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「7年間ずっと満席のまま閉店」伝説のパクチー専門店主が、千葉の田舎に出した「パクチー銀行」の途方もない夢

プレジデントオンライン / 2023年7月10日 10時15分

JR保田駅前にあるパクチー銀行。 - 筆者撮影

香味野菜「パクチー」が日本で広く食べられるようになったのは、この10年ほどのことだ。その火付け役といわれるのが、東京・経堂にあった日本初のパクチー専門店「パクチーハウス東京」。満席続きの人気店だったが、2018年に閉店。その店主は、いま千葉県鋸南町で「パクチー銀行」を開いている。その異色の活動について、フリーライターの川内イオさんがリポートする――。

■「パクチー銀行」を開いたパクチー伝道師

東京駅から千葉方面へ下って2時間20分ほどで、JR内房線の保田(ほた)駅に着く。無人の改札を出ると、最も目立つところに、恐らく誰もが「⁉」と二度見する建物がある。そこには、「パクチー銀行」と記されている。オーナーは佐谷恭(さたに きょう)さん。

パクチー好きなら、彼の名前を聞いたことがあるかもしれない。2007年11月、飲食の経験ゼロで東京・経堂に日本初のパクチー専門店「パクチーハウス東京」を開いた。その理由が、「自分にできることはパーティーと乾杯だけだから」。

当時、一般的ではなかったパクチーをあらゆる料理、デザートに入れる徹底ぶりと、パーティー、乾杯のスキルを存分に活かしたユニークな店づくりで話題になり、なんと、2011年5月から一日も欠かさず満席が続いたという。

そして2018年3月10日、最前線で活躍していたアスリートが全盛期に身を引くように、自らの43歳の誕生日パーティーを最終営業として、満員御礼の記録を更新し続けながら閉店。多くのファンに「出会い」と「思い出」を残したパクチーハウス東京の伝説は幕を閉じた……はずだった。

ところが2022年1月1日、パクチーの伝道師は千葉県鋸南町の保田駅前にパクチー料理を出すカフェ兼ギャラリー「パクチー銀行」をオープンした。取材の日、店先に掲げた「パクチー銀行」の文字を指さした佐谷さんは、「日本銀行券と同じフォント使ってるんですよ。いいでしょ」と言って、ニヤリと笑った――。

※編集部註:「パクチー銀行」は通称で、法人名ではありません。正式名称は「SOTOCHIKU & 89 unLtd.」で、佐谷恭さんが代表を務める「旅と平和」などが運営するカフェ兼ギャラリーです。(7月11日13時5分追記)

オーナーの佐谷恭さん。
筆者撮影
オーナーの佐谷恭さん。 - 筆者撮影

■京大での「楽し過ぎた」4年間

1975年、神奈川県秦野市で生まれた佐谷さんの「パーティー人生」は、浪人中に通っていた横浜の駿台予備校で幕を開ける。

「夏の模試の後、飲もうぜって声をかけたら、僕がいた東大文系スーパークラスの80人中60人ぐらいが参加することになってね。それがすごく楽しくて、月に2回ぐらい飲み会を開くようになったんです。もちろん、親には『勉強で遅くなる』と言っていました(笑)」

迎えた受験の冬、クラスメートの大半が東大を受験するなか、佐谷さんは現役時から志望していた京大を受け、合格した。

京都での佐谷さんは、実に慌ただしい。まず、バックパッカーになって約20カ国を旅した。在学4年のうち、約1年を海外で過ごしたという。さらに、在学中に4つのサークルを立ち上げた。サークルは飲み会とセットのようなもので、いつもその主催者としてジョッキを握っていた。

もともとは「小学生の時に授業で一度も手を挙げたことがない」というほど人前で話すことが大の苦手だったが、次第に慣れていった。「乾杯の音頭次第で、場の雰囲気がガラリと変わる」という実感を得たのも、この頃だ。

旅とパーティーに明け暮れていた佐谷さんにとって、大学生活は「楽しすぎて、やめたくなかった」から、卒業したら1、2年、旅に出ようと考えていた。ただ、就職しないならその理由を両親に説明しなければならない。試しに、DMを送ってきた富士通の面接を受けることにした。

パクチー銀行のメニュー表
筆者撮影
パクチー銀行のメニュー表。 - 筆者撮影

■「いえ、志望してません」

面接当日。「富士通を志望した理由を教えてください」と当たり前のように聞いてきた面接官に、佐谷さんは答えた。

「いえ、志望してません。こういう場面で御社が第1志望ですとぬけぬけと言う人を僕は信用できません。それに、まず大学を出たら会社に入らなきゃいけないっていうその常識から疑った方がいいんじゃないと思っていまして、就職するかどうかまだ決めていないんです」

準備ゼロで臨んだ面接試験で、これは落ちたな、でも別に入社したいわけじゃないからいいか……と思っていたら、なぜかとんとん拍子に面接を突破し、内定を得た。この面接の過程で、「志望してない」という自分を面白がる富士通に興味が湧き、1998年に入社。研修後の配属先は、人事だった。

「やると決めたら、とことんやる」性格の佐谷さんは、「どうせなら社長になろう」と決意。部内で「このプロジェクト担当したい人?」と聞かれれば誰よりも早く立候補し、前のめりで仕事に取り組んだ。その姿勢が評価され、2年目から関西地区の採用責任者に抜擢された。

■富士通を3年で辞めた理由

ところが3年目の夏、退職届を出した。

「採用シーズンのピークが過ぎると本当にヒマで、会社にいなくてもなにも言われないから、毎日公園で昼寝してました。2シーズン責任者をさせてもらったからこそ、そのギャップに虚しくなっちゃって」

退職届を出す前日、高校時代の友人と富士山に登っていた。互いに仕事の悩みを相談しながら登山していたのだが、登頂して下界を眺めていたら自分の悩みなどちっぽけなものだと思い直し、富士山頂で友人に告げた。

「おれ、会社辞めるわ。普段、俺は下から富士山を見てるだろう。でも、富士山に登ったら景色が違うじゃん。下から見てるだけじゃダメなんだよ。違う世界に立たなきゃ」

翌日、課長に同じ話をしたら、「……意味わかんないんだけど。次に何をするか決まってからにすれば?」と言われた。それでも辞意は揺るがなかった。旅と同じで、その先に何があるか分からないから突き進む。

辞めた後になにをするのか特にあてはなかったので、京大で仲良くしていた先輩で、ちょうど佐谷さんが退職した2000年、リサイクルワンという会社を立ち上げていた木南陽介さんに連絡を取った(2014年にレノバに社名変更、2017年に上場)。創業間もない同社の「お手伝い」として加わった佐谷さんは、数カ月働いては長旅に出るという自由度の高い生活に変わった。

パクチー料理をつくるオーナーの佐谷恭さん。
筆者撮影
料理をつくるオーナーの佐谷さん。 - 筆者撮影

■イギリスの大学院で考えた「旅と平和」

しかし、旅を続けているうちに、「旅というテーマで世界を考えたい」と思うようになり、2003年9月、イギリスのブラッドフォード大学大学院に入学する。

同大学は、世界で初めて学問として「平和」を取り上げたことで知られ、130人いた同級生は国際機関や国際NGOで働いている人も少なくなかった。そのなかで、佐谷さんは「旅と平和の可能性」について修士論文を書いた。

「例えば中国と一触即発になった時、中国にいっぱい友だちがいる人は『ちょっとやめてよ!』ってなりますよね。これからの時代は、旅とインターネットによって、個人レベルのつながりが平和への一歩になると思ったんです。日本人は外に出たがらない人も多く、外の世界に興味がない。その日本人の気持ちを1ミリずつでも動かすことができたら平和につながるんじゃないかと」

日本人のパスポート保有率は、現在も17.8%(2022年度)に過ぎない。引っ込み思案の日本人がもっと海外を身近に感じられるようにするために、メディアを活用すればいいと考えた。

イギリスの大学院は1年で終わる。修士論文「旅と平和」を書き終えた2004年8月、偶然にも堀江貴文氏率いるライブドアが報道部門を新設し、スタッフを募集するという求人広告を目にした。同年に起きた近鉄とオリックスの球団合併とその買収にまつわる騒動以来、ライブドアに興味を持っていた佐谷さんは、「おもしろそう!」とすぐに応募し、採用された。

■「自分にできることは、パーティーと乾杯だけ」

ライブドアでは、大手メディアにほとんど取り上げられないようなジャスダック上場企業の社長やNPOの代表者のインタビューをして記事を書いていた。仕事は充実していたが、なにかと「事件」の多い会社だった。2006年に結婚し、子どもができたとわかるとひとりで勝負しようと腹をくくった。

「子どもと同じように、自分も成長したい。僕が思うような形で自分の経験を社会や世界に還元するには、自分でやるしかない」

この時も、特にやりたいことがあったわけではない。独立を決めた2006年の10月から、ライブドアの報道部門が不採算を理由に閉鎖される2007年3月までの半年間、佐谷さんはなにをしようか、なにができるか、じっくり考えた。

パク塩
筆者撮影
独自に開発した「パク塩」。 - 筆者撮影

その時に改めて実感したのは、「自分にできることは、パーティーと乾杯だけ」。実は、社会人になってからもパーティーの主催を続けていた。それは単純に楽しいという理由ではなく、年齢、性別、所属を超えてポジティブな雰囲気なるパーティーには価値があると確信していたからだ。

いいパーティーは、偶然生まれるものではない。主催者として数えきれないほどの乾杯を重ねてきた、そのノウハウとスキルを活かすには、どうしたらいいか。当初は飲食店の定休日にお店を借り上げ、「旅と平和」をテーマにゲストを呼んで、その活動を支援するファンドレイジングパーティーを開催するビジネスを考えた。

事業化を目指し、飲食業界の構造を学ぼうと手始めに30冊ほど関連書籍を買い込んだ。回転率というケチな発想に、まず絶句した。さらに当時のトレンド、膝をついて注文を受ける「膝つき接客」についての解説や顧客との距離を置く日本の飲食業の独特のスタイルが「常識」とされる業界に「従いたくない」と感じた。

■パクチーの潜在需要

それ以来、飲食業界の課題が目につき、「自分ならこうする」というアイデアがいくつも浮かんでくるようになった。それが数カ月続いたある日、意外な言葉が舞い降りてきた。

「自分でやっちゃえば?」

脳裏に浮かんだこの言葉が、背中を押した。

「僕はいつも飲む側で、飲食店で働いたこともないし、最初はちゃんちゃらおかしいと思ったんだけどね。飲食業ってシンプルだし、初めてやる商売として悪くないかなと思ったんです」

飲食店を始めるとして、なにを出すのか。そこに迷いはなかった。パクチーだ。

パクチー
筆者撮影
料理は独学で身に着けた。 - 筆者撮影

「初めてパクチーを食べたのは、カンボジアです。大きく育ちきった太いパクチーを鍋で煮る料理があって、ぜんぜん噛み切れないし、とんでもなく強烈な味がしました。なんでこんなの食べるんだろうと思っていたんですが、その後、旅先のあちこちでパクチーを食べたらすごく爽やかなやさしい味わいで、ビックリしたんですよね。最初のインパクトと味のギャップでパクチーにはまりました」

パクチーの魅力にとりつかれた佐谷さんは2005年、日本パクチー狂会を設立。当時まだ珍しい食材だったパクチーを全国に広めようと、足を運んだ飲食店でパクチーの宣伝に努め、友人知人には種を渡して自家栽培を促した。

この活動をしながら、「日本には意外なくらいパクチー好きが多い。でも、パクチーがあるべきところにない」という潜在需要を感じていた。食材といえばパクチー以外なにも知らなかった佐谷さんにとって、ほかに選択肢はなかった。

パクチー
筆者撮影
パクチー銀行で使うパクチーは長野県の生産者から仕入れている。 - 筆者撮影

「知り合いの中小企業診断士や外食コンサルタントに話したら、みんなパクチー専門店なんてありえないという反応だったんです。一般的なビジネスで成功してから趣味でやれと言われました。でも、すべての料理にパクチーを入れたパクチー専門店はほかにない。雑誌に取り上げてもらったりして、2年ぐらいなんとか持たせれば、食事の提供だけじゃない僕ならではの店づくりも浸透して、ファンになってくれる人も増えるんじゃないかと思いました」

■パクチーハウス東京の理想

2007年3月、ライブドアを退職。飲食店開業の準備を進めながら8月9日、「パク」の日に株式会社「旅と平和」を創設し、同年11月、東京の経堂にパクチーハウス東京を開いた。

開業資金にはライブドアの退職金のほか、佐谷さんの事業構想に共感した24人から集めたひと口10万円、計300万円の協賛金を充て、総額890万円をつぎ込んだ。佐谷さんならではの店づくりとは、次のようなコンセプトだ。

「パクチーハウスに来たら今まで知らなかった知識が得られるとか、友情ができるとか、そういう『交流する飲食店』にしていこう」

理想は、ゲストハウスの共有スペースに宿泊者が集い、どこがよかった、あの店はおススメという情報共有が始まって、それをきっかけに行動を共にするような出会いが生まれること。

そのために、コミュニケーションが生まれる仕掛けを仕込んだ。例えば、あえて客席の間に仕切りを設けず、隣席と密着したレイアウトにした。これは、「隣席の楽しい話が耳に入ったり、隣席の人が珍しい料理を食べているのを見て、思わず話しかけること」を期待したものだ。

料理も、パクチーだけのかき揚げ「パク天」、注文時に舌を噛みそうな「パクパクピッグパクポーク ビッグパクパクパクポーク」(豚バラやわらか煮込み~中華風ソースのパクチーのせ)、「パク塩アイス」など、隣席の人が注文するだけで気になってしまうネーミングと内容にした。

オーナーの佐谷さん。
筆者撮影
パクチーハウス東京では次々にユニークな手を打った。 - 筆者撮影

■忘れられない女性客

店を開いてからも、どんどん新しいアイデアを取り入れた。ビールが1リットル入る「メガジョッキ」はあまりに目立つため、立派なコミュニケーションツールになった。満席時に来店した人のために、店の一番目立つ場所に用意した立ち飲みスペースでも、お客さん同士が自然と話をするようになった。見知らぬ他人との楽しい会話を求めて予約席で1次会、立ち飲みスペースで2次会をする人もいた。

パクチーのパクにかけて毎晩8時9分には、佐谷さんの呼びかけで、全員で乾杯した。そのコール「ビラビラビーラ! パクパクパク!」は、スウェーデンの乾杯の際に行われる音頭をパクったもので、客席は大いに盛り上がった。

さらに営業時間中、佐谷さんはビールを持って客席をまわり、乾杯しながら「元気? 仕事なにしてるの?」と話しかけた。そこから隣席にも会話を振り、お客さん同士をつなげていった。

「面白くない人っていないんですよね。ただ、それを表現する場所がない。だから、パクチーハウスはとにかく自由な雰囲気にして、ここなら自分を出していいんだという安心感のなかで、楽しんでもらいたかった」

佐谷さんには、忘れられないお客さんがいる。ある日、ひとりの女性客にお礼を言われた。

「転職しました。パクチーハウスのおかげです」

その女性の話を聞いて、驚いた。初めて来店した時、満席で立ち飲みスペースに案内されたという。すると、先に立ち飲みスペースで飲んでいた4人組の男たちが大声で仕事の話をしていて、最初は「うるさいな」と迷惑に感じていたそうだ。そのうちに「どう思います?」と話を振ってくるようになり、仕方なく応じながらも、「うざい」と思っていた。ところが、男たちの「仕事がいかに楽しいか」という話が頭から離れなかった。

自分は安定した仕事で、不満もない。1年に3回、海外旅行に行って、プライベートも充実している。でも、仕事を楽しむってどういう感覚なんだろう……? 帰宅後、改めて自分のキャリアを見つめ直した女性は、しばらく後に転職。その報告をしに、パクチーハウスに寄ったのだった。

「本当にやりたい仕事を見つけ、転職したのでお礼を言いに来ました」

オーナーの佐谷さん。
筆者撮影
パクチーハウス時代の思い出を昨日のことのように語る佐谷さん。 - 筆者撮影

■東日本大震災後に予約が急増

佐谷さんが経営する「旅と平和」は、決して順風満帆だったわけではない。2010年8月に開いたジビエ焼肉店「鳥獣giga」は不振を極め、半年で閉店。社員のリストラもせざるを得なかった。ジビエ焼肉店と同時期に開いた東京初のコワーキングスペースもまだ利用者が少なく、コストがかさんで翌年の東日本大震災直後には債務超過に陥りかけた。この危機を救ったのが、パクチーハウスだ。

「震災の後、自粛ムードがありましたよね。月に10回飲食店に行っていた人が週1回になったら、特徴のある店を選ぶでしょう。パクチーハウスは珍しいメニューだし、お客さん同士が話をする変わった店というのも知られるようになっていたせいか、一気にお客さんが増えました。特にひとりで来るお客さんが多かったですね」

震災後、心細い思いをしていた人も少なくないだろう。きっと、パクチーハウスの「交流」がもたらす温かみと安心感が求められたのだ。そして、その居心地の良さを知ったお客さんが次々とリピーターになり、前述したように、2011年5月から連日、予約で満席になった。

「店を開く時は、タイフェスティバルで知り合ったタイ人のおばちゃんに相談して、毎週10キロ用意できる農家さんを紹介してもらいました。パクチーの流通がほぼない時代だったので、使用量が徐々に増え、調達に苦心していました。全国にパクチー農家を徐々に増やし、店が予約でいっぱいになってからは1日8キロ、年間2.5トン使いました」

これだけの人気店になると、当然、フランチャイズのオファーも来る。しかし、「自分がやりたいのは、パクチーを通して人がつながる場所づくり。それをノウハウ化してほかでやっても薄まるだけ」と考えて、経堂の単独店舗にこだわった。

パクチー料理。
筆者撮影
慣れた様子で鍋を振るう。 - 筆者撮影

■前代未聞の「無店舗展開」

2016、2017年ごろ、大手食品会社がこぞってパクチー製品を出したことがある。そして今では、スーパーでも当たり前に置かれるようになった。無名の食材だったパクチーをメジャーに引き上げたのは、パクチーハウス東京だと言われている。

それほどの影響力を持ち、連日連夜の大入り満員を続けながら、佐谷さんは2018年3月10日に、店を閉じた。その理由のひとつは、ある日、不安を感じなくなっている自分に気づいたから。それはイコール、挑戦していない証しでもある。

「僕は子どもたちが20歳になったらひとり立ちしてもらうつもりなんだけどね。これからの日本の大変な未来を考えたら、店を順調に経営したまま息子、娘を荒波に放り出すのは無責任じゃないかと思って。妻が長男を身ごもった時、子どもと同じように成長したくて独立を決めました。同じように、僕がチャレンジし続ける背中を子どもに見せたほうが、これからの苦難の時代に対応できるんじゃないかと思ったんです」

佐谷さんが新たに始めたのは、「無店舗展開」。パクチーハウスのポップアップだ。パクチーハウス東京やコワーキングスペース、35歳の時に始めたマラソンを通して日本全国に友人、知人ができた佐谷さんは、そのツテをたどって各地でパクチーハウスのポップアップイベントを開催した。すると、それまでパクチーハウス東京では縁が薄かった高齢者に何度も「こんな楽しいの生まれて初めて」と言われた。その声を聞いて確信した。

パクチー料理
筆者撮影
地元でとれた猪の肉を使った「猪パク」(890円)。 - 筆者撮影

「うちは料理を出していたんじゃなくて、思いがけない交流から友情が生まれ、そこからまた新たなつながりをもたらす場でした。店舗があった時は経堂に来られる人しかその交流を体験できなかったけど、僕が足を延ばす先々で同じような場を作ったほうがいいと思ったんです。パクチー料理専門店で儲けることは誰でもできるけど、田舎のお年寄りにパクチーを食べてもらい、人生に刺激を与えてあげるのってそれよりずっと大事じゃないですか? 僕がいなければパクチーを食べなかったかもしれない人に、パクチーを届けたいんです」

■信用金庫の跡地を見つけて

この「無店舗展開」をしているなかで心惹かれたのが、千葉県の鋸南町。「田舎暮らしに興味もなかったし、二拠点生活するつもりなかった」そうだが、知り合いから呼ばれて二度訪問すると、不思議と町に「場の力」を感じた。

それから何度か遊びに行くようになり、できたばかりの知り合いとの話の流れでひとつの物件を借りることになった。450平米ある広々とした建物で、家賃は東京では考えられないほどの格安。2019年10月、ここを改装し、アーティストのレジデンスとコワーキングスペースを融合した施設「鋸南エアルポルト」としてオープンした。

しかし、契約開始の直前に巨大な台風15号が千葉の房総半島に直撃。さらに半年後には新型コロナウイルスのパンデミックが起こり、「鋸南エアルポルト」に人を集めること自体が難しくなってしまった。

それでも佐谷さんは、東京湾を横断する東京湾フェリーで鋸南町に通い、東京で1週間、鋸南町で1週間という二拠点生活を続けた。

その時に駅前の建物を片付けているのを見て気になり、知人に尋ねたところ、「信用金庫の跡地なんだけど、金庫があるから誰も借りてくれないんじゃないと大家さんが心配している」と聞いた。その瞬間、閃いた。

「2005年に日本パクチー狂会を設立してからずっと、希望者にパクチーの種を渡して育ててもらう活動をしていて、やがてその活動を『パクチー銀行』と呼ぶようになりました。僕がここ借りて『パクチー銀行』という看板を掲げたら話題になって、この町が盛り上がるきっかけになるかもしれないと思ったんですよ」

のぼり
筆者撮影
パクチー銀行内に掲げられているのぼり。 - 筆者撮影

■グラミン銀行を意識して始めたパクチー銀行

パクチー銀行は、土地などの担保を持たない貧困層に融資をする、バングラデシュで生まれた「グラミン銀行」を意識した活動だ。

なにをするにもお金が必要な現代にあって、自分で種から育ててパクチーを食べるという行為は、お金を必要としない。便宜上「銀行」という名前を付けているが、返済も不要。ギブ・アンド・テイクではなく、種をギブすることによってパクチーを広めてほしい、さらにこの小さな活動が資本主義の次の経済について考えるきっかけになればという壮大な思いが込められている。

パクチー銀行は全国に広まっていて、約30の「支店」がある。そこで育ったパクチーの種を集めてさらに配るという活動を通して、佐谷さんの蒔いた種はあちこちで芽吹いているのだ。

信用金庫の金庫が今も残っている
筆者撮影
信用金庫の金庫が今も残っている。 - 筆者撮影

前述したように、佐谷さんは元信用金庫の物件を借り上げ、2021年1月1日、「パクチー銀行」をオープン。月に数回、各地でパクチーハウスのポップアップなどを行い、週末を中心に鋸南町のキッチンに立っている。店内には貸しギャラリーもあり、アーティストの作品展示も行う。

週末は近くの鋸山に登る観光客が保田駅を利用するため、お客さんも増える。ゴールデンウイークには3日連続で70名前後のお客さんがきて、大忙しだったそうだ。

信用金庫跡地にパクチー銀行を立ち上げた
筆者撮影
パクチーの種を無担保で「融資」する。しかも「返済不要」だ。 - 筆者撮影

■再び「あり得ない」を覆す

パクチー銀行は、パクチーハウスの「交流する飲食店」というコンセプトを引き継ぎ、地元の人とお客さんをつないでいる。たまたま来店したある若者は、次の電車で帰るつもりが佐谷さんに誘われて交流会に参加し、コワーキングの利用者であるモンゴル人の経営者と打ち解けて、その人の家に3泊した。その10日後、その経営者が商品の買い付けでモンゴルを訪ねる時には同行したそうだ。

佐谷さんは今、こういった交流を促すだけでなく、これまでにない野望に燃えている。

「ここを圧倒的に面白い町にしたいんですよ。この町にはローカルチェーン以外のチェーン店がない。それってチャンスだと思うんだよね。便利さを売りにせず、ローカルの人たちが自分たちの手を動かす感じで町を作っていく。それを見てなにか普通じゃないことに反応する人たちが集まってくれば、町が変化し始めると思うんですよ」

なぜ、縁もゆかりもなかった鋸南町にそこまで肩入れするのだろうか?

「東京や都市部と違って、ここには遊びができる余白がいっぱいあるんですよ。鋸南町に通い始めてからそれを知って、なんだこれは、最高だなと。それに、僕が住む世田谷だと94万人のうちのひとりに過ぎないけど、鋸南町なら7400人のうちのひとりで、インパクトを出しやすいでしょ。通っているうちに鋸南町の人の優しさに触れ、愛着も湧いてきましたし」

店の前に植えられたパクチー
筆者撮影
店の前に植えられたパクチー。 - 筆者撮影

鋸南町を「圧倒的に面白い町」にするためのカギを握るのが、鋸南町に興味を持ち、定期的に通ってくれる人と、人に関心を持って移住してくる人。そういう人を増やすために、佐谷さんは2022年夏、平家との戦に敗れて安房(房総半島)に逃れ、そこから再び勢力を拡大した源頼朝の足跡を巡る総距離210キロのランニングイベント「安房ウルトラシャルソン」を企画するなど、さまざまな取り組みを始めている。

かつて「あり得ない」と言われながら飲食店の経験ゼロでパクチーハウス東京を成功させた男は、再び「あり得ない」を覆そうとしているのだ。

「この町の高齢者の人たちはいつも、ここの商店街は昔、肩がぶつかるぐらい人が歩いてたって言うんですけど若い人、外の人はそんなわけないって疑っているんです。それならまた、自分たちの力でそうしようよって」

オーナーの佐谷さん
筆者撮影
鋸南町のふるさと応援団も務める佐谷さん。 - 筆者撮影

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川内 イオ(かわうち・いお)
フリーライター
1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」の実現を目指す。著書に『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(ポプラ新書)、『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(文春新書)などがある。

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(フリーライター 川内 イオ)

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