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「苦くないビール」という市場が爆誕した…「アサヒスーパードライ」が35年以上も最強ブランドであるワケ

プレジデントオンライン / 2023年7月18日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/taka4332

アサヒビールの「スーパードライ」は、1987年の発売から35年以上たっても同社の看板商品であり続けている。なぜこれほど長い間売れているのか。ジャーナリストの永井隆さんは「これまでなかった『苦くないビール』という市場を作ったからだろう」という――。

※本稿は、永井隆『日本のビールは世界一うまい! 酒場で語れる麦酒の話』(ちくま新書)の一部を再編集したものです。

■「ドライを出せ!」と恫喝する業者まで

アサヒビールが1987年に発売した「スーパードライ」の人気は沸騰し、需要に供給が追いつかなくなる。1985年2月に吾妻橋工場を閉鎖し、工場リストラを実行した後での大ヒットだった。しかも、87年に6つあった工場はいずれも老朽化していて、思うような増産ができなかったのだ。

やがて、「社員はスーパードライを飲んではならない」という“御触れ”が、社長の樋口廣太郎から全国の支店や営業所に発せられる。

72年に慶応文学部を卒業してアサヒに入社した二宮裕次は、87年9月マーケティング部の課長代理から堺営業所長に異動する。「堺に赴任した頃、私はドツカレ始めてました」と二宮は話してくれた。関西でもスーパードライの人気に火がつき、商品が足りなくなっていたのだった。

営業所には連日、酒販店から「スーパードライはないか」という電話がひっきりなしにかかり、なかには直接営業所にやって来て「ドライを出せ!」と半ば恫喝する業者まで現れていた。

堺営業所では、特約店(問屋)に対して「お願い箱数」といって割当量を設定して管理するが、次の注文が矢の催促でやってくる。そもそもが、1953年から少なくとも85年まで32年間も、シェアを落とし続けた会社が、商品を割り当てするような立場に立ったこと自体、初めての経験だった。

■営業ランチはラーメンからうな重に

アサヒの厳しい時代を支えた、ある辣腕営業マンは言う。

「スーパードライが出る前、特約店でも酒屋さんでも、昼時に出されるのはラーメンでした。ところが、スーパードライが出た後は、うな重に代わりました。我々への接し方が、ガラッと変わったのです。これがヒットするということだと、しみじみ感じました」

結局「スーパードライ」は87年の年末までに1350万箱を売る。前年に「モルツ」が打ち立てた新製品の初年度販売記録184万9000箱を、あっさりと抜いてしまう。一桁違う数字だった。

アサヒビール全体の販売量は、実に前年比34.9%増の5296万3000箱で、シェアは2.6ポイント上げて12.7%とした。

ちなみにキリンの販売量は2.5%増だったが、シェアは57.2%と2.7ポイントも落とす。サッポロは販売量を6.6%増やしたが、シェアは0.2ポイント落として20.6%。サントリーは販売量を11.6%伸ばし、シェアは0.3ポイント上げて9.5%。4社合計の販売量は前年比7.5%増の4億1776万3000箱となるが、販売量を大きく伸ばしたアサヒの一人勝ちだった。

「スーパードライ」が牽引する形で、ライバル3社も販売量を増やし、市場全体を拡大させた意義は大きい。一社単品が“売れた”だけではなく、全体を伸ばしたのだ。

■ライバル社が分析する「スーパードライの勝因」

キリンのマーケティング部でハートランドを担当する傍ら、リサーチ業も兼務していた太田恵理子は指摘する。

「スーパードライは苦くなく、女性に好まれる味でした。ただ、テレビCMはあくまで男性向け。作家・国際ジャーナリストの落合信彦氏(落合陽一の父)がサングラス姿で登場し、硬派なイメージを演出していました。このあたりのバランス感覚がうまかったと思います」

それまで主婦にとってビールとは、夫のために買うものだった。ところが、「スーパードライ」の登場で、自分のために購入を始めたのである。

「ハートランド」を世に出し、1989年には「一番搾り」を商品化していく、キリン伝説のマーケター前田仁は、「スーパードライ」について次のように記している。

「お客様の意識(イメージ)と実際の味の好みとにズレがあることが分かっています。

(中略)スーパードライ成功要因の一つは、このズレを、企んだのか偶然の産物なのか分かりませんが、巧く利用したことです。イメージはドライという名前が示すとおり男性的で本格的、しかし、味はそれまでの主流であるラガーよりも軽く、ノンビターで飲みやすい」

■各業界からヒット商品が数多く生まれた

「(中略)「お客様の実際の嗜好トレンドはライト化、しかし商品に求めるイメージは本格的」。(中略)この「ズレ」を認識することが、お客様理解であり、ヒット商品を生み出すコツの一つだと考えています」(2003年4月8日作成の前田仁の講演録「思考の技術」より引用)。

経済企画庁(現内閣府など)によると、バブルの始まりは1986年12月。85年のプラザ合意による円高、そして過剰流動性が生んだ「バブル経済」。バブル以前は、円高不況に列島は喘いでいた。ところが、一転してバブルである。

「スーパードライ」発売の1987年とは、不況期から好景気への転換期に当たる。そんな87年は、ヒット商品が数多く生まれた年だった。

三菱電機が発売したダニを駆除するクリーナー「ダニパンチ」、同じ三菱電機の大型テレビ、花王のコンパクト粉末洗剤「アタック」、“女子大生ホイホイ“と呼ばれたほど若い女性が乗りたがった「ホンダ・プレリュード」(3代目、走りよりデザインを堂々と優先させた。

■売れすぎて競合社に警告書を送る事態に

また四輪操舵の4WSを搭載)、発売は86年だが87年にヒットした富士フイルムのレンズ付きフィルム「写ルンです」、86年10月発売のキリン「午後の紅茶」、88年1月発売で3ナンバー車のトレンドをつくった日産「シーマ」などなど。

景気が好転するタイミングは、どうやら「ヒット商品の集中」が発生する。

東京夕暮れ時の渋谷交差点の赤選択カラービューのモノクロ写真
写真=iStock.com/Eloi_Omella
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Eloi_Omella

第2次オイルショック後の不況を乗り切った80年代前半にも、マツダの赤い「ファミリア」、VHS方式VTR、レーザーディスク、NECのPCなどが売れ、チューハイブームも巻き起こった。

新しいものを受け入れようとする生活者の消費マインドが、顕著となるためだろう。好況時への転換期に生まれたヒット作の特徴は、従来の延長線上にはない新機軸という点だ。

87年前後のヒット作には、いまでも販売されている商品はある。女性に支持された商品が多いのが特徴。そうしたなかでも、「スーパードライ」は最大のヒットだったといえよう。

1988年を迎えると、正月明けとともに波乱が起こる。1月6日、アサヒはキリンとサッポロに対し、内容証明付きの警告書を送ったのだ。

■業界全体で「ドライ戦争」が勃発

キリンとサッポロの両社は「ドライ」と銘打った新製品の投入を決めていた。この情報を入手したことによるアサヒの警告書だが、その内容は

「①ドライビールの商品コンセプトはアサヒビールが創り出したものであること、②両社の新製品はコンセプト、デザイン、コピーなどが「スーパードライ」と酷似しているので、消費者に誤認を与える恐れがあり、不正競争行為に該当すると考えられること、という二点であった」(『アサヒビールの120年』)。

新聞やテレビはこの問題を「ドライ戦争」などと取り上げ、多くの消費者の知るところとなったが、アサヒの抗議が知的所有権の侵害を主張する内容だったのが特徴だった。こうしたニュースにより、ビール商戦そのものへの社会的関心は高まる。

前年の「スーパードライ」のヒットで経済紙だけではなく一般紙でも、「ビール」の記事が大きく扱われるようになったが、この一件でさらに大きく、多く扱われるようになっていった。

アサヒの抗議に対し、1月末、キリンはネックラベルの文言の変更を、サッポロもラベルデザインの変更を、それぞれ決めて、アサヒは抗議を取り下げる。

■主力を落としたキリンの大誤算

キリンは2月22日「キリン生ビールドライ(キリンドライ)」を、サントリーは2月23日「サントリードライ」を、そしてサッポロは2月26日に「サッポロ生ビール★ドライ(サッポロドライ)」を、相次いで発売した。

4社のドライビールが出揃い、商戦においても「ドライ戦争」が勃発する。

とりわけキリンが出した「キリンドライ」は、年末までに3964万箱を販売。87年にスーパードライが打ち立てた新製品の初年度販売記録である1350万箱のほぼ3倍に相当する。2023年春までの段階で、この記録を超えるビールの新製品は登場していない(発泡酒と新ジャンルを含めると、キリンが98年に発売した発泡酒「淡麗」が3974万箱と、僅かの差で上回っている)。

しかし、キリンは88年に販売量を4.1%落としてしまう。「キリンドライ」が、主力の「ラガー」のシェアを奪ってしまったためである。

88年のビール市場(4社の合計販売量)は、ドライ戦争の激化から前年比7.2%増の4億7774万箱に拡大。この結果、新製品のヒットにもかかわらず、キリンはシェアを6.1ポイントも落とし51.1%と会社始まって以来の凋落を描く。新製品「キリンドライ」が売れたことよりも、「ラガー」の販売量が減ったことが、キリンにとっては本当に痛かった。

■「万年体たらくを繰り返してきた会社が変わった」

増産体制を整えながら商戦に臨んだアサヒは、販売量を前年比70.1%も伸ばし、シェアは7.4ポイントも上げて20.1%と大台に乗せる。サッポロは3.3%販売を伸ばすが、シェアは0.7ポイント落として19.9%に。

これによりアサヒは1961年以来27年ぶりに2位に浮上。翌89年にサッポロは経営トップが責任を取り、代わる。

アサヒの当時の幹部は言う。

「それまでもアサヒは、缶ビールやビールギフト券など、先駆けたことをやってきました。でも、キリンがいつも後追いしてきて、アサヒが立ち上げたものを根こそぎ取っていってしまいました。だから、スーパードライにしても、またやられるのではという恐怖がありました。しかし、このときばかりはスーパードライはやられなかった。

「俺たちは何年もかけて消費者の嗜好調査からはじめて、新しいビールを造ってきたんだ。急造のモノマネ商品なんかに負けるわけがない」。やがて、みんなの心にこんな風に火がついたのです。万年体たらくを繰り返してきた会社が、変わった瞬間でした」

アサヒは生産するビールの大半を「スーパードライ」に切り替えていくが、それでも旺盛な需要に供給が追いつかない。

この幹部は、「スーパードライが品不足の間、埋め合わせになったのが他社のドライビールでした」と話す。

■アサヒの一人勝ちが3年続いた形に

翌89年にもキリン、サッポロともにドライビールの新商品を投入するが、88年の段階でドライ戦争におけるアサヒの勝利は確定していた。

しかも、だ。サッポロは89年2月、主力商品だった「黒ラベル」を突如終売させてしまう。代わって新製品「ドラフト」を大ヒットの願いを込めて投入するが、これが失敗する。シェアは落ち、最盛期が終わった9月に「黒ラベル」を復活発売するという混乱ぶりを晒してしまう。

89年3月に就任した営業出身の新社長が打った“賭け”だったが、逆にアサヒに塩を送る結果を招く。

この年、アサヒの販売量は前年比26.8%増の1億1428万1000箱となり、シェアは前年より4.1ポイント上げて24.2%とする。

キリンは「フルライン戦略」として、「モルトドライ」「ファインドラフト」など4つの新商品を投入するものの、みな不発に終わる。この結果、シェアは2.3ポイント下げて48.8%となり50%の大台を割り込んでしまう。販売量は前年比0.8%増の2億3070万箱。

一時「黒ラベル」を終売してしまったサッポロは、シェアを1.3ポイント下げて18.6%に。サントリーはシェアを0.3ポイント落として8.5%で着地する。

4社の販売量は同5.6%増で4億7305万箱だった。数字を並べれば、アサヒの一人勝ちが、3年続いた形だった。

夜に居酒屋店と大久保駅の近くに看板を持つ狭い路地の車線の通りがある新宿区のダウンタウン
写真=iStock.com/krblokhin
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/krblokhin

■3社の追随が「ドライ」という市場をつくった

ドライ戦争を知るサントリーの技術部門元幹部は、次のように振り返った。

「当社を含め3社が、ドライビールを出さなければ、「スーパードライ」は革命を起こさなかったのでは。87年にヒットした、少し味の変わったビールで終わっていたはずです。

永井隆『日本のビールは世界一うまい! 酒場で語れる麦酒の話』(ちくま新書)
永井隆『日本のビールは世界一うまい! 酒場で語れる麦酒の話』(ちくま新書)

つまり、3社の追随がドライという市場をつくり、「スーパードライ」を強力な商品に育ててしまった。そもそもサントリーは、発泡酒をはじめ世の中にないものを開発するのを得意とする会社です。開発型の会社がモノマネをした時点で、失敗は見えてました」

また、別のサントリー技術部門の元幹部は、2002年にこんなことを言った。

「自分たちとほとんど同じ位置にいたアサヒが大ヒットを飛ばしたのを見て、同じことをやれば俺たちにもチャンスはあるぞと考えてドライビールを出したのですが、かえって自分たち自身を見失う結果を招いてしまった」

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永井 隆(ながい・たかし)
ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう傍ら、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社)、『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。

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(ジャーナリスト 永井 隆)

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