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だから是枝映画は世界で評価される…ほとんどの観客が見落としているカンヌ受賞作『怪物』の秘密

プレジデントオンライン / 2023年7月19日 9時15分

【図1】保利はキャリーバッグで学校に通勤している。(画像=「映画『怪物』本編映像:保利先生について」YouTubeより)

是枝裕和監督の最新作『怪物』は、先のカンヌ国際映画祭で脚本賞とクィア・パルム賞の2冠を達成した。是枝映画は、なぜ世界からの評価が高いのか。映画研究者、批評家の伊藤弘了氏は「是枝裕和の映画は『大半の観客が理解できる部分』と『一部の観客にだけ伝わればいい部分』とを高いレベルで共存させている。『怪物』にもほとんどの観客が見落としているであろう秘密が隠されている」という――。

※本記事では映画『怪物』の内容や結末に触れています。

■謎解きの先にある映画『怪物』の真骨頂

是枝裕和の映画は「大半の観客が理解できる部分」と「一部の観客にだけ伝わればいい部分」とを高いレベルで共存させている。それによって生じる余白が玄人筋の観客を惹きつけるのである。

映画が適度に謎めいた表情を帯びていること。

これは、すぐれた映画が備えるべき条件のひとつである。もちろん、最新作『怪物』もその例に漏れない。

『怪物』は三章構成をとっており、同じ時間軸の出来事を三度にわたって描いている。各章ごとに視点人物を入れ替え、前の章で死角になっていた部分に光を当てていき、最終的に劇中で起こっていた出来事の真相が明らかになる。この構成自体が自ずと観客に謎解きを促す仕掛けになっているが、主人公の子どもたちの身に本当は何があったのかは映画を見ていれば問題なく理解できる。本作の真骨頂はその先にある。今回は、おそらくほとんどの観客が見落としているであろう細部に目を凝らし、映画『怪物』の秘密に迫っていきたい。

■辞書とキャリーバックに秘められた意味

すでに映画を鑑賞している読者は、劇中に登場した「辞書」のことを思い返してほしい。どのシーンに出てきたか思い出せるだろうか?

まだ映画を鑑賞していない読者は、ぜひ「辞書」に注意して見てほしい。それからこの文章の続きを読めば理解がはかどるだろう(もちろん、映画を見ないで続きを読んでもらっても一向に構わない)。

辞書のことを記憶していない観客でも、第二章の視点人物である保利(永山瑛太)のキャリーバッグは印象に残っているだろう。彼は恋人の広奈(高畑充希)とのデート時や小学校への出勤時にキャリーバッグを引いている【図1】。旅行に行くわけでもないのに、普段のデートや通勤時にまでキャリーバッグを使うというのは、少し変わっているように思う。

じっさい、保利は一風変わったところのある人物として造形されている。彼の趣味は書籍の誤植を見つけて出版社に手紙を送ることである。要は言葉の間違い探しであるが、少なくともそれほど市民権を得ている趣味ではない。この趣味に関係して、保利はどうやら日常的に大量の本を持ち運んでいるようだ。そのために必要とされているキャリーバッグは、保利の性格を描写するためのさりげない小道具として効果的に機能している。

ただし、キャリーバッグは単に保利の性格表現のためだけに用いられているわけではない。劇中には同様の形状と役割を持った小道具がほかにも出てくる。辞書もそのひとつである。これらは互いに連関し、映画のテーマと結びついて、豊穣な意味のネットワークを形成している。順を追って説明していこう。

■世間からズレた感性を持つ人の避難所

キャリーバッグは、内部にものを入れて持ち運ぶための道具である。つまり「容れ物」である。

保利は世間一般の価値観からズレた感性を持っている。たとえば、エレベーターという直方体の容れ物のなかで唐突にプロポーズして広奈の不興を買い、美しい夜景に感動する彼女に「あれ電球だよ」と言って冷や水を浴びせる。その後、自室に移動した際には、広奈から水槽という直方体の容れ物のなかにいる転覆病の金魚になぞらえられて「かわいそう」と言われてしまう。「かわいそう」は、映画の第一章で湊が母親から言われていたのと同じ言葉であり、この二人がいずれもマイノリティとしての性質を有していることを示唆する。

誤植を見つけるという保利の密やかな趣味の世界は、保利にとっての安全圏なのかもしれない。外界の煩わしさから解放される自分だけの小さな世界。自室という容れ物のなかでその趣味に没頭しているあいだは、たとえどんなに気味の悪い笑顔を浮かべていようと、他人からとやかく言われることはない。自分のことを暴力教師として告発する週刊誌の記事さえ、保利は誤植探しの対象にしている【図2】。それは現実世界と折り合いをつけるために彼に許された数少ない手段なのである。

【図2】保利は、自分を「体罰教師」として糾弾する記事さえ誤植探しの対象にしている。
【図2】保利は、自分を「体罰教師」として糾弾する記事さえ誤植探しの対象にする。(画像=「映画『怪物』予告映像【6月2日(金)全国公開】」YouTubeより)

そのように考えると、保利の趣味と密接に結びついたキャリーバッグは、持ち運べる安全圏と言えそうだ。すなわち、彼にとってお守りのようなものである。彼が突然プロポーズを思い立ったエレベーターや、飼育している金魚の水槽も(学校には職員室の水槽でチンアナゴを飼っている同僚教師がいる)、同様に直方体によって外界から隔絶された世界である。

広奈の目にプロポーズには不適当な場所と映ったエレベーターは、保利にはむしろこのうえなくふさわしく感じられたのかもしれない。賃貸マンションの一室である彼の自宅もそのような直方体に類する場所であり、嫌がらせによってその安全性を脅かされた彼は、引っ越さざるをえなくなる。

エレベーターにしろ、水槽にしろ、自宅にしろ、そこで保たれている安全性はかりそめのものでしかない。趣味の世界にしても、ずっとそこにとどまっているわけにはいかない。それでも人が生きていくためには、たとえ錯覚であるにしても、本人が安全を感じられる一時的な避難所がおそらく必要なのである。

■坂元裕二の脚本からカットしたシーン

直方体状の空間は人々に安心感をもたらす一方、ときに人々の安全を脅かすこともある。外界から隔絶されているというのは、守られていると同時に、逃げ場がない状況でもあるからだ。

厳密には直方体とは言えないが、車もそのような場所になりうる。映画の第一章で、湊(黒川想矢)は母親の早織(安藤サクラ)が運転する自家用車から飛び降りる。直接の理由はクラスメートの依里(柊木陽太)から電話がかかってきたことであるが、ちょうどそのとき、早織は湊に「普通の家族を持ってほしい」という自身の願いを伝えている。自分が同性愛者かもしれないと思っている湊は、母親の言葉に応えることができない。彼は走行中の車という密室から逃げ出すようにして飛び降りるのである。

第三章の冒頭で伏見(田中裕子)が訪れる拘置所もまたそのような場所である。彼女は湊と依里が通う小学校の校長を務めている。伏見は接見室で夫と面会する。夫は自らが運転する車で誤って孫を轢(ひ)き殺したために勾留されている(ただし、じっさいに運転していたのは伏見であるという噂も囁かれる)。

監獄は確かに外界から隔絶された空間であり、考えようによっては安全が保証されているとも言えるが、代償として著しく自由を制限されている。もちろん、そこから自らの意志で出ていくことはできない(その意味では金魚と水槽の関係に似ている)。

接見室を仕切る透明なアクリル板は、文字通り伏見と夫を分断する。二人の会話は終始なごやかな雰囲気のうちに進んでいくが、直接触れ合うことは許されていない。このシーンでは、伏見が折り紙で船を折っていることが重要な意味を持つ。

映画からは削除されているが、坂元裕二の脚本には、伏見が亡くなった孫と北海道でフェリーに乗ったときのことを湊に語る場面がある(逆に、接見室で伏見が折り紙の船を折るという描写は脚本にはない)。このエピソードは、主人公の名前が「湊=港」であることと響き合う。

■「容れ物」は逃げ場のない地獄

生前の孫は自分が乗ったフェリーのおもちゃをいつも持ち歩いていたという。船のおもちゃは孫にとっての「安心毛布(セキュリティ・ブランケット)」だったのだろう。言うまでもなく、これは保利が日頃から持ち運んでいたキャリーバッグと呼応している。

そして、それはまた、孫とフェリーをめぐるエピソードが映画本編から削除された理由の一端でもあるだろう。あまりにも物語の構造(対応関係)をはっきりさせすぎてしまうと観客に陳腐な印象を与えかねないからである。そこで伏見が語る具体的なエピソードを、画面上にわずかに映る折り紙の船に移し替えたというわけだ。映画監督としての是枝裕和の身上は、この絶妙なバランス感覚にある。

伏見が校長を務めている学校も容れ物である。劇中で最初に学校の外観が映し出される画面では、その直方体性が強調されている。しばしば学校と監獄は類似した施設として同列に論じられることがある。いずれも、外界から隔絶された場所で「収容者」が一般社会のルールに馴染めるように「教育」を施している【図3】。

【図3】湖を見下ろす高台に位置する学校は、さながら座礁した船のように見える(第二章に置かれたこのショットでは校舎全体を確認することはできないが、第一章には学校の外観をはっきりと捉えたショットがある)。
画像=「映画『怪物』本編映像:保利先生について」YouTubeより
【図3】湖を見下ろす高台に位置する学校は、さながら座礁した船のように見える(第二章に置かれたこのショットでは校舎全体を確認することはできないが、第一章には学校の外観をはっきりと捉えたショットがある)。 - 画像=「映画『怪物』本編映像:保利先生について」YouTubeより

社会に出ていくための準備をする場所でありながら、学校は独自の小宇宙を形成し、ときに子どもたちにきわめてローカルなルールを強いる。イジメや体罰などの問題が起こったときには、しばしばそれを隠蔽し、内々でことを収めようとする。そのとき、被害者にとって学校は、逃げ場のない地獄と化すのである。ただし、伏見は子どもや保護者の言い分を丸々受け入れている。じっさいには振るわれていないことを知っていながら保利の暴力を認め、彼を犠牲にすることで容れ物としての学校を守ろうとするのである。

■廃電車に見る方舟のイメージ

同様に、子どもたちにとっては家庭もまた逃げ場のない場所になりかねない。家という物理的な空間が監獄のように機能する場合もあるし、家族との関係性において身動きが取れなくなってしまうこともある。

じっさい、湊は台風の日の朝に自宅を抜け出す。暴風雨から身を守ることのできる安全な場所を自らの意志で捨てるのである。向かう先は依里の家だ。そこは依里が囚われ、父親から暴力的なしつけを受けている場所である。

湊が訪ねた際、依里は父親によって浴槽に沈められており(父親の姿はすでにない)、依里の意識は朦朧としている。湊は浴槽から依里を救い出し、二人で廃線跡地へと向かう。そこには彼らが秘密基地として利用している廃電車がある。

直方体の廃電車は、学校や家庭に居心地の悪さを感じている彼らに、安心と安全を提供してくれる唯一の場所である。二人を乗せた電車は大雨が引き起こした土砂崩れに巻き込まれ、押し流されて横転してしまう。

洪水に見舞われた世界から彼らを保護する電車には、「方舟」のイメージが重ねられている。方舟とは、世界が生まれ変わるのを待つための容れ物=乗り物である。

はたして、台風が去り、湊と依里は太陽が戻ってきた明るい世界に降り立つ。二人は廃線となった鉄橋に向かって駆けていく。かつて彼らの行く手を遮っていた鉄柵は暴風雨によって取り払われている。二人にとっての障壁が、少なくともひとつ、この世界から消えたことになる。疾走する二人を捉えたショットは、非現実的なまでに美しい光に満たされている【図4】。あたかも彼らの前途を祝福するかのようであり、同時に「二人の未来よ、かくあれかし」という祈りにも似た光景に見える。

【図4】陽光が降り注ぐなか、湊と依里は楽しそうに駆けていく。
【図4】陽光が降り注ぐなか、湊と依里は楽しそうに駆けていく。(画像=「映画『怪物』予告映像【6月2日(金)全国公開】」YouTubeより)

■「辞書は言葉の海を渡る舟」

さて、冒頭に触れた「辞書」の話題に戻ろう。三浦しをんの小説に『舟を編む』というものがある(2013年には石井裕也監督によって映画化されている)。辞書の編纂者を主人公にした作品である。このタイトルには「辞書は言葉の海を渡る舟、編集者はその海を渡る舟を編んでいく」という意味が託されているという。

『怪物』には、保利が辞書を写真立てに見立てて、同僚の女性教師に伏見の行動を説明するシーンがある【図5】。伏見は、亡くなった孫とのツー・ショット写真をわざわざ早織の席からよく見えるように置いて、彼女の同情を引こうとするのである。

【図5】早織が座る位置からよく見えるように、伏見は写真立ての角度を調節する。
【図5】早織が座る位置からよく見えるように、伏見は写真立ての角度を調節する。(画像=「映画『怪物』予告映像【6月2日(金)全国公開】」YouTubeより)

写真立てにくわえて、伏見が吹奏楽部の顧問を務めていた頃の賞状を収めた額縁や、トロフィーを収めたケースなども容れ物のバリエーションをなしているが、ここでは深入りしないでおこう。

大量の文字情報が詰まっている辞書は、さながら言葉の容れ物である。そして、保利の誤植探しを支えているのは辞書に掲載されている言葉の「正しい」意味にほかならない。しかし、辞書による定義は唯一の正解ではない。じっさいには、言葉の用例が辞書の定義に先行する。そもそも、言葉は辞書に先行して存在しているからである。

辞書の編纂者は大量の用例を収集し、それに基づいて、ある言葉がどのような意味で使われるかを事後的に定義していく。誤用と言われていたものがいつしか市民権を得て辞書に収録されることもあれば、新たに使われるようになった言葉が追加されることもある。言葉の意味は時代とともに変わっていき、辞書の説明はそれを追いかける形で常に変化し続けていくものなのである。

■「容れ物」の用途から逸脱する子どもたち

言葉が変われば、世界が変わる。これはフェミニズムやクィアの基本戦略のひとつである。「風変わりな、奇妙な」といった意味を持つ「クィア」という言葉自体、もともと同性愛者を侮蔑する際に用いられてきた。性的マイノリティたちがそれを逆手にとり、自ら名乗るようになったことで言葉の意味が変わったのである。そして、ゆっくりとではあるが確実に、世界はマイノリティの権利を踏みにじってきた負の歴史を省みはじめている。

保利に自らの偏見を気づかせる契機となったのは、子どもたちが書いた作文の添削である。依里の作文の鏡文字にチェックを入れていくうちに、各行冒頭の「横読み」に気づく。一列目の文字をつなげると「むぎのみなと」と読め、同様に、湊の作文の一列目は「ほしのより」と読めるようになっている。

なぜ、お互いの名前を作文に忍び込ませたのか。保利は、ずっと湊が依里をイジメていると思い込んでいたが、それが誤りだったことを知って慄然とする。

保利が課題として出したのは「将来の夢」についての作文である。大量の正方形のマス目が並んだ原稿用紙の見た目は、まさに「杓子定規」を体現しているかのようだ。しかしながら、湊と依里は想定された容れ物の用途から巧妙に逸脱し、そこに自分たちの秘密の世界を立ち上げたのである。それを「間違い」などと言える人間は、どこにも存在しない。

■宇宙船地球号と映画館

湊と依里は「ビッグクランチ」のことを「ビッグランチ」を言い間違えている。ビッグクランチとは、予測されているこの宇宙の終わり方のひとつである。その仮説によれば、ビッグバンによって膨張を開始した宇宙は、やがてビッグクランチによって収縮に転じる。収縮しきったあとは、また膨張に転じるかもしれないという。湊と依里は、そこに「生まれ変わり」の可能性を見て取っている。

二人のあいだで交わされるごく私的な会話のなかに軽微な言い間違いがあったとしても、それを咎(とが)めるものはない。意味内容を共有しており、それで通じ合っているのだから何も問題はない。むしろ、彼らには安心して間違えられる安全な場所が与えられてしかるべきである。

そこに有限性を見出す考え方によって、宇宙もまた容れ物であることが明らかとなる。わたしたち人間は「宇宙船地球号」の乗組員として宇宙を旅している。地球号のなかにも無数の「船」が存在し、人々に安全をもたらしたり、脅かしたりしている。湊と依里が廃電車の内部を宇宙に見立てて飾りつけているのは、いかにも象徴的である【図6】。

【図6】湊と依里は、廃電車のなかに宇宙を作り出す。この画像のなかには、円環を持つ土星のような惑星らしきものが見えている。
【図6】湊と依里は、廃電車のなかに宇宙を作り出す。この画像のなかには、円環を持つ土星のような惑星らしきものが見えている。(画像=「映画『怪物』予告映像【6月2日(金)全国公開】」YouTubeより)

このような目眩(めくるめ)く入れ子構造のなかには、映画を見ているわたしたち観客のための座席も用意されている。映画館も容れ物である。観客は眼前のスクリーンに映し出される映像の奔流に身をゆだね、視点が切り替わるたびに世界が二転三転する衝撃を味わう。映像の洪水は、わたしたちの凝り固まった思考を浸食する。はたして、わたしたちは生まれ変わることができるのだろうか。

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伊藤 弘了(いとう・ひろのり)
映画研究者、批評家
1988年生まれ。愛知県豊橋市出身。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。熊本大学大学院人文社会科学研究部准教授。小津安二郎を研究するかたわら、広く映画をテーマにした講演や執筆をおこなっている。「國民的アイドルの創生――AKB48にみるファシスト美学の今日的あらわれ」(『neoneo』6号)で「映画評論大賞2015」を受賞。著書に『仕事と人生に効く教養としての映画』(PHP研究所)がある。

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(映画研究者、批評家 伊藤 弘了)

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