントの言っていることが破綻しているという(身も蓋もない)話ではもちろんありません。ここで押さえるべきことは、愛や尊敬には確かに感情という側面があるものの、理性的な側面もあり、カント自身もその存在を想定しているという点なのです。まずは理性的な愛について見ていこうと思います。

■感情としての愛は人を盲目にさせる

ここでの愛は、(感受的)感情であるとは──すなわち他人の完成を喜ぶ快感としても、好感という愛としても──解されえない。
Ak VI 449.

この説明だけでは具体的な姿は見えてきませんが、ただカントが感情的ではない、理性的な愛を想定し、それについて語っているということは読み取れると思います。

もう少し詳しく見ていこうと思います。カントは先の引用文の後で以下のように続けます。

「人間愛(博愛)は、ここでは実践的なものとして考えられ、従って人間に対して懐く好感という愛として考えられているのではないから、能動的好意のうちに置かれなければならず、それゆえ行為原理に関係している」(Ak VI 450.)

理性的な愛とは、「人間愛」や「博愛」と言われ、能動的に行為原理に関わるものとされているのです。

さらに補足説明すると、感情としての愛から直接行動に出るとすると、たとえば、好きだから相手に対してしつこくつきまとうとか、相手を拘束するといったことにもなりかねないのです。感情としての愛は人を盲目にさせるのです。(Vgl. Ak VI 471; vgl. Ak VII 253.)だからカントは、感情としての愛をそのまま野放しにしておくのではなく、理性的な愛によって抑制的に行為すべきであると言うのです。

■嫌いな人にも救いの手を差し伸べるべき

では、理性的な愛とは、具体的にどのような愛のことなのでしょうか。カントは以下のように説明します。

「他の人々に対して、その人々を好むと好まざるとにかかわらず、自分たちの能力に応じて親切を施すことは義務である」(Ak VI 402.)

もし感情のみによって動くとすると、自分の嫌いな人や、関心のない人が助けを必要としていても、(感情に変化が生じない限り)体は動かないことになります。ここに感情としての愛の限界があるのです。そこで体を動かすには、理性を用いて自らを駆り立てる必要があります。

私たちは主観的な理由によってではなく、つまり、自分が相手を好きであるかどうかに関わらず、関心があるかどうかに関わらず、もちろん、自分に見返りがあるかどうかにも関わらず、困っている人に救いの手を差し伸べるべきなのであり、それをカントは「愛の義務」と呼んでいるのです。

手のひらにハート
写真=iStock.com/SewcreamStudio
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SewcreamStudio

■友人の欠点を指摘するのも「愛の義務」

カントは「愛の義務」について、もうひとつわかりやすい例を挙げているのでここに紹介しておきます。

「道徳的に考えるならば、ある友人が他の友人の欠点を当人に気づかせるということは確かに義務である。というのは、そうすることが、必ずや当人のためになることであり、それゆえ愛の義務だからである」(Ak VI 402.)

好き好んで相手の欠点を指摘する人などあまりいないでしょう。普通はそんなことをしたいとは思いません。しかし、自身の感情を横に置いて、理性的に考えてみれば、相手の改善すべき点についてわかっているのに、それを伝えないというのは、筋が通らないということになるでしょう。そのためカントは、そこで友人に働きかけるのは倫理的義務であると言うのです。

ただ、このような言明にたとえ納得できたとしても、同時に、ここに難しさがあることもまた認めざるをえないのではないでしょうか。

■「関係が悪くなったら…」という危惧へのヒント

というのも、仮にこちらが相手のことを思って発言したとしても、伝え方や言い方を誤ると不幸な結果となってしまうことが容易に想像できるからです。カント自身も、相手への苦言が、尊敬の欠如や監視、延いては、侮辱と受け止められてしまうリスクについて言及しています。(Vgl. Ak VI 470.)

このような危惧を前に、カントによる以下の言葉がヒントになるかもしれません。

「友人の若干の欠点が指摘されねばならない場合、私は友人の功績を卓越させ、一般的な本質的な彼の欠点を示し得るならば、友人もこれを悪く思わないだろう」(メンツァー〈1968年〉、294頁以下)

カントは具体的な例を挙げていないのではっきりとしたことはわかりませんが、私のなかに思い浮かんだのは、いつかの私自身と友人との間のやりとりです。

■メールにミスが多い友人に伝えた言葉

彼から受け取るメールには普段から、誤情報やら誤字脱字やらといったミスが多かったのです。私は正直「もっとちゃんと調べてから、自分の書いた文章もしっかり読み直してから送ってほしい」と思いました。しかし、それをそのまま口に出すのでは、角が立ちます。

そこで私は考えたのです、そもそもなぜ彼のメールにはこんなにもミスが多いのかと。そこで彼の性格や言動から察することができたのですが、彼はなるべく早く返事をすることが相手に対する配慮であり、逆に、返信に時間がかかるのは失礼だと思っていたようなのです。

そこで私が彼に伝えたのは、彼の考え方自体は決して間違ってはいないということ、ただ焦って返信した結果、誤った事実を伝えてしまい、それによる悪影響が出ることも考えるべきなのではということです。それを聞いた相手は納得し、感謝しているようにさえ見えました。

とはいえ、これはたまたまうまくいったケースの話であり、明らかに失敗だったケースも(いくらでも)あります。ここに難しさがあることは確かなのです。

■愛は「引力」、尊敬は「斥力」

愛は引力として、尊敬は斥力として、観ることができるから、引力の原理が接近を命じるとすれば、斥力の原理は相互に適当な隔たりを保つよう要求することになる。
Ak VI 470.

カントは理性的な愛の存在を認めるのと同様に、理性的な尊敬の存在を想定しています。そして、それは相手との距離を保つものとされているのです。この意味での尊敬、すなわち、理性的な尊敬というのは、実際にその人を尊敬するかどうかとは別の話です。(※)

感情的な愛にしろ、理性的な愛にしろ、ともかく愛というのは人と人とを近づけるものと言えます。そのためカントは、それを「引力」と表現するのです。しかし近づくだけでは、実際のところ関係性は成立しません。四六時中一緒にいる(仕事やトイレにまでついてくる)、お互いのプライバシーを一切認めない(メールや通話もすべてオープン)というわけにはいかないでしょう。

このような方向に向かって失敗するのは友人関係よりも、恋人関係の方に多いと思います。友人関係にしろ、恋人関係にしろ、人間というのは両者が近づき過ぎてしまうとうまくいかないのです。

(※)カントは、尊敬について、「たとえ隣人がわずかしか尊敬に値しないとしても、同様にすべての人に対する必然的な尊敬」(Ak VI 448)というものを想定しています。

■お互いがある程度の距離を保つ必要がある

私たちは人間それぞれに、人格があり、自由があり、決して他人の持ち物ではないのです。そのことを勘案すると、お互いがある程度の距離を保つことの必要性が看取されるはずです。意図的にその距離を保とうとするのが理性的な尊敬であり、それをカントは「斥力」と表現するのです。

この尊敬に関しては、「普遍化の定式」や「目的の定式」と絡めて説明することもできます。まず「普遍化の定式」との関係で言えば、他者と適度な距離を取るべきこと(束縛しない、プライバシーを守る)ということは、道徳法則に合致すると言えるでしょう。反対にそれを犯すことは道徳法則に反するのではないでしょうか。

秋元康隆『人間関係の悩みがなくなる カントのヒント』(ワニブックスPLUS新書)
秋元康隆『人間関係の悩みがなくなる カントのヒント』(ワニブックスPLUS新書)

また「目的の定式」に鑑みても、他者は目的それ自体として存在しているのであり、その人格は尊重されるべき(つまり、どこまでも立ち入って良いわけではない)ものなのです。

別人格の人間同士がうまくやっていくには、引力としての理性的な愛と、斥力としての理性的な尊敬との適度な均衡が不可欠なのです。

前者は実際に尊敬できるかどうかという感情的な意味であり、後者は実際にその人が尊敬できるかどうかに関わらず、一般に妥当する理性的な意味を持つのです。

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秋元 康隆(あきもと・やすたか)
トリア大学附属カント研究所研究員
1978年生まれ。トリア大学講師。日本大学文理学部哲学科卒。トリア大学教授でありカント協会会長であるベルント・デルフリンガー教授のもとでカント倫理学をテーマに博士号取得。トリア大学付属カント研究所に所属し、不定期でカント倫理学のゼミを担当。著書に『意志の倫理学 カントに学ぶ善への勇気』(月曜社)、『いまを生きるカント倫理学』(集英社新書)、『人間関係の悩みがなくなる カントのヒント』(ワニブックスPLUS新書)がある。

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(トリア大学附属カント研究所研究員 秋元 康隆)

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