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腐ったもやしを食べながら、成り上がった…そんな自分の会社から追い出された雪国まいたけ創業者の現在

プレジデントオンライン / 2023年9月18日 9時15分

4年ぶりの帰国で撮影に応じる大平さん - 撮影=プレジデントオンライン編集部

【連載 #私の失敗談 第9回】どんな人にも失敗はある。雪国まいたけ創業者の大平喜信さんは「会社を創業するまでの3年間で数百回というもやし栽培の失敗を重ねた。それ以降、どんな失敗も自分の未熟さを表す鏡だと思っている」という――。(聞き手・構成=ノンフィクション作家・稲泉連)

■もやしやまいたけの研究は失敗の連続だった

私の人生は自分で振り返っても、常に「失敗」の連続だったという思いがある。なぜなら、「もやし」や「まいたけ」の研究は、いつもうまくいかないことの連続だったからです。

私は1948年、新潟県の五十沢という山奥の集落で子供時代を過ごしました。実家は農業を営んでいたのですが、家はとても貧しかった。「働かざるもの食うべからず」「貧乏ほどつらいことはないのだから、必死に働いてそこから抜け出さないといけない」と両親から繰り返し言われていたものです。

だから、私は兄弟とともに、小学生の頃から学校を終えると山の上の小さな畑に行き、草むしりや薪(まき)作りを手伝ってきました。今でも思い出すのは、自分の体重と同じくらいの重さの薪を背負い、真下に沢が見える急な斜面を毎日のように降りて行った日々です。足を滑らせれば川まで転がり落ちてしまいそうな場所を、必死になって歩いて薪を運ぶ毎日でしたね。

■牛馬のように薪を運びながら「なぜ」を繰り返した

山の斜面を転ばないように杖をつきながら降りていくと、重さと熱さで小さな体中が痛くなります。川で同級生たちが魚取りをしたり、泳いだりして遊んでいるのを横目に見ながら山で一日中仕事をしていると、何とも言えずつらい気持ちになったものです。

そのなかで、私が自分の原点の一つと思っているのは、そのときに歩きながら繰り返しこう考えていたことです。

「こんなふうに牛や馬のように背中に薪を背負う生活を送っていても、人間はきっと貧乏から抜け出すことはできない。貧しさから抜け出すためには頭を使わなければならない」

なぜ、友達が遊んでいる時に、私だけがこれほどつらい仕事をしなければならないのか。なぜ、自分はそのような貧しさから、いつまで経っても抜け出すことができないのか。薪を背負いながらひたすら考え続けるうちに、この「なぜ」という問いが自分の中に染みついていったように思うのです。そのことは後に「雪国まいたけ」という会社を作ったことや、いまもなおカナダで「将軍まいたけ」という会社を経営している自分の土台を作り上げたのだと思います。

■六畳一間の元豚舎で太もやし栽培に挑戦し続けた

私が初めて自分で事業を始めたのは26歳の時でした。中学を卒業後に集団就職で川崎に行き、電線を巻くドラムを造る工場で住み込みで働きました。5、6人の先輩たちと部屋で寝ていると、雪深い故郷の真っ白な山々の風景がときおり頭に浮かび、涙が出るほど恋しくてたまらなかったことを覚えています。

20歳の時、その故郷に戻った私はフェライト磁石工場でしばらく働いた後、「太もやし」を作る事業を始めることにしました。会社の名前は「大平もやし店」として、自宅の車庫を改造してもやしの研究を開始したんです。

当時、もやしと言えば細いものが主流で、今では一般的になった「太もやし」は市場にあまり出回っていませんでした。私はそれを作れるようになろうと思ったわけですが、これがなかなかうまくいかない。

五十沢では雪が降るともやしの配達がたちまちできなくなるため、私はしばらくして妻とまだ赤ん坊だった長女と長男を連れて都市部の六日町に引っ越しました。そのとき住んでいた家は、本当に貧しいものでしたね。

親戚に紹介してもらった元は豚舎だった建物で、トイレもガスもないベニヤ板で囲っただけの2階の六畳一間で普段は暮らし、1階に作ったもやし工場で3年間にわたって研究を続けたのですから。工場を改造する際もお金が全くなかったので、自分で秋葉原に材料を買いに行って自作しました。

カナダの自社工場で舞茸を生産する大平さん
写真提供=Shogun Maitake
カナダの自社工場で舞茸を生産する大平さん - 写真提供=Shogun Maitake

■窓ガラスが直せず、寝ている顔に雪が降りかかる

「もやしはこやし」とも言われるように、とても腐りやすい植物です。ただ、腐るのも早いが成長するのも早いので、栽培方法を研究していると3日に一度は「失敗」を経験します。室内の環境を変えるためにストーブを不完全燃焼させたときは、酸欠になってふらふらになってしまったこともありました。そのようにして、3年の間に何百回という「失敗」を私は経験したことになったのです。

「太もやし」を安定して収穫できるようになるまで、私たち家族は本当に貧しい生活を送り続けました。食べるものが腐りかけたもやししかなかったこともあるし、窓ガラスが割れても修理するお金がないので、ゴザを窓に打ち付けてしのいだ時期もありました。冬になると、その隙間から雪が部屋に舞い込み、眠っている顔に降りかかるようなありさまでした。

■失敗はそれを予測できなかった自分の未熟さを表す鏡

そうした中で「失敗」を繰り返しても諦めなかったのは、「失敗」とはそれを予測できなかった自分の未熟さを表す鏡のようなものだ、という思いがあったからです。失敗をするとさまざまな犠牲を払うことになりますが、研究において一つの失敗は一つの勉強に他なりません。

勉強になったのだから、私は失敗をする度に「これで一つ成長した」と受け止め、次はそこにあった学びを活かすことだけを考えました。たくさんの「失敗」を積み上げて、それを学びに変え、「次はこうしてみよう」と想像して前に進む糧としていく。3日もあれば結果が分かるもやしだからこそ、起こした行動に対して何が起こるかがすぐに分かる、ということも励みになりましたね。

3年後、太もやしの栽培はそうして成功し、商品はスーパーマーケットやラーメン店に飛ぶように売れるようになりました。そして、次に私が挑戦したのがまいたけの栽培です。ある日、もやしの配達で訪れたスーパーでまいたけが高値で売られており、少し形が悪くても1キロで3000円以上、時には5000円でも売れることを知ったからでした。

■常に「人は何を望んでいるか」を徹底的に考える

当時の日本ではまいたけはまだまだ珍しい食材で、私は業者を探して菌を売ってもらったものの、作り方は教えてもらえませんでした。それから、再び試行錯誤の研究の日々が始まりました。おがくずと栄養剤と水を混ぜたポットにまいたけの菌を植え付け、菌糸の成長を日々見続けました。自分の生命維持はまいたけの成長にかかっていると思い、研究を進めたものです。その日々もまた、私のもう一つの原点だと思っています。

まいたけの栽培に成功した私は市場でのシェアを獲得するために、とにかく品質を安定させることに努め、「雪国まいたけ」を設立しました。年々、設備投資によって生産量を増やし、結果的に商品は日本全国で売られるようになりました。

雪国まいたけ本社。新潟県南魚沼市
雪国まいたけ本社。新潟県南魚沼市(写真=Yamappy/PD/Wikimedia Commons)

私が事業のなかでいつも肝に銘じているのは、人の心をいかに正確に読み、何が望まれているのかを徹底的に考えることでした。

世の中の生き物は全て、自己の望みをかなえたいと願っているはずです。建前としてはその思いを表に出さなくても、本音では誰もがそう思っている。よって何事かを成し遂げようとするときは、相手が本当に望んでいることとは何かを想像し、最も有利な形でその思いをかなえようとする姿勢が必要だ、と。

まいたけを売ることも研究することも同じ。品質を良くして、いかにコストを下げて、欲しい時にいつでも手に入るようにするか。そのようにひたすら考え続けたことが、雪国まいたけの事業が成功した理由だと信じています。

■「お家騒動」も自身の未熟さゆえ

しかし、そのなかで私が大きな挫折を経験することになりました。2012年のことです。前年、会社では数十億円規模の設備投資を行ったのですが、その際に見込んでいたブナシメジの栽培がうまくいかなかったのです。新しい設備での商品の形が悪く、バイヤーさんが取り扱ってくれない。設備の入れ替えで生産量と利益を増やす計画が失敗し、会社が大赤字に転落してしまいました。

時を同じくして、私は雪国まいたけでの「お家騒動」によって社長の座を降ろされることになりました。新しく雇った役員たちが私の追い落としを諮ったからでした。

その経緯については言いたいこともたくさんありますが、今となってはやはりそれも私の「未熟さ」がもたらした出来事だった、と思うしかないと考えています。研究開発の担当者の言葉を信じ、設備投資を決断したのは私であり、新たな役員を事業拡大のために迎え入れたのも私であるのだから、と。

大平さん(左)と弟の安夫さん
写真提供=Shogun Maitake
大平さん(左)と弟の安夫さん - 写真提供=Shogun Maitake

■常に自らの未熟さを自覚する

2012年、「雪国まいたけ」は創業以来、初めての赤字になった後、2015年に米国のファンドによるTOBが成立しました。私は会社を出ていくことになりましたが、その後、株を売ったお金を元手にカナダに渡って始めたのが、「将軍まいたけ」という会社です。カナダのオンタリオ州の郊外に1300平米の栽培施設を建て、まいたけの中でも最高の「黒まいたけ」を北米の市場で販売しています。

人間というのは、「失敗」をせずに何の不自由もなく人生を送っていると、「自分の行動は全て正しいんだ」と思いがちです。しかし、私は今の自分は未熟なんだ、未完成なんだと思い、世の中にはもっと素晴らしい能力を持つ人がいるのだから、もっと頑張らなければならないという気持ちでいるようにしています。

常に自らの未熟さを自覚し、「失敗」をしたら一つ成長した、勉強したと考える。人生や事業はその積み重ねであり、苦しさや失敗をバネにしてきたことが、常に今の自分の土台になっているのだと思うのです。

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稲泉 連(いないずみ・れん)
ノンフィクション作家
1979年東京生まれ。2002年早稲田大学第二文学部卒業。2005年『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』(中公文庫)で第36回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『ドキュメント 豪雨災害』(岩波新書)、『豊田章男が愛したテストドライバー』(小学館)、『「本をつくる」という仕事』(筑摩書房)など。近刊に『サーカスの子』(講談社)がある。

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(ノンフィクション作家 稲泉 連)

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