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あれほど「体育」が嫌いだった僕が、「ひとりで走ること」を人生の最大の楽しみにするようになったワケ

プレジデントオンライン / 2023年7月17日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ninikas

評論家の宇野常寛さんは、学生時代、走ることが大嫌いだった。だが、今は人生の最大の楽しみのひとつになっているという。いったいなにがあったのか。宇野さんの著書『ひとりあそびの教科書』(河出書房新社)より紹介する――。

■体育が嫌いだった僕が走ることにハマった理由

10代のころは、身体を動かすことが基本的に嫌いで、特に走ることが大嫌いだった。運動やスポーツが好きな人たちの中でさえも、ただ「走る」ことが好きな人はそれほど多くないように思う。

体育の授業や部活動の中でもたいてい「走る」ことは体力づくりのためにすることで、高度な技術を身につける下準備として苦痛を我慢して行うものだと考えられていることが多い。そして「走る」ことそのものが求められる陸上競技でも、つらく、苦しいことを我慢して走り切るとタイムが縮み、競技に勝つことができると教えられるはずだ。

そのために「走る」ことには、つねに根性や忍耐が求められている。これでは「走る」こと自体が好きになるなんてことは、本当に難しいことだと思う。

そもそも僕は子どものころは喘息もちで身体が弱かったこともあって、運動することそのものが苦手だった。だから、体育の授業は苦痛以外の何ものでもなかった。体育の授業のある日はそれが理由で学校に行きたくないと心から思っていたし、中学校の後半からは単純にサボるようになってしまった。

運動会
写真=iStock.com/gyro
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gyro

高校では、ますます体育の授業には身が入らなくなった。いまでも覚えているのだけど、卒業間近のある日、体育を担当していた林先生が僕のそばに寄ってきて、こう言った。「自分はもうすぐ定年退職だ。35年以上の教師生活で心残りがあるとしたら、宇野の体育の授業を3年間担当して、ついに一度も身体を動かす楽しさを教えることができなかったことだ」と。

そんな僕が、いまは走ることが人生の最大の楽しみのひとつになっているのだから自分でも驚いている。では、どうしてこんなに体育が嫌いだった僕が「走る」ことにハマってしまったのだろうか。

■ランニングにご褒美をつけてみる

大人になった僕が走ることを始めたきっかけは、なんだかものすごく中年の事情で申し訳ないのだけれど、30代前半のある日、健康診断を受けて医者に注意されたことだ。

あんたこの数年で急に太っているよ、これは絶対に生活を改めないとそのうち大きな病気になるよ、と結構真剣に怒られてしまった。子どものころ、身体が弱く病気がちだった僕だが高校生のころからだんだん健康になって、このころは滅多に医者にもかからなくなっていたので、これはかなりショックなひとことだった。たしかに20代なかばのころに比べて、このときの僕は20キログラムほど太っていた。

僕は一念発起して、ダイエットを始めた。1日の摂取カロリーを厳しく制限して、ジムに通ってウォーキングマシンで運動し、さらに近所を走った。

ほぼ毎日、自宅から約2.5キロメートル先の新宿東口のヨドバシカメラまで走っていっては、そんな自分への「ご褒美」としてトミカを1台買って戻ってきていた(これはあとで取り上げる僕のミニカー集めのきっかけになっている)。

■痩せた私に訪れた変化

何か目標があったほうが「やりがい」をもって走ることができると思ったのだけど、それは大きな間違いで、最後までやりがいを感じることはなかった。長距離を走ることに慣れたいまとなっては、2.5キロメートルのランニングはほとんど準備運動のようなものなのだけど、当時の僕にはとてもつらいことだった。

あのころの僕は「痩せる」という目的と、ヨドバシカメラでトミカを買うという「ご褒美」のためだけに、走るという「苦痛」を我慢していたのだ。

そして、半年ほど経たって予想以上に痩せることに成功すると(80キログラムほどあった体重が20キログラムほど落ちて、60キログラムほどになった)、僕はパッタリと走ることをやめてしまった。「目的」を果たしたので、苦痛を我慢する必要がなくなったのだ。

■「競技スポーツ」と「ライフスタイルスポーツ」の違い

しかしこのときのランニングの習慣が意外なかたちで僕の暮らしを変えることになった。それから何年か経って、『走るひと』というランニング雑誌から取材の依頼がきた。その雑誌ではアスリート以外で「走る」習慣のある人をいろいろな分野から紹介するという企画を毎号続けていて、どこかで僕がよく走っているらしいぞ、という噂を聞きつけてきたらしかった。

僕は、取材にやってきた編集長の上田唯人さんに、最近はまったく走っていないのだけど、と前置きしたうえで、かつてダイエットのために続けていたランニングについてまとめて話した。

すると上田さんは僕に、「競技スポーツ」と「ライフスタイルスポーツ」の違いについて話してくれた。

競技スポーツというのは、マラソンやサッカーや野球や柔道など、僕たちが知っている「スポーツ」のほとんどのものが含まれる。これは「競技」であり、他の誰かに「勝つ」ことが目的になっている。

そして一方の「ライフスタイルスポーツ」とは、身体を動かすことそのものを楽しみ、運動することそのものが「目的」になっているスポーツのことを指す。ヨガや太極拳、そして上田さんが注目している楽しみとしてのランニングがこれに当てはまるという。

■体育に苦手意識を抱くワケ

上田さんが言うには、実はいま、20代、30代を中心に、競技スポーツをする人よりも、ライフスタイルスポーツをする人のほうが増えているというのだ。僕は上田さんのこの話に、とても惹かれた。

理由はふたつあって、ひとつは上田さんの話は僕が子どものころから「体育」というものに抱いていた苦手な気持ちがなぜ生まれるのか、その理由を説明してくれていたからだ。

そしてもうひとつの理由は、この取材の少し前に、僕は自分のつくっている雑誌(『PLANETS』という)で、2020年の東京オリンピック/パラリンピック(以下、「オリンピック」)特集を組んだのだけれど、上田さんの話はこの特集を通して僕が考えようとしていたことと通じるところがあったからだ。

僕は2020年(実際に開催されたのは2021年)の東京オリンピックの開催には、誘致運動の段階から反対していた。このオリンピックが東日本大震災からの復興も十分ではない当時の日本に必要だとはどうしても思えず、発表された計画も杜撰で、誘致に成功してもあまりいい結果をもたらさないと考えたからだ。

そして反対だからこそ、もしどうしても開催されるのであれば、こういうオリンピックとパラリンピックにしようぜという「夢の企画」を、仕事仲間のジャーナリストやアーティスト、社会学者や建築家たちと一緒に考えて、1冊にまとめたのだ。もし興味をもってくれたら読んでくれると嬉しいけれど、このとき僕が考えたのが、日本の「体育」的な価値観の見直しだった。

■体育は歯車のような人間を量産する

僕が「体育」嫌いだったことはすでに書いたけれど、僕はこのとき、なぜ自分はあれほどまでに「体育」が嫌いだったのか、その理由をはじめて考えた。そして、いろいろと調べていくうちに、日本的な「体育」というものが、実は現在のスポーツ研究の世界の中において、よく批判されていることを知った。

日本的な「体育」の、ひたすら苦痛を我慢して目標を成し遂げることをいいことだとする考え方や、集団に合わせる訓練を重視するやり方は、現代的な「スポーツ」研究の世界では否定されることが多い。

この日本的な「体育」は、たとえば工場や戦場などで支配者が扱いやすいネジや歯車のような人間を量産することには向いていても、それぞれの個人がもつ個性や潜在的な身体能力を解放し、引き上げるためには効果的ではないからだ。

だから僕は、東京オリンピックを通じてこの国の「運動する」文化を、「体育」ではなく「スポーツ」へとアップデートする機会にしようと考えたのだ。そうしてできあがった1冊を読んだことが、上田さんが僕のところに取材に来たもうひとつの理由だった。

彼は、僕と仲間たちが考えたあたらしいオリンピックの企画案に、「競技スポーツ」ではない「ライフスタイルスポーツ」としてのランニングの楽しさに近いものを感じたのだと話してくれたのだった。

朝階段を駆け上がる男
写真=iStock.com/xijian
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/xijian

■再び走り始めて気付いたこと

そして僕はこの取材をきっかけに、もう一度走ってみようと考え始めた。ダイエットをがんばっていたころ、僕は「痩せる」という目的のために苦痛を我慢して走っていた。そうではなくて、今度は好きなように走ってみようと思ったのだ。

小学校に上がる前、近所の道路や公園を何も考えず、好きなように走ることが楽しかったように、「目的」なんかないほうが、走ることそれ自体の楽しさに純粋に触れることができるんじゃないか、と考えたのだ。

こうして僕は再び走り始めた。今度は何かのためじゃなくて、走ることそのものを目的に走ってみた。タイムも距離も、気にしないことにした。疲れたら歩くし、のどが渇かわいたらコンビニエンスストアで水を買うし、やめたいときにやめると決めて走り出した。

最初は朝に、近所の公園を走ってみた。びっくりするくらい、気持ちよかった。僕が住んでいるのは東京のどちらかと言えば街中なのだけれど、朝の空気は澄んでいて、公園の緑の中を走り抜けるだけで、気持ちよく汗がかけた。僕はこのとき30代も半ばになっていたけれど、はじめて身体を動かすことそれ自体が、心から気持ちいいと思えた。

このとき僕は、自分が嫌いだったのは、「みんな」に合わせ、「敵」に勝つために、あるいは何か「目的」を果たすために苦痛を我慢する「体育」であって、決して身体を動かすことそのものではなかったのだ、とはじめて気づいた。こうして、僕はたちまち「(ライフスタイル)スポーツ」として身体を動かすことに夢中になっていった。もう、ご褒美のミニカーは必要なかった。

■なぜ走ることが快感なのか

実際に走ってみてわかったことは、それがとても自由で、気持ちのいいことだということだ。人間は乗り物に乗っているときに、どれくらいの速度でどういう道を通るか、自分で自由に選ぶことはできない。バスや電車を自分で運転することはまずないし、自動車やオートバイは道ごとに走る速さが法律で決められているし、比較的自由に走ることができる自転車はそもそも通れない道がとても多い。

宇野常寛『ひとりあそびの教科書』(河出書房新社)
宇野常寛『ひとりあそびの教科書』(河出書房新社)

しかし、自分の足で歩くとき、人間は少し自由になれる。身体が入っていけるところなら、どこをどう移動してもいい。でも、散歩が好きな人はおそらく知っていることだと思うけれど、人間は気がついたらだいたい一定の速さで歩いていることが多い。

「歩く」とき、人間はその道の状態やその場所の気温などによって、移動する速さを決められているのだ。だから、もっと自分の意志で自分の身体を自由に使う気持ちよさを味わいたいなら、「走る」ほうがいい。「走る」とき、人間は完全に自分の身体を、自分の好きなように、好きな速さで扱うことができる。

急いでもいいし、ゆっくりでもいい。法律やレールに、スピードや進むべき道を決められてもいない。人間はひとりで「走る」とき、「自分のことは自分で決める」快感を一番味わえるのだと僕は思う。それはつまり特に目的もなく「走る」ことの自由さだった。

これは「みんな」に合わせる運動を強制される「体育」や、「敵」に勝つことを目的にした「競技スポーツ」では味わえないものだ。

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宇野 常寛(うの・つねひろ)
評論家、『PLANETS』編集長
1978年生まれ。著書に『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『母性のディストピア』(集英社)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』、近著に『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)などがある。立教大学兼任講師。

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(評論家、『PLANETS』編集長 宇野 常寛)

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