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「あなたの名前はジミーです」学習院の英語教師が上皇陛下に英語のニックネームをつけた深い理由

プレジデントオンライン / 2023年7月5日 13時15分

レジナルド・ホレイス・ブライス〈『アサヒグラフ』1953年5月27日号より〉(写真=朝日新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

かつて上皇陛下が学習院中等科に進学した際、英語教師を務めたヴァイニング夫人は生徒全員に英語の名前をつけた。このため上皇陛下も、「プリンス・アキヒト」ではなく「ジミー」と呼ばれた。この方針にはどんな狙いがあったのか。小田部雄次さんの著書『天皇家の帝王学』(星海社新書)より紹介しよう――。

■イギリス人の教師が教えたこと

昭和21年4月、平成の天皇は中等科に進学した。当初、宮内省と学習院には初等科卒業後の教育は昭和天皇と同様に東宮御学問所を設け、ここで御学友らとともに将来の君主たるべき学びをする計画があった。

漢文は諸橋轍次、東洋史は山本達郎、日本史は児玉幸多という講師陣まで予定されていた。諸橋は『大漢和辞典』編纂で知られる。山本は日銀総裁などを歴任した山本達雄の孫で元号「平成」の名づけ親とされる。児玉はのちに敬宮愛子内親王の浴湯の儀に読書役として『日本書紀』の一節を朗読する。

しかし、戦争に負けて、占領軍の民主化が進められるなか、山梨勝之進学習院長は、皇太子教育と学習院のあり方をマッカーサーに打診した。その間に立ったのが、学習院教授でもあったイギリス人英語教師のレジナルド・ホレイス・ブライスで、第一次世界大戦では兵役拒否し、のち菜食主義者となり、また日本統治下の朝鮮の京城帝国大学英文科助教授となり、中国語や朝鮮語、禅などを学んだ。のちに金沢の第四高等学校(現在の金沢大学)の英語教官となった。

第二次世界大戦中は日本国籍取得を願ったものの敵性外国人として収容された。戦後は日米両国の間に立って、戦後日本の平和再建に尽力する。この間、昭和21年4月から平成の天皇(皇太子)の英語の個人教師となり、また学習院大学英文科教授としても英語を教えた。

昭和天皇のいわゆる「人間宣言」の起草にも関わった。禅や俳句などへの造詣も深く、日本文化の国際化にも大きく貢献した。ヴァイニング来日以前の平成の天皇の思想教育に大きな影響を与えた外国人でもあった。

■イギリス流の「帝王学」とは

明石元紹は、当時の平成の天皇とブライスの個人教授のエピソードのひとつを、以下のように紹介する。

ブライスがわざと、殿下との間にエンピツを落とす。

「殿下、エンピツが落ちました。どちらが拾ったらいいですか?」

殿下が答える。「エンピツに近い人が拾うのがいいでしょう」エンピツはブライスの近くに落ちていた。

ブライスは首を振って、「駄目です。あなたはクラウン・プリンス(皇太子)です。近くても遠くても、クラウン・プリンスが拾わなくてはいけません」

王室のあるイギリスで育ったブライスの「紳士学」、「帝王学」というものの一端を見た気がする逸話である。ノブレス・オブリージュにつながる意識でもあろう。

■学習院中学に進学した経緯

特権層がその特権を自己に優位に活用するのではなく、特権層であるがゆえに他者に奉仕する姿勢が求められるという「帝王学」がそこにはある。平成の天皇は、米国流の平等主義的なヴァイニング夫人の教育に接する前に、イギリス流の「紳士学」、「帝王学」に触れていたともいえる。

そしてこのブライスがマッカーサーを訪問すると、マッカーサーは御学問所構想が皇太子に超国家主義的な日本思想を教える危険性があると感じて中止させたという。この結果、平成の天皇は学習院中等科に進学した。

■人格形成に影響を与えた女性

平成の天皇が学習院中等科に進学した昭和21年の10月15日、エリザベス・グレイ・ヴァイニング(ヴァイニング夫人)が来日した。平成の天皇の家庭教師をつとめるためであった。

家庭教師のヴァイニング夫人(右)から英語を学ばれる継宮さま=1948年12月、東京・小金井の東宮御仮寓所
写真=時事通信フォト
家庭教師のヴァイニング夫人(右)から英語を学ばれる平成の天皇、継宮さま=1948年12月、東京・小金井の東宮御仮寓所 - 写真=時事通信フォト

ヴァイニング夫人が平成の天皇の家庭教師となるいきさつは、この年の3月にアメリカからの教育使節団の一行が来日し、昭和天皇が団長のジョージ・ストダード博士に平成の天皇(皇太子)の家庭教師をさがしてほしいと依頼したことにあった。

初等科卒業後の御学問所構想が取りやめとなり、新時代の皇太子教育が求められていた中でのことであり、あるいはマッカーサーら米国占領軍との間になんらかの経緯があったのかもしれない。

■昭和天皇の意向

すでにイギリス人のブライスがいながら、アメリカ人の家庭教師を必要とする背景には当時の時代的な理由もあったろう。確かに同じ英語圏でもイギリスとアメリカでは政治体制も異なるし、そこから派生する王室に対する考え方も違う。

とはいえ、戦後の日本の占領の主力は米国にあり、被占領中の昭和天皇の意識はイギリスよりもアメリカに向かっていた面は否めない。アメリカ従属型の戦後天皇家のはじまりにふさわしい判断ともいえた。実際、若き日の平成の天皇の人格形成にあずかったヴァイニング夫人の影響力は大きかった。

また皇室からの信頼も篤く、当初は1年任期の予定であったが4年におよび、米国帰国後も平成の天皇との交流は続いた。

ヴァイニング夫人は東宮仮御所で平成の天皇に英語の個人レッスンを受け持つほか、学習院中等科で毎週3時間の英語の授業も担当した。

平成の天皇が在籍する中等科1年の「一組」での最初の授業で、ヴァイニング夫人は生徒全員に英語の名前をつける方針を考えた。

■一般の人間のひとりである空間をつくった

その理由は、1つに生徒の名前を自分が間違って発音しないですむ、2つに今までの英語の教科書では子どもの名前が太郎や花子など日本名だが、英語の発音を教える必要があった、そして3つは、皇太子にも英語の名前をつければ「一生に一度だけ、敬称で呼ばれず、特別扱いも受けないという経験を彼(皇太子)はもつことになる」、の3点にあったという。

小田部雄次『天皇家の帝王学』(星海社新書)
小田部雄次『天皇家の帝王学』(星海社新書)

こうした方針のもとヴァイニング夫人はアルファベット順に並べた生徒名簿をつくり、はじめての授業に臨んだのであった。

自己紹介後、まず生徒に名前を尋ねてから、このクラスでの名前を与えていった。アダム、ビリー、と次々に命名していき、皇太子のところで「あなたの名前はジミーです」と伝えた。

ところが皇太子は「いいえ、私はプリンスです」と答えた。夫人は「そうです、あなたはプリンス・アキヒトです」と同意し、「それが、あなたの本当のお名前です。けれどもこのクラスでは英語の名前がつくことになっているのです。このクラスではあなたの名前はジミーです」と説明した。

皇太子は楽しそうに微笑み、ほかの生徒たちもつられて笑ったという(工藤美代子『ジミーと呼ばれた日』)。

ヴァイニング夫人はゲームのルールを説明するかのように、皇太子に特別扱いされない一般の人間のひとりである空間をつくりあげたのである。

この「一般の人間のひとりである空間」の経験は、その後の平成の天皇の「帝王学」あるいは「象徴学」による歩みに大きな影響を与えたともいえよう。

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小田部 雄次(おたべ・ゆうじ)
静岡福祉大学名誉教授
1952年、東京都生まれ。立教大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得退学。専門は日本近現代史。『皇族』(中央公論新社)など著書多数。

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(静岡福祉大学名誉教授 小田部 雄次)

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