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「史上最年少の日本人研修医」でも劣等生扱い…ハーバード大准教授が語る「私がアメリカで生き残れた理由」

プレジデントオンライン / 2023年7月26日 10時15分

撮影=プレジデントオンライン編集部

【連載#私の失敗談 第3回】どんな人にも失敗はある。ハーバード大学医学部准教授の内田舞さんは「そもそも、日本を出るという決断をしたのも、大学時代に経験したひどい失恋がきっかけだったんです」という――。(聞き手・構成=山本ぽてと)

■「求められた女性像」が自分の素質と一致しなかった

小さいころから、薄々と感じていたことがあります。日本において、女性は弱くて幼い方がモテるらしい。意見を積極的に言ったり、能力を示すことが女性の魅力にはつながらないらしい。そしてどうやら、それは私の生まれ持った素質とは違いそうだということです。

高校までは、リベラルな校風の学校に通っていたので、自分の個性を認めてもらえるような環境でした。ですが、受験勉強をし、大学の医学部に入るとガラリと変わります。

私が通っていた北海道大学の医学部は、当時は1学年100人中、女子は15人でした。男子学生ばかりの中、飲み会では、風俗に行った話や、ほかの大学の女子大生との話が「武勇伝」のように話される。そこで求められる女性像もまさに、日本社会が求める「わきまえた」ものでした。

■フェミニズムとの出会いは「失恋」がきっかけだった

頭の中では「そんなのはおかしい」と反発していました。私はリーダーシップを取ったり、意見をはっきり言ったり、能力を示したりしたい。ですが一方で、大学生だし、恋愛がしたい、彼氏がほしい、男の子に魅力的と思われたいとも思っていたんです。特に恋愛関係になると、無意識に「理想の女性」に自分を合わせようとしてしまいました。

そうして結んだ恋愛関係は、あまり幸せなものとは言えず、ある日、私はとてもひどい失恋を経験しました。当時恋愛関係にあった男性から、女性としてないがしろに扱われたんです。その時に、「なぜ男性ってこうなんだろう」「女性に求められているものって何?」と疑問が湧いてきました。

私の疑問に対して、両親はフェミニズムの本を勧めてきました。実家の本棚にあった上野千鶴子さんや、フェミニストカウンセリングの河野貴代美さん、日本国憲法作成に携わり「両性の平等」を書いたベアテ・シロタ・ゴードンさん……そうした女性の本を読む中で、私が今までムズムズと違和感をもっていたこと、順応して生きなければと思って目を背けていたことが説明された気がしました。

■賢くてコミュ力も高いのに前に出ない「しずかちゃん」

例えば『ドラえもん』のしずかちゃんは、理想の日本人女性像として描かれています。しずかちゃんは賢くてコミュニケーション能力が高い女性です。それを発揮する機会は限られた条件でしか与えられない。彼女がリーダーシップを取る姿はほとんど描かれません。

最終的にはしずかちゃんは、のび太くんと結婚して彼を世話する人になる――彼女自身がそうした選択をすること自体は否定していませんし、そういう女性になりたいと思ったり、幸せに感じる人もいるでしょう。ただ、そういったロールモデルが、私たちが見るメディアや、日常の中や会話で、圧倒的に大多数を占めていることに気づきました。

インタビューに応じる内田舞さん
撮影=プレジデントオンライン編集部
インタビューに応じる内田舞さん - 撮影=プレジデントオンライン編集部

また、私はけっこうコミカルな言動をするタイプなのですが、当時の日本のお笑い芸人は男性がほとんどで、クラスの中での「面白い役」も男子ばかりでした。だから面白いことを思いついても、みんなの前で口にすることを躊躇してしまうこともあったし、一歩引いてしまうところがありました。

そうした無意識のジェンダーバイアスは、日常のいたるところに潜んでいて、気付かないうちに内在化してしまいます。しかも最初は自分の中で反発していたとしても、日々の中でスルーしてしまい、当たり前のものとなってしまう。でも心の中のムズムズは解消したわけではありません。私自身も「理想の女性」に反発を抱きながらも、恋愛の面ではいつの間にか内在化していたわけです。

■「少子化を止めるために女性は働かないほうがいい」

「理想の女性」ではなく、私の面白さや魅力を素直に出したいと思った時に、私は男の子に好かれたいという気持ちがだいぶなくなったことを感じました。誰かから好かれる私ではなく、私は私がなりたい私になるべきだ。周りの男性が全員が恋愛対象外になったとたん、私は本当に私らしくなったと思います。

改めて、自分がどういう人間になりたいのかを考えると、社会の中で誰かを助け、医者になってリーダーシップを取りたい、同時に幸せなパートナーシップを築き、家庭を築きたいとも思いました。

しかし、キャリアの面を考えると、私がいた北海道大学の医学部では、女子学生が圧倒的に少ない。女性の先生も少なく、女性のロールモデルをほとんど見ずに医学部生活を送りました。

さらに同期の男子学生たちは、「日本の少子化を止めるために、女性は外で働かないほうがいい」「医者は力仕事だから、男性のほうが向いている」といった言を日常茶飯事に口にします。

医療現場が力仕事なら、なぜ看護師に女性が多いのかは疑問です。さらに今、3人子供を産んでわかったのは、身体的に負担がかかるのは家事育児だということです。なのになぜ、「力仕事だから家事育児を男がやったほうがいい」とならないのか。

しかし彼らは自らの矛盾にはなんの疑問を持たず、同級生で医者になることが確実な私の目の前でも平気でそんな発言をする。それが「普通」の感覚でした。このような環境の中で、女性の私がリーダーシップを発揮できるとは思えませんでした。

■「専業主婦」か「キャリアウーマン」2択は嫌だ

今は女性を会議に入れろ、リーダーシップに入れろというムーブメントが起きていて、それ自体は素晴らしいと思いますが、男性ばかりの中に女性一人を入れても、その女性は雰囲気を読みながらやっていかなければいけません。圧倒的マイノリティーとして入っていったところで、どれだけ自分の意見を効果的に言えるのかを考えると疑問を持ちます。

またキャリアと家庭との両立も、日本においては難しそうだと感じました。ある有名病院で活躍されている女性のお医者さんの方に「結婚することや子供を産むことはどう考えていますか?」と聞いたところ、「本気で医者として成功したいなら、あきらめたほうがいい」とアドバイスされました。男性医師や、同期の男子からも同じようなことを言われました。

内田舞さん
撮影=プレジデントオンライン編集部

それが当時の日本の現実だったのかもしれません。ですが私には「専業主婦」か「キャリアウーマン」の2択しかないのは嫌だと思ったんです。

どうやら、このまま日本で生活して「普通」の流れの中にいたら、私の目指している仕事と家庭の両立は、非常に難しいようだ。私は、日本を出てアメリカに渡る決意をしました。医学部4年生で、22歳の時です。

■3年かかる試験を4カ月で受けた

さて、医師として働くために、アメリカの医師国家試験に合格しなければならない。そう考えた私は、日本の医学部に在籍しながら、現地の医学生が2年半から3年かけて受ける試験を、4カ月で受けました。

本当に勉強漬けの日々で、多い時期は一日18時間ほど勉強していました。メイクをする時間もなかったし、トイレにも小さい机をおいて勉強して、今だから言えますが、お風呂も4日に1回だけでした。ただかなり無理をしたので、受験後に倒れてしまいました。決して、他人におすすめできるやり方ではありません。ですがとにかく、自分の総合的な幸せを夢見て、日本から出ることを優先したので、この判断に私は後悔していません。

その結果合格し、医学部6年生の時にイェール大学の研修医として採用されました。本当に嬉しく、誇らしかったですね。

■人生で初めて「偏差値35」を取った

ですが、ここで意外な落とし穴がありました。日本での医師国家試験の存在です。アメリカの医師国家試験とアメリカの大学病院で研修医として採用されるための応募書類を用意したり面接したりと莫大(ばくだい)な時間とエネルギーを使っていたため、日本の国家試験の勉強をする余裕が全くなかったのです。英語での医師国家試験に受かったんだから、日本語は受かるだろうと私は高をくくっていたところもあったと思います。しかし、やはり試験というものは、その試験のために準備をしないといい結果は得られません。今だから言える話なんですが、国家試験の1カ月前に模試があって、偏差値35を取りました。

「このままでは落ちる」と本当にパニックになりました。誰にも見られなくなったので、模試の成績をシュレッダーにかけたくらい。今まで見たことのない数字だったので、とにかく驚いてしまったんです。

勉強
写真=iStock.com/kazuma seki
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kazuma seki

「このままでは落ちる」ということは「このまま」という状況を変える以外の選択肢がないと理解しました。そこで、また一日18時間ほどの猛勉強をはじめます。そして、きちんと日本でも国家試験に合格することができました。ただこの方法も他人にはおすすめしません。

当時の私は良く言えば「短期集中型」だったんです。年を重ねていくうちに痛いほど実感したのですが、本当はコツコツやるのが一番いいんですよ。地道な努力に勝るものはありません。

■「史上最年少の日本人研修医」から「劣等生」に…

卒業と同時に渡米し、イェール大学の研修医になりました。日本人としてアメリカで研修医になったのは、私が史上最年少でした。前例がない中、手探りで見つけ出し、自分のために勝ち取ったんだ。そう思うと、本当に嬉しくて、誇らしい気持ちでいっぱいでした。

ところが、アメリカに渡ると、私はいきなり劣等生になってしまいます。なにもサボっていたわけではありません。そこには様々な理由がありました。

まずは日本とアメリカの医療教育が大きく異なっていたこと。アメリカは実践型で、医学部2年生から病棟へ行き、実際の患者さんを見ながら学んでいきます。一方で日本での医学生は、教科書的に知識を学び、国家試験に合格してから、現場に入っていきます。医療教育の良し悪しではありませんが、私に実戦経験が足りていないのは明らかでした。他の国から来ている研修医たちも、基本的には自分の国で数年の現場経験を積んだ人ばかりでした。

■コミュニケーションがうまく取れなかった

次に言葉の壁もありました。アメリカでの国家試験を通ったので、英語での医療用語は頭の中に入っていたつもりでしたが、現場では試験では出てこない略語がどんどん飛び交います。いったい何を話しているのかもわからない状態になりました。

これは医者に限らず、あらゆる新入社員の方がそうだと思うのですが、新人というのはわからないときに、自分がどの段階まで調べたらいいのか、様子を見たほうがいいのか、いま質問すべきタイミングなのかがわからない。今、自分が指導する立場になってみると、疑問を持った時点で聞いてほしいと思います。ですが、「そうは言っても、聞いてしまうのは迷惑なのでは」と思ってしまって、うまくコミュニケーションが取れなかったんです。

また文化の壁もありました。アメリカでは、自分をアピールする必要があります。日本で教育を受けてきた私にはなじみのない文化でした。このアピールとは「自分はこんなことができます!」と主張することではなく、上司に質問をする中で「自分はここまでわかっています」と伝えたり、チームメイトに「私はこう思います」としっかり発言するといった自然なコミュニケーションの中でするものです。

■できないことを「仕方がないこと」と思えなかった

そのことを理解するまでも時間がかかりましたし、わからないことがあってもみんなの前で質問するのではなく、授業後にこっそり先生に聞きに行く文化で育ったので、その場で自分が疑問に思っていることを口にするハードルも高く感じました。

さらに上司と部下の関係も、どのくらいフランクで、どのくらいフォーマルなものか、つかみかねていました。日本だったらなんとなくわかることも、ニュアンスがつかめない。その中で同期のアメリカ人研修医はどんどんいい関係性をつくっている。

だから、最初の1~2年はすごく苦しむことになりました。患者さんがいることですから「できないのはしょうがないね」とはなりません。周囲からも許容されませんし、当然ながら自分自身も許容することはできませんでした。

■指導教官からいじめられるようになった

そんな中、とてもショックなことが起きます。

ある指導教官から意地悪をされるようになったのです。わざわざみんなの前で、私が答えられないような質問を、答えられないような言葉を使ってする。周りの人に「あの研修医は使えない」と言う。私が挨拶しても、返事をしないし、目を合わせない。私の気のせいではなく、意識的にやっているものだとわかりました。

どうしようか悩んだのですが、その指導教官に正直に話すことにしたんです。「私の知識や実践力にビハインドがあるのは事実だし、本当に分かっている。追いつくための努力も必要だし、足りないことを私は認めている。でもあなたから私への対応は、それを超えたパーソナルなものがあると感じる。“Educational for me and not painful for you(私にとっては教育的で、あなたにとっては苦痛のない)”な関係を築きたいと。

■「適性がないのでは」科内で疑いの目が向けられた

結果として、その指導教官から私への攻撃は増すことになりました。さらに私が正直に話した言葉を少し曲げて「自分の落ち度を認めず、指導医を攻撃するような非倫理的(unethical)な人だ」と研修をしていた科内で報告されることになりました。指導教官は自分が報告されるのが怖いと思ったのかもしれません。

私は、研修医としての適性があるのか、科内で審査をかけられることになりました。

黒の背景の医師
写真=iStock.com/kuppa_rock
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kuppa_rock

その時は、否定したいような気持ちでいっぱいになりました。私が能力的にビハインドだったことはありますが、パーソナルな攻撃があったのは明らかだったし、それを周囲の見ている人たちも気づいていた。こんなのインジャスティス(不公正)じゃないかと。嫌で嫌でたまらなかったです。

ですが、こういう状況になったら、もう自分の能力を証明するしかありません。

■「それはもう起きたこと」と受け入れる

心理学には「ラジカル・アクセプタンス」という言葉があります。自分のコントロール外で起きたことを、良い/悪いの評価なしに、「それはもう起きたこと」だとアクセプト(受容)する態度のことです。これは、あきらめることとも、許容することとも違います。事実を否認し、過去を認めないと、精神的に大きく消耗してしまいます。事実を受け止めることではじめて、人は対策を取ることができるのです。

自分の言葉が曲げられたことによって審査される事実は私にとって嫌なことでしたが、そのことは私には変えることができません。私にはその事実を受け入れるしかない。事実を受け入れた上で、私がやることはひとつです。医者としての能力を高めていくことしかありません。

ではどうやったら医者としての自分の能力を高められるのか、あらためて考えてみました。臨床現場でよい判断ができるように医学的な知識を持つこと、患者さんのニーズを理解するためにコミュニケーションをとること、頼まれたタスクをしっかりこなすこと。まったく派手な快進撃ではなく、むしろ毎日のコツコツの努力をする以外ないことに気づきました。それを真摯(しんし)にやり続ける姿を見てもらえばいいんだと。

■「努力をし続けるしかない」覚悟を決めて誓ったこと

科の研修医教育の担当者と指導医を前にして、「成長していくのを見せられるように頑張ります。こういう機会を与えてくれてありがとうございます」とミーティングで私は言いました。この言葉を読んで、降伏したのかと思われる方もいるかもしれません。しかし、実際には真逆で、「みてろよ」と覚悟を決めた瞬間でした。

「渡米したことを後悔したことは一度もない」と言い切る内田舞さん
撮影=プレジデントオンライン編集部
「渡米したことを後悔したことは一度もない」と言い切る内田舞さん。それでも、指導教官からのいじめについては、今も消えないトラウマになっている。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

審査期間は半年ほどでしたが、10人近くの指導教官が私の臨床能力やプロフェッショナリズムなどを審査しました。いじわるだった指導医はその中には入らなかったことも助かり、最初の1カ月半で、私の様子を観察していた科内の人たちが大丈夫だと思ったのか、私のポジションが脅かされることはありませんでした。

むしろ逆境の中、医師として患者さんのためにいい判断をしたり、授業の中で的確なコメントをして、急成長している私を見て、「精神的にも辛いはずなのに、文句を言わずにまい進している」と多くの指導医や同僚の敬意が向けられるようになりました。

ですが、私にとっては、そのあともずっと疑いの目を向けられるのではないか、観察されているのではないかと全く安心できない日々でした。そこでも、正直なところ、「努力を続ける」という選択肢しか私にはなかったと言えます。

■夫、両親、同期、周囲の人が支えてくれた

私がこの危機を乗り越えられたのは、周囲の支えがあったことも大きかったです。

私が審査にかけられた時、今の夫と付き合い始めたばかりの時期でしたが、彼は私を疑うことを一切しませんでした。「なぜあなたは私を疑わないの?」と聞いたら、「知らない誰かの意見よりも、自分の印象のほうがずっと信頼できるから」と言ってくれました。

「周りのサポートが大きかった」当時を振り返り、涙する内田舞さん
撮影=プレジデントオンライン編集部
「周りのサポートが大きかった」当時を振り返り、涙する内田舞さん。この経験をきっかけに「与えられた責任は100%果たすようになった」という。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

また、夫は音楽家なのですが、毎日ひとつの旋律を何十回も練習したり、分析や音楽史の知識を演奏の表現につなげるために勉強し、共演者に「このように弾きたい」と説明している彼の姿を見て、派手な印象のある音楽家の現実はコツコツした努力を積み重ねる毎日だということにも気づかせてくれました。私もできるはずと背中を押されました。

両親も「外国語で研修医をやって、サバイブしている。それだけのことをやっていて、あなたの能力は間違いないんだから、それを証明するしかない」と励ましてくれた。

一緒に学んでいた同期の研修医たちも、誰一人として私の能力や人格を疑うことはありませんでした。海外から来た研修医の方たちは、文化や教育の違いで苦しむこともあるよねと共感してくれましたし、どのように自分の文化を大切にしながらもアメリカで認められる働きをするかについて意見を交換したりもしました。アメリカ生まれの同期は、教科書を一章ずつ一緒に読んで勉強しようと言ってくれ、毎日のように勉強会をしました。周囲の人たちに本当に助けられたんです。

■審査を理由に不採用にする病院もあった

そうしたコツコツした努力を続けた結果、私はどんどん優等生になっちゃったんですよ。研修医3年目、4年目になると「この人に聞け」と周りからも思われるようになりました。

イェール大での研修の修了を目前に、次に行く病院を決める時期になりました。小児精神科医としての専分化した研修を受けるために、いくつかの大学病院の研修プログラムに応募しました。イェール大学からもらった推薦状には、研修初期は適正について疑問を投げかけられたこと、しかし日米のカルチャー的なバリアを超えながら、成長してきたこと、今はどこに行っても間違いない研修医であるといった物語が書いてありました。

私が審査にかけられたことがある事実だけを見て、不採用を決める病院もありました。ですが不思議と、私が行きたいと思うようなところでは、成長したことや、現時点での実力に重きをおいてくれたような気がします。そうして私はハーバード大学医学部。マサチューセッツ総合病院の小児精神科研修医として採用されました。

■状況が改善しなくても思いを伝えることには価値がある

現在私はハーバード大学医学部准教授・マサチューセッツ総合病院小児うつ病センター長として働いています。パートナーに恵まれ、今は3児の母です。

この肩書だけを聞くと、派手な人間のように見えるかもしれません。ですが振り返ると、私を前に進めてくれたのは、本当にコツコツした努力だったなと思います。

指導医については、違う病院に移ったと聞いていますが、その後どうなったのか、いまも臨床をしているかどうか、私には分かりません。

この話を聞いて、ハラスメントを受けた時に指導医に正直な思いを伝えなければよかったのではないか、と思われる方もいると思いますが、私はこのことに後悔はありません。状況としては悪化してしまったかもしれません。

でも、異国の地でいじめっ子に向かって、感情的にならずに落ち着いて思いを伝えられたという経験は未だに私の自信につながっています。また、逆境の中で自分を成長させるためにしたこの期間の努力は、誰にも奪うことのできない私の財産なのです。

誰に何を言われても、「自分はあれだけ努力をしたんだ」と思えることで、揺らぐことのない芯が形成されました。

内田舞さんと夫のジャックさん
筆者提供
内田舞さんと夫のジャックさん - 筆者提供
内田舞『ソーシャルジャスティス』(文藝春秋)
内田舞『ソーシャルジャスティス』(文藝春秋)

渡米してから、本当にいろんなことがありましたが、日本を飛び出したこと自体について、後悔は一度もありません。アメリカの女性像は、とてもバラエティーに富んでいて、「こうしなきゃいけない」という像がなかった。だから自分らしく生きられたと思います。日本で「理想の女性」に合わせて生きていたら、今の夫とも出会えなかったでしょう。

一方で、努力では乗り越えられないことにも、たくさん直面してきました。人種差別や女性差別、個人の力ではどうしようもできない社会のゆがみが世の中には存在しています。社会はムーブメントでしか変わっていきません。いま私が『ソーシャルジャスティス』(文春新書)という本を書き、SNSやメディアで発信しているのも、私自身が社会を変える一助になればいいと思っているからなんですよね。

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内田 舞(うちだ・まい)
ハーバード大学准教授・小児精神科医・脳科学者
小児精神科医、ハーバード大学医学部助教授、マサチューセッツ総合病院小児うつ病センター長、3児の母。2007年北海道大学医学部卒、2011年Yale大学精神科研修修了、2013年ハーバード大学・マサチューセッツ総合病院小児精神科研修修了。日本の医学部在学中に、米国医師国家試験に合格・研修医として採用され、日本の医学部卒業者として史上最年少の米国臨床医となった。趣味は絵画、裁縫、料理、フィギュアスケート。子供の心や脳の科学、また一般の科学リテラシー向上に向けて、三男を妊娠中に新型コロナワクチンを接種した体験などを発信している。

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(ハーバード大学准教授・小児精神科医・脳科学者 内田 舞 聞き手・構成=山本ぽてと)

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