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信長の死体は本能寺からひそかに運び出されていた…なぜ光秀は遺骸を見つけられないという失態を犯したのか

プレジデントオンライン / 2023年7月23日 11時15分

阿弥陀寺、京都市上京区(画像=Brakeet/CC-Zero/Wikimedia Commons)

大河ドラマや映画では、織田信長は本能寺で自刃しその遺体は寺と共に焼け落ちる。しかし、作家の安部龍太郎さんは「歴史書にも記されているように、信長の遺骨は皇室と縁の深い上人の手によって運ばれ、阿弥陀寺に納められたという。上人が秀吉には遺骨を渡さなかったことから、本能寺の変の真相について、ある仮説が浮かぶ」という――。

※本稿は、安部龍太郎『信長の革命と光秀の正義 真説 本能寺』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。

■信長の遺体は本能寺で焼けてなくなったわけではない

本能寺の変で自刃した信長の遺体は、ついに発見されなかったというのが定説になっていますし、そう思っておられる方も多いのではないでしょうか。

実は私自身も、長年そう思い込んでいました。

しかし歴史書をひもとき、取材を重ねていくうちに、信長の「遺体の行方」がわかってきました。

それは残された人間たちの思惑と野望が見え隠れする、まさにあの本能寺の変をとりまく人間関係の複雑さを物語るものでした。

はじまりは20数年前、ある歴史書に「信長の墓は京都の阿弥陀寺にある」という一節を見つけたことです。

信長の墓地としてもっとも有名なのは、豊臣秀吉が大徳寺に造った総見院です。また、安土城や本能寺にも墓や供養塔が建てられています。

しかし、阿弥陀寺の墓というのは初耳だったので、さっそく取材に出かけることにしました。

■京都市上京区の阿弥陀寺にある「織田信長公本廟」

上京区寺町の阿弥陀寺の前でタクシーを降りると、門前に「織田信長公本廟(びょう)」という碑が堂々と立っていました。しかも墓所となった由来を記した立て札までありました。

なぜ、阿弥陀寺が信長の墓所となったのでしょうか。

それは、開山清玉上人の活躍のゆえでした。

『改定史籍集覧』に収録されている「信長公阿弥陀寺由緒之記録」には、清玉上人が信長の遺骨を運び出したいきさつが次のように記されています。

天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が起こったことを知った清玉上人は、20人ほどの供を連れて駆け付けました。

しかし、すでに信長は自刃した後でした。清玉上人が悄然と帰りかけた時、数人の武士が墓地の後ろの藪で何かを燃やしているのに気づきます。

顔見知りの信長の近習たちなのでわけを尋ねると、信長を荼毘(だび)に付しているのだということです。

信長が「遺体を敵に渡すな」と言い残して切腹したため、こうして火葬して自分たちも後を追うのだと答えました。

■阿弥陀寺の清玉上人が信長の遺骨を本能寺から運び出した

事情を知った清玉上人は、近習たちにこう申し出ました。

「方々も知ってのとおり、自分は長年信長どのに懇意にしていただいた。何かの役に立てればと駆け付けたが、もはや果てられたとなれば是非もない。火葬は出家の役なので、この場を任せてもらえるならば遺骨を寺に持ち帰り、手厚く葬ろう」

近習たちに否はありません。彼らは喜んでその場を清玉上人に任せ、敵中に切り込んで討死したということです。

清玉上人は、火葬を終え、骨を集めて衣に包み、脱出する本能寺の僧にまぎれて阿弥陀寺に持ち帰りました。

当然ながら、光秀の軍勢が、寺中を探しても信長の遺体は見つかりません。

それゆえ、「信長の遺骨は見つからなかった」というのが定説となってしまったのです。

その後清玉上人は、二条御所で息子信忠が討死したと聞くと、光秀に申し出て信忠と家臣たちの遺体も引き取りました。

阿弥陀寺は皇室との縁が深く、清玉上人は正親町天皇の勅願僧に任ぜられたほどの高僧なので、光秀も断れなかったと思われます。

信長と信忠の墓は、本堂裏の墓地に仲良く並び、その横には、森蘭丸や近習たちの墓がひっそりと寄り添っていました。

絵師不明「京都本能寺合戦」
絵師不明「京都本能寺合戦」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]

■後継者となった秀吉が大徳寺で営んだ「遺骨なき葬儀」

由緒があり、信長の墓所もある阿弥陀寺は、なぜ忘れられた存在になったのでしょうか。

それは、秀吉のためでした。

秀吉は、山崎の合戦で光秀を破り、後継について話し合われた清洲会議で、信長の孫三法師を擁立することに成功しました。

「信長の後継者」であることを世に示そうとした秀吉は、本能寺の変の4カ月後、信長の葬儀を行おうとします。

そこで信長の遺骨がある阿弥陀寺で葬儀をしたいと申し入れますが、清玉上人から頑として拒否されます。秀吉はやむなく、信長の遺品だけを集めて大徳寺で葬儀を行い、総見院を建てて信長の墓所としたのでした。

しかし織田家からは、信長の息子の信雄も信孝も参列していません。

その後秀吉は阿弥陀寺を徹底的に弾圧し、移転を強要。信長の墓所と称することも禁じたのです。

時は流れて大正6年(1917)、信長に正一位が追贈されることになりました。

このとき皇室からの使者は、大徳寺ではなく阿弥陀寺の信長の墓前に参向したのです。

信長の遺骨と墓を守ろうとした阿弥陀寺の苦労が報われ、信長が改めて皇室に認められた瞬間でした。

■本能寺の変の直後、清玉上人が秀吉に遺骨を渡さなかったわけ

清玉上人が秀吉に信長の遺骨を渡さなかった理由とは、なんだったのでしょう。

阿弥陀寺で葬儀はもう済んでおり、「改めてする必要はない」と清玉上人は言ったそうですが、秀吉は仮にも信長の後継者です。

遺骨を譲り受けることをあきらめた秀吉は、「それなら、寺に永代供養料として三百石を寄進する」と申し出ましたが、上人はこれもかたくなに拒否したといいます。

「信長公阿弥陀寺由緒之記録」には、その理由も記されていました。

秀吉公若年より莫大(ばくだい)に信長公の御恩を受けて身を立てたる人の、何ぞや信長公道ならず不慮に御生害あそばされたるを幸いに天下を我がものにして、たちまち御重恩を忘れ織田御家門をご家来となされ候事を、清玉上人はなはだ本意なく無念に存じられ、秀吉の事を常に人でなしの人非人とのみ申され候由

享保16年(1731)に書かれたこの記録は、第一級史料とはいいがたいのですが、寺伝として語り継がれたことをまとめたものです。

清玉上人が弟子に話していた内容としては、大筋信用できると思います。

──秀吉は、信長の御恩を受けて身を立てたのに、亡くなられたのを幸いに天下を我がものにしている。重い恩も忘れ、織田家を家来としてしまった。清玉上人は、なんとも無念であり、秀吉は「人でなし」だと語っていた。

つまり、清玉上人は「秀吉は恩知らず」だと言っていたというのです。まことに生々しい証言ではないでしょうか。

歌川国政(五代)作「大徳寺ノ焼香ニ秀吉諸将ヲ挫ク」
歌川国政(五代)作「大徳寺ノ焼香ニ秀吉諸将ヲ挫ク」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]

■秀吉は光秀のクーデターを知っていながら信長を見殺しに?

しかし、私はここで一つの疑念にとらわれました。

というのは、秀吉が織田家の天下を奪う姿勢をはっきりと見せるのは、天正11年(1583)に織田信孝と柴田勝家の連合軍に勝ってからのことです。本能寺の変から4カ月後には、まだそれほどあからさまな行動をとっていないのです。

しかし、清玉上人はまるでその後の秀吉の「恩知らず」を知っているかのようです。

考えられる理由は一つしかありません。

それは秀吉が「本能寺の変」が起こることを知っていながら信長を見殺しにした。そのことを清玉上人が知っていたということです。

清玉上人は正親町天皇の勅願僧であり、秀吉と朝廷との交渉は逐一承知していたはずです。その過程で秀吉が何をしたかをつぶさに知り、「人でなしの人非人」だと決めつけたのだと思います。

■信長の首は忠実な家臣によって駿河の国に運ばれたという伝承

静岡県西山本門寺に信長の首塚があります。

私がこの寺を訪ねたのは、20数年前のことです。

信長の首塚は、本堂裏の池の北側にありました。

楓川亀遊作「本能寺夜軍」
楓川亀遊作「本能寺夜軍」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]

高さ約5メートル、底部の幅は約12メートル、塚の上には樹齢およそ450年という大柊がうっそうと枝を広げていました。

「信長の首はこの3メートル下に埋まっています。柊を植えたのは、人が近寄らないようにするためです」

寺の方がそう教えてくださいました。

安部龍太郎『信長の革命と光秀の正義 真説 本能寺』(幻冬舎新書)
安部龍太郎『信長の革命と光秀の正義 真説 本能寺』(幻冬舎新書)

本能寺の変が起こった時、信長の供をしていた原志摩守宗安が、前夜に囲碁の対局をしていた日海上人(本因坊算砂)の指示により、信長の首をこの寺に運び供養したと伝えられています。

秀吉が無理やり作った墓ではなく、正真正銘の墓所がある阿弥陀寺。

そして、必死の思いで原志摩守宗安が運んだ首を祀った塚がある西山本門寺。

いずれの寺にも、本能寺の変にまつわる謎を解くヒントが残されていました。

秀吉や朝廷が必死で消し去ろうとしても、あらわになる真実。無念のうちに自刃したであろう信長が、我々を導いてくれているのかもしれません。

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安部 龍太郎(あべ・りゅうたろう)
小説家
1955年福岡県生まれ。久留米高専卒。1990年『血の日本史』でデビュー。2005年『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞を受賞。主な著作は、『関ヶ原連判状』、『信長燃ゆ』、『生きて候』、『天下布武』、『恋七夜』、『道誉と正成』、『下天を謀る』、『蒼き信長』、『レオン氏郷』など多数。大河小説『家康』(幻冬舎時代小説文庫)を連載中。

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(小説家 安部 龍太郎)

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