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なぜ「体育の授業で運動が嫌いになった」「大人になってスポーツが楽しい」という人がこれほど多いのか?

プレジデントオンライン / 2023年7月6日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Picturesque Japan

なぜ「体育の授業で運動が嫌いになった」という人がいるのか。神戸親和大学教授の平尾剛さんは「学習指導要領は『生涯にわたって運動に親しむ資質』を育てようとしているが、学校体育はそうなっていない。スキル習得を目指す指導では、『できなさ』が強調され、むしろ運動嫌いを増やしてしまう」という――。

■「休め!」の号令は今の時代に必要なのか

「腰を下ろして休め〜!」と、体育委員が声をかける。それに続いて全員が復唱したあと、「1、2、3!」と言いながらからだを折りたたんで三角座りをする。座り終えたタイミングを見計らって、教育実習生は話し始めた。

とある中学校での体育の授業風景である。

毎年この時期になると、教育実習中の学生を訪ねて中学や高校を訪問する。校長や教頭、指導担当教員にあいさつをするのが主たる目的なのだが、タイミングが合えば学生が行う実習を見学する。そのとき目にしたのが、この光景だった。

この学校では体育委員の号令に応じて整列する風習が続いているという。「回れ右」や「右向け、右」などに従って動く集団訓練は徐々に姿を消しつつある。そう伝え聞いて安心していた矢先、軍国主義を彷彿とさせる様をいざ目の当たりにして胸中は複雑になった。

学校体育の目標は、「心と体を一体としてとらえ、適切な運動の経験と健康・安全についての理解を通して、生涯にわたって運動に親しむ資質や能力の基礎を育てるとともに健康の保持増進と体力の向上を図り、楽しく明るい生活を営む態度を育てる」ことにある(学習指導要領「生きる力」第2章)。

■指示待ち人間を生むだけではないのか

号令の下に全員が一様に動かなければならない集団訓練が、「生涯にわたって運動に親しむ資質」や「楽しく明るい生活を営む態度」を育てると考えられない。親しさや楽しさや明るさは、心身がリラックスできる情況でこそ感じられるもので、決められた動きが強いられる窮屈な雰囲気は、むしろそれらから遠ざかる。

人と人とが寄り添う社会を生きるために集団行動は必要だ。しかしそれは、軍隊のように一糸乱れぬ動きではなく、他者を思いやりつつ自らの行動を決められればそれでいい。置かれた情況を把握し、どのように動けばよいかを自らの意思で決める態度を養成するにはむしろ、「号令に従う」という姿勢は逆効果だ。誰かの指示を待ってしか動けなくなるからである。

■「体育=スポーツ」という思い込み

そもそも体育とは、文字通り「からだを育てること」である。すぐに風邪を引いたり、重い病気にならない健康的なからだを育むのがその主旨で、成長期の子供ならば骨や筋肉や内臓などの発育を促すことがそれにあたる。少し走っても息切れせず、それなりに重い荷物も担げる。椅子に座り続けても腰や肩が痛まない。鼻歌交じりで家事をこなせるし、そこそこの距離なら赤ちゃんを抱きながら歩ける。つまり、日常生活を楽しく明るく送るうえで不可欠な体力を向上させるのが、体育である。

この健やかなからだを育てる体育では、おもにスポーツが行われている。スポーツを通じて結果的にからだが鍛えられ、その使い方もうまくなって体力が向上する。それを見越してスポーツが教材になっているわけである。

跳び箱やマット運動を通じてからだの柔軟性や操作性を高める。陸上競技だと短距離種目なら瞬発的な筋力を、長距離種目ならば心肺機能が向上する。ボール運動は、ソフトボールや野球などの「ベースボール型」、バレーボールやテニスなどの「ネット型」、バスケットボールやサッカーなどの「ゴール型」に分類され、それぞれの競技特性を踏まえながらからだの機能を向上させるために行う。

だからスポーツはあくまでも手段に過ぎない。健やかなからだを育てるためのツールだといっていい。もしスポーツ以外にからだを育てるために有効な手立てがあれば、それを採用したってかまわない。たとえば山に分け入っての昆虫採集、グラウンド横に小屋を立てる、校舎の大掃除など、全身を使って行う運動らしきものならば体育の教材として十分に成立する。健やかなからだを育てるという学校体育の目的に立ち返れば、つまるところそうなる。

私たちは知らず知らずのうちに「体育=スポーツ」だと解釈しがちだが、実はそうではない。両者は似て非なるものであり、そこには手段と目的という明確な違いがある。

■スポーツは「気晴らし」であるべき

ではなぜスポーツが体育の教材になっているのか。からだを育てるためにはスポーツがふさわしい。そう無意識的に私たちが考えているのはなぜか。

スポーツは、「気晴らし」が語源であることからも、本来的には楽しむものとしてある。音楽や美術などと同様に文化的な営みであるといっていい(それをなりわいとするプロスポーツはまた別の側面がある)。からだ全体を使って勝敗を競い合う文化としてのスポーツの目的は楽しむこと、つまり爽快さを味わうことにある。楽しみながらからだを育てることができるという点で、スポーツが選ばれている。

■「運動ギライ」を量産する現在の体育授業

だが現実に目を向ければそうではない。競技力の向上が目的化した体育を苦痛に感じる「体育ギライ」は後を絶たず、それが高じて運動そのものを毛嫌いする「運動ギライ」を生み出している。学習指導要領にある「生涯にわたって運動に親しむ資質」を育てられていない。それどころか運動から目を背ける態度を身に付けてしまっている。運動とはしんどくてつらいもので、できることなら避けたいと望む人たちを量産している。

原因はいくつか考えられる。そのなかからひとつ挙げるとすれば「到達目標の高さ」だ。

たとえばボール運動では、「ボールを持たないときの動き」の習得が求められる。バスケットボールの試合では、往々にして経験者や生来の運動好きな子供たちだけでパスをつなぎがちだ。その傍らには、ただ立ち尽くすしかできない子供が少なからずいる。その子供は、「ボールを持たないときの動き」ができないからパスがもらえない。だから、この動きを身に付けるべく指導を行うようにと学習指導要領には記載されている。

■体育で求める技能のレベルが高すぎる

理論的にはその通りである。異論はない。ただ、バスケットボールと同じゴール型のラグビーを長らく続けた私からすれば、違和感がある。いささか難し過ぎやしないかと思うのだ。

主にパスを受ける役割を担うウイングというポジションを務めていた私は、この「ボールを持たないときの動き」を競技人生の19年間を通じて高め続けた。おおよそどのようなプレーヤーからでも効果的なパスがもらえる程度にまで熟達するのには、10年ほどを要した。だからこの技能を1時間弱の単発の授業を重ねるだけで習得できるとはどうしても思えない。部活動ならまだしも、体育において求められる技能としてはハードルが高過ぎる。

そもそもパスプレー自体が、とても難しい。

ラグビーボールをチームメイトにパスする選手
写真=iStock.com/recep-bg
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/recep-bg

パスの出し手は、ダーツのように静止した的に当てるのとは違い、相手からのプレッシャーを受けながら複数いる味方の動きを予測しつつ、タイミングを見計らって強さや方向を調整しなければならない。また受け手は、ボール保持者の挙動を気にかけつつ、攻撃を阻む相手の陣形を見定めて空いたスペースへと移動し、ここぞというタイミングで声をかけなければならない。つまり出し手と受け手の身体的コミュニケーションが成立しなければパスはつながらない。

■「できなさ」ばかりが強調され苦手意識が生まれる

さらにそこには、技術面に加えて日常生活における人間関係も影響してくる。共に練習を行ってきた勝手知ったるチームメートならパスはつながりやすいが、初対面の人とはそう簡単にはいかない。熟達度やプレーのクセ、また意欲の程度や生来の性格など、互いに相手を知らなければパスはつながらないからだ。

つまりグラウンドやコート内外での関係性もパスという技能の習得には関わってくる。とくに自我が形成途上で、他者と適切な関係を築くことがままならない年代なら、この影響は計り知れない。

「ボールを持たないときの動き」を含むパスプレーは、実に多様な要因が絡み合った結果として成立する。技術的要素のみならず他者との密な連携のうえに構築される技能であり、その習得にはそれ相応の時間がかかる、極めて高度なプレーなのである。

私はこの到達目標の高さが、「体育ギライ」を生む要因ではないかと考えている。

どれだけ挑戦してもできない経験が積み重なり、がんばってもできない自分にはセンスがないと思い込む。「できなさ」ばかりが強調されるなかで苦手意識が生まれ、だんだん楽しめなくなる。そのうち運動習得に不可欠な意欲が減退し、やがてスポーツおよび体育のみならず運動そのものが嫌いになる。

泳ぎを覚えたばかりなのに荒波が立つ海に放り込まれたかのような、そんな過酷さを、当の子供たちは感じているのではないだろうか。

■「できなかったけど楽しかった」経験こそが重要

この悪循環を断ち切るには、いうまでもなく到達目標を下げることだ。

学習指導要領にある「生涯にわたって運動に親しむ資質と能力の基礎」および「楽しく明るい生活を営む態度」を育てる目標を達成するには、「体育は楽しかった」と学校生活を終えることで果たされる。多少のできなさを抱えつつも総じて楽しい経験だったと記憶に残れば、大人になってふとしたときにちょっと運動でもしてみるかと思えるはずだ。

たとえ「ボールを持たないときの動き」ができなくとも、思うようにパスがつながらなくても、取り組み自体が楽しければそれでいい。理解という「結果」が問われる国語や数学などの座学とは違い、体育は、できないことをどうにかしてできるようにと意欲的に取り組む「プロセス」そのものに意味がある。

体育館でバスケットボールの練習をする子供たち
写真=iStock.com/xavierarnau
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/xavierarnau

ああでもない、こうでもないという身体的な試行錯誤を通じて運動感覚は錬磨され、からだの使い方がうまくなって体力がつく。技能が身に付いたかどうかではなく、その習得に向けて悪戦苦闘することそのものが成果となる。

このプロセスを楽しめるレベルにまで到達目標を下げる。これが学校体育を見直すときの大切な視点だ。

■より高度なプレーを求めるならば部活動がある

それでは物足りない、もっと高度なプレーがしたい、さらなる競技力の向上を目指したい――。そう望むのであれば部活動に入ればいい。経験者が幅を利かす空気を緩め、たとえ初心者であっても受け入れられる余裕を部活動につくる。勝利至上主義へと陥りやすい全国大会への過熱を抑え、指導者が初心者指導を身に付ければいい。

懸念される成績評価については、絶対評価を導入する。他者ではなく過去の自分と比較して、どれだけ変化したのかを評価すればいい。その際に用いるのが、数値化できない能力を意味する身体知(しんたいち)という概念だ。

技能を身に付けようとするプロセスにおいて、動き方がどのように変化し、どの身体知が充実したのかを専門家の立場から判断すればいい。ただこれには時間がかかる。数値化できない感覚的な能力を見抜くには、高い専門性を身に付けるとともに、授業以外に子供と接する時間を増やさなければならない。子供一人ひとりに目を向け、身体知をじっくり観察するための時間をつくる。それには、教員にのしかかる授業以外の仕事量をできるだけ減らさなければならない。

■体育の目的はあくまで健やかなからだを育てること

あくまでも健やかなからだを育てるのが体育である。スポーツはその手段に過ぎない。跳び箱やマット運動、ソフトボールやバレーボール、バスケットボールができなくても、卒業後の人生になんら支障はない。支障が生じるとすれば、それは経験則がもたらす「運動は嫌いだ」という感情の方である。できる限りこれを醸成しないような学校体育のあり方を模索しなければならないと、私は思う。

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平尾 剛(ひらお・つよし)
神戸親和大教授
1975年、大阪府生まれ。専門はスポーツ教育学、身体論。元ラグビー日本代表。現在は、京都新聞、みんなのミシマガジンにてコラムを連載し、WOWOWで欧州6カ国対抗(シックス・ネーションズ)の解説者を務める。著書・監修に『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)、『ぼくらの身体修行論』(朝日文庫)、『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)、『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)がある。

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(神戸親和大教授 平尾 剛)

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