サッポロ社員ですらその存在を知らなかった…世界中のクラフトビールを支える「ソラチエース」の数奇な運命
プレジデントオンライン / 2023年7月20日 10時15分
※本稿は、永井隆『日本のビールは世界一うまい! 酒場で語れる麦酒の話』(ちくま新書)の一部を再編集したものです。
■遠く離れたドイツで有名だった
「ソラチエースは素晴らしい。僕は大好きだ」
「そうか……。ありがとう」
「クラフトビールにマッチする個性的なホップだ。ギャレット・オリバーが認めて採用しただけのことはある。そもそも、大麦やホップなどの原材料まで開発するビール会社なんて、世界でサッポロぐらいではないか。凄いよ」
「うん……」
2013年秋、新学期がスタートしたミュンヘン工科大学のキャンパス。サッポロビールのエンジニアで、留学を始めたばかりの新井健司は「ソラチエース」について何度となく話しかけられていた。アメリカからの留学生からは英語で、ドイツ人学生や研究者からはドイツ語で。
最初は、「みんなサッポロとソラチとを、きっと混同している。札幌も空知も北海道の地名だから」と、勝手に解釈していた。しかし、どうやら違う。クラフトビールの伝説的な醸造家であるブルックリン・ブルワリー(米国ニューヨーク市)のギャレット・オリバーといった固有名詞が出てくるくらいだから。
■「こんなことって、あるのか……」
そこで、日本で所属していた研究部門にメールで問い合わせたところ、「ソラチエース」とはサッポロが開発したホップであることが、ようやく分かった。サッポロの社内でも誰もが知る存在ではないホップの名を、醸造を学ぶため世界からミュンヘンに集まった研究者や学生の多くが、知っていたのだ。しかも、素直に評価してくれている。
「こんなことって、あるのか……」。もはや驚くしかなかった。
川崎市出身の新井は、東京大学農学部を卒業し同大学院で酵素学を修めて2007年に入社。研究所や工場の醸造技術分野を歩み入社7年目の13年秋から、ミュンヘン工大に留学。期間は1年間、会社から派遣されたのだ。
クラフトビールは上面発酵で醸造される「エール」が多い(もちろん「ラガー」のクラフトビールもある)。20℃前後の常温で発酵し、最終的に酵母は上面に浮かぶ。ラガーに比べ香りは華やかで、発酵期間はラガーより短い。19世紀後半に、リンデンが冷却技術を開発する前は、ビールの多くはエールだった。
■カリスマ醸造家がなぜソラチエースを?
ペールエールは上面発酵の代表であり、フルーティな味わいなのが特徴。イギリスが発祥のペールエールを18世紀に、植民地だったインドまで遥々と運ぶために開発されたのがIPA(インディアン・ペールエール)。防腐のためにホップをふんだんに使い苦味が強いのが特徴だ。
このほか、小麦麦芽を使うヴァイツェン、ローストした麦芽のスタウト、チェリーなど果実に漬け込んだフルーツビールなどなど、クラフトビールは多士済々(たしせいせい)。同じIPAでも、醸造所によって味わいは異なる。醸造の職人(クラフトマン)が前面に出て、小さな設備で多品種少量でつくられる。最新設備により、主にピルスナータイプを少品種大量生産する大手のビールとは違うところだ。
それはともかく、現在のIPAの原型をつくったのは、ブルックリン・ブルワリーの醸造責任者、ギャレット・オリバーである。カリスマ醸造家であるギャレット・オリバーは、どうやってサッポロのソラチエースと出会ったのか。
■日本で脚光を浴びることなく、アメリカへ
サッポロビールが開発したホップ、ソラチエースは1984年に誕生した。開拓使麦酒醸造所の創業時から、サッポロはホップの育種・研究を行っていて、その一つがソラチエースだった。
育種したのはサッポロの元技術者、荒井康則。現在「SORACHI 1984 ブリューイングデザイナー」の肩書きをもつ新井健司は、ソラチエースについて次のように説明する。
「苦くて香り高いのが特徴。具体的には、ヒノキや松、レモングラス、ディル(魚料理に使うハーブ)を想起させる重層的な香りを醸し、余韻はココナッツのような甘い香りとなる。ベタベタせずに最後は、さわやかに抜けていく。日本生まれのフレーバーホップとして世界のクラフトビール界で評価されています」
北海道空知郡上富良野町にある同社の研究所にて、品種開発がスタートしたのは1974年。10年に及ぶ奮闘により世に出たものの、ソラチエースが日本で脚光を浴びることはなかった。
活躍の場を見出せないまま、ソラチエースは1994年にアメリカに渡る。日本のプロ野球で芽が出なかった選手が、大リーグに挑戦するように。
■世界のクラフトビールを支えるホップへ
キーマンになったのは、サッポロの研究者・糸賀裕。80年代、チェコのザーツホップがウイルス被害に遭ったとき、サッポロの独自技術によりこれを救ったが、この支援を主導したのは糸賀だった。個性的なアロマホップであるソラチエースの可能性を信じていた糸賀は、人的なネットワークによりオレゴン州立大学に持ち込んだのだった。
しかし、すぐに認められたわけではない。渡米から8年後の2002年、ワシントン州のホップ農家のマネージャー、ダレン・ガメッシュが埋もれていたソラチエースを見出したのである。それから5年ほどが経過し、ガメッシュは07年頃から全米のクラフトビールメーカーにソラチエースを紹介する。すると、上質な苦みと強い香りの高苦味アロマホップとして、有力なクラフトビールメーカーが次々に採用していく。
その一つが、ニューヨークのブルックリン・ブルワリーであり、ブリューマスター(醸造責任者)を務めるギャレット・オリバーが、その個性溢れる日本発・アメリカ産のホップを世界へと広めていった。「ブルックリン ソラチエース」という製品を通して。
ソラチエースはこうして、サッポロ社内では社員でさえ知らないのに、欧米のクラフトビールをはじめとするビール関係者の多くが知る存在となっていった。現実にアメリカを中心に世界のクラフトビールを支えるホップになっていく。
■ビールは量産型から少量多種の時代へ
2016年にキリンはブルックリンと資本提携。18年10月、日本国内でキリンとブルックリンの合弁会社が「ブルックリン ソラチエース」を北海道で先行発売し、翌年2月には全国発売に切りかえた。
サッポロは19年4月から、「イノベーティブブリュワー ソラチ1984」を先行発売した。さらに、茨城県の有名クラフトブルワリー「木内酒造合資会社」(那珂市)は、2社よりも早く「常陸野ネストビールNIPPONIA(ニッポニア)」をすでに10年6月に発売していた。
いずれの商品も、アメリカ産ソラチエースが使用されている。
ちなみに、サッポロはその生産量から、アメリカならばクラフトビールのカテゴリーに入る。
ソラチエースが紆余曲折の末、全米の醸造家たちに認められていったのは、クラフトの再成長が始まり、さらに多様性が商品に求められるようになった背景があった。
だが、クラフトビールそのものも、今なお揺れ動いている。浮沈は絶えないし、醸造所が合併するなどで、定義から外れるケースもある。
コロナ禍前の18年、全米のクラフトビールは約7000社を数え、数量では米ビール市場の約13%を占めた。金額ベースでは24%程度(17年)だった。
■「スーパードライを世界ブランドに」アサヒの進撃
これに対し、2022年におけるクラフトビールの数量による市場全体のシェアは、前年比0.1ポイント増の13.2%。生産量は前年より50万バレル減少し2430万バレル。数字からは、シェアも生産量も伸び悩んでしまっている現状が浮き上がる。
それでも、アメリカのクラフトビールは、量から価値への転換を図る日本のビールメーカーにとっての先行指標である。
アサヒは2010年代に世界でM&Aを繰り返し、欧州や豪州の麦酒会社を傘下に収めた。この結果、2022年末で海外売上比率が約52%としている。具体的には2016年に西欧で約2900億円、17年に中東欧で約8700億円を投じて複数のビール会社を買収。
そして20年には豪州でも約1兆1400億円で豪州最大手のビール会社「カールトン&ユナイテッドブルワリーズ(CUB)」を買収した。これらはみな、世界最大手のABインベブから買ったもの。
実はCUBは、1990年代に樋口が投資して失敗したフォスターズの一部に当たる。
アサヒが手を引いた後、フォスターズはワイン事業とビール事業を分離したが、ビール事業がCUBである。やがてCUBをSABミラーが買収し、SABミラーをABインベブが買収。そして、CUBをアサヒが買収した。「スーパードライを世界ブランドにしていく」野望をアサヒは持ち続けている。
■「高くても買いたい」商品が求められている
キリンはクラフトビール事業を進めている。クラフトビールを展開するスプリングバレーブルワリー(本社は東京都渋谷区)を設立させ、渋谷区代官山と京都に小規模所増施設を併設するレストランを運営。米豪ではそれぞれクラフトビール会社を買収した。
その一方で、発酵・バイオ技術をベースに独自に発見したプラズマ乳酸菌事業を展開中だ。人の免疫細胞には会社と同じように上下関係があり、指示命令する“部長”に当たる立場の「プラズマサイトイド樹状細胞(pDC)」がいる。プラズマ乳酸菌は、pDCを活性化させる特性をもつ。キリングループの清涼飲料やヨーグルトに使うだけでなく、国内外の食品や医薬メーカーに素材として広く提供している。
サントリーは23年春、「サントリー生ビール」を発売した。同年10月、26年10月の酒税改正をにらんで、酒税が安くなるビールで勝負を賭けた格好だ。
日本のビール4社は、これまでのビール・発泡酒や新ジャンルで培った醸造技術を生かし、価値の高いビール、さらに新しい事業を世に出していくだろう。既存のメインブランドのブラッシュアップはもちろん、クラフトビールのような少量多品種の展開も予想の範囲である。売価は高くとも、消費者から深く支持される商品が求められている。
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ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう傍ら、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社)、『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。
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(ジャーナリスト 永井 隆)
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