いつ潰れてもおかしくない「零細商店」なのに…ワコール創業者が優秀人材を採用するためにやったある方法
プレジデントオンライン / 2023年7月20日 9時15分
■「近江商人」の名門・塚本家
まず、ここで塚本幸一の生い立ちと、彼の中に流れる近江商人の血について少し触れておきたい。
塚本幸一は大正9年(1920)9月17日午前8時、宮城県仙台市で、父粂次郎、母信の長男として生を享けた。
両親ともに近江の出身だが、近江商人は様々な土地に進出しており、仙台もその一つだった。
彼らは地方にビジネス上の本拠を置いても、近江の屋敷を残し、二重生活をしている者が多い。そうすることで近江商人の伝統は途切れず、人材は再生産されていったのだ。塚本家もそうした近江商人の一族だった。
近江商人の中でも塚本一族はとりわけ名門だった。すぐ途絶えた家もあったものの、子孫はおおむね代々家と名前を継承していった。
粂次郎は商才に恵まれていたが、父親である初代粂次郎同様、一攫千金を夢見て一か八かの賭けを好むところがあった。従兄弟たちと一緒に三品(綿花、綿糸、綿布)の先物相場に手を出し、一時は大きく儲けたが、やがて致命的な損失を出し、塚本商店から追い出されてしまう。
粂次郎は妻信や二人の子を信の実家である近江八幡の岡田家に預かってもらい、文房具、呉服などの商売を経て、幸一が小学校4年生の2学期、家族を仕入れ先の集まっている京都に呼び、北野天満宮近くに店舗兼住居を構えた。
■ワコールのもとになる「和江商事」を設立
幼い頃から商人になると心に決めていた幸一は、躊躇することなく滋賀県立八幡商業学校に入学した。ジャーナリストの大宅(おおや)壮一(そういち)が“近江商人の士官学校”と呼んだ商業学校の名門である。後年、人に出身地を聞かれると“近江八幡”と答えるのを常とした彼の原点がここにある。
昭和21年6月、インパール作戦の生き残りとして5年半ぶりに帰還し、本格的に商売を始めようと思った塚本幸一は、商号を定めることにした。それが今日のワコールのもとになる和江商事(わこうしょうじ)だった。
“商事”とえらそうな名前をつけたが個人商店にすぎない。だからしばらくの間は、幸一も社長ではなく“大将”と呼ばれていたし、社員でなく店員であった。
和江はもともと父粂次郎の雅号である。江州(ごうしゅう)(滋賀県)出身だった粂次郎が、“江州に和す”という意味でつけたものだが、“長江(ちょうこう)(揚子江(ようすこう))で契りあった和”とも読める。幸一は長江をさかのぼり、中国の歩兵第六〇連隊に配属された。戦友たちの失った命の分まで頑張っていくと誓った思いを社名に込めたのだ。
■幸一は自分の決意を社内外に宣言した
昭和21年(1946)7月、幸一は模造紙に「和江商事設立趣意書」なるものを筆で書いて自宅の玄関に貼りだした。彼は面白い男で、自分の決意を社内外に宣言するということを生涯好んだ。
“道義地に落ち、人情紙の如く”とは、幸一が帰還したその日に遭遇した、派手な化粧をした女性が米兵と抱き合っていた護国神社の光景であり、法律などおかまいなしに本音がぶつかり合っていた闇市であり、何より戦地で命がけで戦ってきた者への冷遇に対する怒りであった。
敢えて復員者を集めて商売を始めたことを明らかにし、同時に、婦人洋装装身具卸商として女性のために働くことを高らかに宣言したのである。
■さらに儲けるためには、優秀な社員が必要
彼は模造真珠のネックレス以外にも、竹ボタン、竹に刺繍(ししゅう)張りのブローチ、金唐草(きんからくさ)革財布、ハンドバッグ、キセルなどを山と担ぎ、化粧品や装身具の小売店に飛び込んで売り歩いた。
規制品以外を扱っていたから闇とは言えないが、こうしたものを男子一生の仕事にしようと考える者は少ない。
戦友たちも復員後の生活に困っていたから、幸一の呼び掛けにすがるような思いで集まってきてくれたが、しょせん腰掛けとしか思っていない。そのうちほかに仕事を見つけ、一人減り二人減りしていった。
さらに儲けるためには、優秀な社員が必要だ。
そこで目をつけたのが妹富佐子の夫である義弟の木本(きもと)寛治(かんじ)である。当時、幸一の母校でもある滋賀県立八幡(はちまん)商業(しょうぎょう)学校(現在の八幡商業高等学校、略称・八商)の学生部長をしていた彼を熱心に誘った。
だが木本は、
「いずれは行きます」
と繰り返すだけで、なかなか首を縦に振らない。
それはそうだろう。身内だけに当時の和江商事の台所が火の車であることは熟知している。戦前、大阪の商社に勤めていた木本であればなおのこと、一生を託して入社するのは難しかったのだ。
■八幡商業55期生の同窓会での出会い
そんな折、幸一たち八幡商業55期生の同窓会が行われた。
昭和22年(1947)8月、戦後初めてのことだった。出席者はわずか十数名。出征直前の同窓会で顔を合わせた同級生も、その多くが帰らぬ人となっている。当然のことのように、献杯で始まる会となってしまった。
この時、川口(かわぐち)郁雄(いくお)という同級生と再会する。柔道部の猛者(もさ)で、学生時分からたばこを吸い、けんかで停学になったこともある乱暴者だが、その一方で大変な働き者であった。
実家が新聞販売店をしていたのだが、毎朝2時に起きて近江八幡駅に配送されてきた新聞を自転車に積んで12キロ離れた八日市(ようかいち)まで運び、少し仮眠した後、学校に行って柔道の朝練をし、放課後にはまた柔道の稽古をして、夕刊の配達を手伝う。まさに驚異的な体力と根性の持ち主であった。
そんな川口は八幡商業を卒業後、三菱重工京都機器製作所に入社したが、わずか半年で召集を受け、戦後、職場復帰して給与計算の部署で働いていた。
■「鶏口となるも牛後となるなかれ」の精神
学生時代はほとんど口をきいたこともなかったが、この際そんなことは関係ない。とにかく人が欲しい。八商出身なら即戦力になることは疑いなしだ。大企業である三菱重工で働いている人間を和江商事に勧誘することが無謀極まりないことなどはなからわかっているが、最初からだめだと諦めてしまっては何も起こらない。
彼は本気で川口を口説き始めるのだ。
一方の川口は、幸一の変貌ぶりに驚いていた。軟派な二枚目の優男だったはずの彼が、テキヤの親分のような迫力を身につけている。
もともと八幡商業には“鶏口(けいこう)となるも牛後(ぎゅうご)となるなかれ”という精神が横溢(おういつ)していた。2人で一から新しいものに挑戦することに心惹かれ、驚くなかれ川口は、零細個人商店である和江商事への入店を決意するのである。
次に狙いをつけたのが、同じ八幡商業の同級生の中村(なかむら)伊一(いいち)だった。
とは言っても、それは川口の勧誘を始めた1年後のことである。
中村は同窓会の時、まだ復員していなかった。酷寒の地シベリアに抑留されていたからだ。きっかけをくれたのは義弟の木本寛治だった。何度誘っても入社を承知してくれない木本が、自分の代わりにと紹介してくれたのが中村だったのだ。
中村も川口と同じく八幡商業柔道部に所属していたが、タイプはまったく違った。まじめで誠実、しかも勉強家。絵に描いたような好青年である。八幡商業時代の成績はずっと学年5位以内をキープし、首席で卒業した。
■「事業は人だ! 自分より学力のある偉い人物が必要だ」
貧しい母子家庭に育ったが周囲の助けがあり、横浜高等商業学校(現在の横浜国立大学)、東京商科大学(現在の一橋大学)へと進むことができた。栄養不足から来る脚気で大学を1年休学したことを除いては、幸運な学生時代を過ごすことができたと言えるだろう。
だが時代が彼を翻弄(ほんろう)していく。エリートの特権として学生の間は兵役免除のはずだったが、学徒動員によって満州に渡り、幸一同様、生死の境をさまよう経験をする。
敗戦後もソ連に抑留され、酷寒の捕虜収容所で餓死寸前の状況に置かれた。
帰国も遅れ、昭和22年(1947)12月1日になって、ようやく引揚船で舞鶴港に到着。就職先がすぐに見つからず、とりあえず翌年の3月から八幡商業の臨時教員をして糊口(ここう)をしのいでいた。つまり木本とは職場の同僚というわけだ。
経営者の中には、自分がリーダーシップを維持し続けたいがために、自分を凌駕しそうな人材をそばに置かないケースもあるが、幸一は違った。
「事業は人だ! 自分より学力のある偉い人物が必要だ」
というのが口癖だった。
そしてその“自分より学力もある偉い人物”こそ、中村伊一その人だったのである。
■背中を押した「占い師のひと言」
この時、中村には同じ八幡商業の同級生が経営する、もっと規模の大きい会社からの誘いがあった。それは実家に近い近江八幡に本社を持つ、滋賀県下でも有数のゴム靴卸商だった。
中村は悩んだ。そのゴム靴卸商との間で迷っているわけではなかった。もうこの段階で、その会社に行く気はほぼなくなっている。ただ彼がずっと抱き続けていた、学問の世界に進みたいという思いを諦めるかどうかで悩んでいたのだ。
今はすぐに難しくとも、世の中が落ち着けば、再び学問の世界に進む道が開けるかもしれない。しかし一方で、中村家の大黒柱として稼がねばならないという思いもある。
その時彼はふと、以前、滋賀県八日市(ようかいち)で評判の八卦見(はっけみ)に占ってもらった時のことを思い出した。彼は後々まで占いや方位学などを重視しており、その萌芽がすでにあったのだ。
八卦見はこう言っていた。
「教育界に進んだら大学教授になれるかもしれん。じゃが、あんたには世俗的なところがある。一番向いているのは財界の巨頭と言われるような人間の側近としての仕事やろう」
いくらなんでも、当時の幸一が将来“財界の巨頭”になるなどと思うはずがない。だが“あんたには世俗的なところがある”という言葉が、商いか学問かで迷っていた中村の背中を押した。
こうして中村もまた、幸一と一緒に働く道を選ぶのである。自分の進んでいる道に間違いがないことを、中村の入社を通じて確認できた気がした。
■夜行列車を乗り継ぎ、北海道の販路を開拓する
人材が、しばしば“人財”と表現されるように企業にとってのかけがえのない宝だとするならば、川口と中村は幸一が手にした最初の宝であった。
川口は入店するやいなや、猛烈な勢いで働き始めた。
夜行列車の乗り継ぎをものともせず、北海道の販路開拓に乗り出したのだ。青函連絡船では一番安い船底の三等船室に寝る。衛生状態が悪いためシラミを移され、寒い北海道なのに慌てて下着を捨てるといった災難にも遭ったがめげなかった。
北海道の市場は処女地に近い。
「京都から来ました」
と言うと、遠いところからやってきたことへの同情もあって10軒に1軒は買ってくれた。
夜行だと京都に明け方帰ることもしばしばだったが、運悪く警官の職務質問に引っかかると大変だ。いかつい身体なのに、カバンには模造真珠のネックレスが入っている。いかにも怪しいということでしつこく尋問され、9時を待って会社に電話を入れ、ようやく“釈放”してもらったことさえあった。
■資産を整理し直し、近代的な経理を導入
川口から少し遅れて入った中村も負けてはいない。
粂次郎から帳面づけを引き継ぐと、塚本家の家計と和江商事の経理が一緒になっていることに気づいた。個人商店にありがちなことだ。まずはこれを分離し、その上で和江商事の資産を整理し直し、近代的な経理を導入した。これで資金繰りがはっきりとわかるようになった。
中村が感心したのは、経費の水増しなどが一切なく、思った以上に帳簿がしっかりしていたことだ。幸一も八幡商業で経理の基礎は学んでいる。我流だったが月に1回店を休んで棚卸しをするなど彼なりに一生懸命やってきたのだ。
幸一の商売に対する真摯(しんし)さに好感が持てた。
中村の経理・財務の知識は一流であり、川口の営業力は時として幸一をもしのいだ。
彼らの能力の高さは、社員が1万人ほどになり、グローバル企業となったワコールの副社長として問題なく通用したことでも証明されている。
■中村と川口が仲良くなることは一切なかった
この3人の出会いは、『三国志』の中で劉備(りゅうび)玄徳(げんとく)が、関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)と桃園(とうえん)の誓いを交わす場面のようなドラマチックで運命的なものだが、実際には三国志の3人とは少し違う、微妙な人間関係があった。
参謀役の中村に対して現場で汗をかく川口。時として冷たいとも言われた中村に対して人情家で知られた川口。入社以来、何かと比較されることとなったこの2人の間には、性格の違いもあってしばしば見えない火花が散った。中村と川口が仲良くなることは一切なかったのだ。
女性は嫉妬深いと言うが、男性の嫉妬は女性以上に根深く妥協がない。
どちらがナンバー2であるかをめぐって激しいライバル心をむき出しにするのを、幸一は敢えて見て見ぬふりをしていた。トロイカ体制というのは3人が力を合わせる図式のはずだが、幸一が中村と話すときは中村とだけ、川口と話すときは川口とだけで、3人で会議というのはまったくなかった。
当然、幸一も気を遣う。中村と2人で、あるいは川口と2人で飲みに行くことはできない。後に祇園に入り浸るようになるのは、あるいはこの2人との関係があったからかもしれない。
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作家
1960年、愛知県名古屋市生まれ。富士銀行入行。資産証券化の専門家として富士証券投資戦略部長、みずほ証券財務開発部長等を歴任。2008年にみずほ証券退職、本格的に作家活動に入る。著書に『白洲次郎 占領を背負った男』(第14回山本七平賞受賞)『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』『吉田茂 ポピュリズムに背を向けて』(以上講談社)、『松下幸之助 経営の神様とよばれた男』『小林一三 時代の十歩先が見えた男』『稲盛和夫伝 利他の心を永久に』(以上PHP研究所)、『陰徳を積む 銀行王・安田善次郎伝』(新潮社)、『胆斗の人 太田垣士郎 黒四(クロヨン)で龍になった男』(文藝春秋)、『乃公出でずんば 渋沢栄一伝』(KADOKAWA)、『本多静六 若者よ、人生に投資せよ』(実業之日本社)などがある。
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(作家 北 康利)
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