日本の国家予算の27%にあたる超巨大市場だった…「にせオッパイ」に目をつけたワコール創業者の慧眼
プレジデントオンライン / 2023年7月30日 10時15分
■会社の将来を託せる「主力商品」の市場
春はファッションの季節だ。昭和24年(1949)の春も、塚本幸一が設立した和江商事(※ワコール創業当時の会社名)の女性用装身具の販売は順調だった。
だが手放しで喜ぶことはできない。流行は大きく変化するためだ。模造真珠だ、ブローチだ、竹細工だ、水晶ネックレスだといろいろ扱ってきたが、安定して売れる商品がなかなか見つからない。
最初のうちは、それが商売をする上での面白味でもあったのだが、会社を大きくする上で、絶えず流行を追うのは危険すぎる。
そこで幸一が目を付けたのが女性下着の世界だった。
女性下着には大きく分けてファウンデーションとランジェリーの2種類がある。
ファウンデーションは身体のラインを美しく補正する下着のことで、幸一がまずはターゲットにしたブラジャーとコルセットがこれにあたる。それに対してランジェリーは補正された身体と服の間に着るもので、ペチコート、ショーツ、ガードル、ネグリジェなどを指す。
幸一は、ブラジャー・コルセット・アソシエーションという業界団体がアメリカにあることを突き止め、手紙で問い合わせてみた。
すると、なんと昭和18年(1943)年の売上げがアメリカ国内だけで2000億円近くあることがわかった。昭和24年の日本の国家予算は7410億円である。米国の市場が日本とは比較にはならないほど巨大なものであったとはいえ、女性下着市場の大きさは容易に理解できた。
(これから日本の女性は絶対洋装化する。洋装になったら体型を補正する下着がアメリカのように売れるはずだ)
目指していた大企業への道がここにあったのだ。
その予感が確信に変わったのは、ある商品との出会いがきっかけであった。
■幸一と「にせオッパイ」との出会い
同年の8月初め、大宝物産社長の安田武生という人物が“オマンジュウのようなもの”を持ってやってきた。
アルミ線を蚊取線香のように巻きあげたスプリング状のものに古綿(ふるわた)をかぶせ、布にくるんでバストラインを補正するよう作られたものだ。幸一は後に“にせオッパイ”と冗談めかして表現したが、これこそ女性下着に進出するきっかけを与えてくれた「ブラパット」だった。
ところが安田はこの時、気になることを口にした。
「実は青山はんにも買ってもらいまして」
“青山はん”とは宿敵青山商店のことである。いつもアクセサリーの販売で競合している相手だけに負けるわけにはいかない。
(この商品が日本中で流行するかどうか、試すならやはり東京や。東京で売れたら絶対売れる)
東京で売ることでライバル青山商店の機先を制しようとしたのである。
■ブラパットを担いで飛び乗った夜行列車
幸一は安田の持ち込んできたブラパットを全部仕入れると、夜行に飛び乗って東京へと向かった。東京で売ることで青山商店の機先を制しようとしたのである。
当時の夜行列車は本数が少ないのでいつも混んでいたが、この日は特にひどくてすし詰めだ。ドアに半身を乗り出した乗客が鈴なりで、これ以上乗れそうもない。
普通なら諦めて翌日にしようと思うところだが、幸一は諦めなかった。
開いている窓から、
「すみません、入れてください。すみません!」
とあやまりながら、無理やり身体を押しこんだのだ。
荷物も持っているのだから強引そのもの。並の神経ではできない芸当だ。
乗ったはいいが、座席はもちろん床まで人で一杯である。すると彼はひじ掛けにつま先を乗せ、背もたれにおしりの片方を乗せ、片手で網棚の棒をつかみ、反対側の肩にブラパットの入ったダンボール箱を抱えた格好のまま、東京までの10時間以上を耐えた。
東京駅に着き、八重洲口から銀座に向かって歩いた。東京に慣れていないから、新橋駅で降りたほうが銀座に近いことを知らなかったのだ。
ブラパットを置いてくれそうな店に飛び込み営業をしたところ、どの店でも関心を持ってくれ、飛ぶように売れた。
(これは幸先がええぞ!)
と内心ほくほくしながら、銀座4丁目交差点の服部時計店(現在の銀座和光)の前までやってきた。三越や御木本真珠店の並ぶ銀座のど真ん中である。信号を待っていてふっと交差点の向こう側を見た瞬間、全身に緊張感が走った。
■大切に保管されている「ワコールの原点」
幸一と同じように段ボール箱を持っている男がいる。見たことのある顔だと思ったら、青山商店で番頭役をしている男だ。
向こうはまだ気づいていない。相手の持っている荷物を見て、売っているのはブラパットに違いないと確信した。多分向こうは新橋方面から売り始め、銀座をちょうど半分ずつ販売して真ん中で出会ったに違いなかった。
(今から銀座の残り半分を回っても、すでに彼に先回りされているから売れる数は知れている。それより、東京で銀座周辺の次に売れそうな娯楽の町浅草に行くのが得策だ)
一瞬でそう判断した。
浅草でもブラパットは売れに売れた。
持ってきた分を完売すると、久々の東京であったにもかかわらず観光することもなく、その日の夜行で京都にとんぼ返りし、すぐに安田との間で独占販売契約を結んだ。
今度こそ機先を制することができたのだ。おそらく青山商店の番頭は、その日、この製品が完売したことだけで満足していたであろう。しかし幸一はその先を見つめていた。
今でもワコール本社に「初心忘る可からず 塚本幸一」と書かれた初期のブラパットがガラスケースに入れられて大切に保管されているのは、これがまさにワコールの原点であったからにほかならない。
■会社設立を機に「女性社員第1号」を採用
昭和24年(1949)10月5日、父粂次郎が他界する。55年の生涯だった。
前年8月、張り切って九州まで行商に行ってくれたはいいが、猛暑と疲労が重なって帰宅後熱を出し、慢性の心臓疾患もあって、その後、急に衰弱していってしまったのだ。
(そもそも親父が寿命を縮めたんは、病気がちやった親父を手伝わせんといかんほど、自分が和江商事をしっかりした会社にできていなかったからや……)
深い悔恨が彼を苛んだ。
幸一は父の死を契機に、和江商事の法人化を決めた。世間から一人前と認められる株式会社にすることが亡父への一番の供養だと考えたからだ。
昭和24年11月1日。父の死の1カ月後にあたるこの日が、ワコールの創立記念日となった。
会社設立を機に、幸一は二つのことを行った。一つは自分の呼び名を大将から社長に変えさせたこと。そしてもう一つが、初めて女性社員を採用したことだった。
最初は事務の女性を雇ったというにすぎなかったが、やがて幸一は女性の持つポテンシャルに気づき、彼女たちの力を大いに引き出していく。女性活用こそが、ワコール発展のカギであり、同時に塚本幸一という経営者の強みとなっていく。その歴史はまさにこの昭和24年にはじまったのだ。
そして栄えある女性社員第1号が内田(うちだ)美代(みよ)と長谷川(はせがわ)照子(てるこ)だった。
長谷川は女子事務員としてはすこぶる優秀だったが早くに退職した。ひと昔前まで女性社員の典型であった寿退社であろう。詳しい情報は残っていない。
だが一方の内田美代は、時代の枠を越えた女性だった。“キャリア・ウーマン”のはしりと言っていいだろう。後に和江商事の飛躍のきっかけとなる一大イベントで獅子奮迅の働きをする。
■陸軍軍人の家に生まれた内田美代
昭和3年生まれの内田は、この時21歳。陸軍軍人の家に生まれ、戦前は裕福だったが、陸軍大佐だった父がニューギニアで戦死し、敗戦によって戦時公債が紙くずとなると、一気に貧しい生活を強いられることになる。
3人姉妹の真ん中だったが、上の姉は嫁に行き、内田が家を支えねばならなくなった。桃山高等女学校(現在の京都府立桃山高校)卒業後、義兄の紹介で日本輸送機(現在の三菱ロジスネクスト)に入社し、設計課で事務員として働き始める。
そんなある日、ふとしたことから和江商事を知ることになった。
町内会長がある日、家を訪ねてきてこう言ったのだ。
「友達が和江商事いう会社やってて、女子事務員を探しとるらしいんや。おたくの美代ちゃんどうやろ?」
彼は幸一の八幡商業の同級生だった。
日本輸送機は立派な会社だったが、戦後は厳しい経営状態が続き、レイオフの噂が出ていた。友達思いの町内会長の押しの強さもあって、
「面接だけでも受けてみたら」
と母親も加勢してきた。
多勢に無勢である。説得に負けた彼女は翌日、とりあえず面接に行くこととなった。
(えっ……これが会社?)
日本輸送機とは段違い。外から見たらただの民家である。
雑多な商品が所狭しと並べられ、土間から一段高くなった畳の部屋では、一生懸命荷造りしている人がいる。
「すみません……」
内田が声をかけると、梱包(こんぽう)のクッションにしていた藁くずをいっぱいつけたまま、その男が振り返った。それが社長の幸一だった。
■長谷川は経理、それ以外の総務を内田が担当
こうして彼女たちは昭和24年(1949)11月1日付で入社することとなった。先述したように和江商事が株式会社化された日、つまり創立記念日であった。
そろばんのできる長谷川は経理に配属され、経理以外の総務を内田が担当することとなった。内田の主な仕事は接客と電話番、そして便所掃除だ。
接客などしたことのなかった内田は、
「毎度ありがとうございます」
という言葉がなかなか言えなくて苦労した。
当時の社員は幸一の八幡商業時代の同級生である中村と川口のほか、幸一や内田たちも入れて全部で10人である。
入社した内田が一番がっかりしたのは、給料の遅配があったことだ。月3回に分けて10日分ずつ払われることもあった。それだけ資金繰りが大変だったのだ。
(大丈夫やろか……)
心配になったが、もうあとには引けない。懸命に仕事を覚えようと努力した。
「商品の名前と種類、教えてもらえませんか?」
と尋ねても、先輩社員はなかなか相手にしてくれない。
「そんなあわてんでも、そのうちに覚えるて」
と軽くいなされたが、それでも必死に食らいついていった。
そろばんも長谷川に負けたくないという一心で、見よう見まねで覚えてしまった。
■経営の根幹とも言うべき在庫管理を任される
そうした彼女の頑張りを、社員たちとの会話を背中で聞きながらしっかり把握していたのが幸一だ。
「ちょっと内田君いいかな?」
ある日、幸一から呼ばれた内田は、経営の根幹とも言うべき在庫管理を任されることになる。
最初のうちは在庫と帳簿があわなくて大変だった。営業がろくに商品の数も数えず売りに出るからだ。
「すみません。売りに行くとき、商品の数を確認して、申告してから営業に出て下さい」
とお願いすると、
「何言うてるねん、邪魔くさい」
ですまされてしまうこともしばしばだった。十分な売上金を持って帰ってくれば文句はないだろうというのが営業の言い分だった。
だが内田は譲らない。任された仕事に対する責任感は人一倍ある。邪魔くさそうな顔を露骨にされても折れなかった。見本にする分も含め、いくら持ち出し、売上げがいくらで在庫がどれだけあるか。商売の基本を彼女が押さえていったのだ。
(さすが軍人の娘や。並の女性やない……)
言葉にはしなかったが、幸一は内心感心していた。
■倒産の危機に直面し、起死回生の百貨店攻略に挑む
女性社員も採用し、気合を入れてブラパットを売っていこうと力こぶを作った矢先、幸一はいきなり倒産の危機に直面することとなる。
昭和24年(1949)の冬はことのほか冷え込みがきつかった。するとブラパットがぱったりと売れなくなってしまう。厚着をする冬はバストラインを気にする必要がなくなることに気づかなかったのだ。
独占契約を結んでいたので、売れなくてもブラパットは次から次へと運び込まれてくる。当然、代金を支払わねばならない。とたんに資金繰りが厳しくなった。
昭和25年(1950)2月、会社存続の危機に立っていた幸一は、強い決意を持って上京した。百貨店攻略のためである。
以前、だめもとでブラパットを三越に持ち込んだ際、
「直接の納入は認められませんが、半沢商店さんを通じてなら検討してもいいですよ」
と言われたことがあった。
半沢商店は東京の大塚に本社を置く大手衣料雑貨問屋である。都内の百貨店への女性下着の納入をほとんど押さえ、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
機先を制することの好きな幸一としては珍しいことだが、これまで半沢商店へのアプローチは敢えて避け、距離を置いてきた。もし半沢商店に取引をお願いして失敗したら、当時の一流の証明であった百貨店への進出は諦めねばならないと考えたからだ。
ところが……事情は変わった。そもそも倒産の危機に直面しているのだ。失敗を恐れている場合ではない。起死回生の一手にするべく、不退転の決意で半沢商店訪問を決意した。
■1年4カ月の間、京都と東京を往復した「東京飛脚」
行ってみると意外と小さな店舗であった。商品が道にはみ出すほど置かれ、みなかいがいしく働いている。
「ブラパットの和江商事ですが……」
と挨拶すると半沢(はんざわ)巌(いわお)社長本人が出てきてくれ、彼の口から意外な言葉が飛び出してきた。
「いいところに来てくれた! 春も近づいてきたので、そろそろブラパットを仕入れようと思っていたところだよ」
なんとその場で50ダースもの注文をくれたのだ。
「ありがとうございます!」
深々と頭を下げ、店を出てもう誰も見ていないところまで来た時、へなへなと力が抜けた。これで倒産の危機はなんとか回避できる。
(まだ天は俺を見捨てていない!)
そう思った。
京都に帰る道すがら、その日見た半沢商店の店先を思い出していた。扱ったことのない商品がたくさんあった。とりわけコルセットの優美さに強く惹かれた。
京都に着くとすぐ、半沢社長に宛てて手紙を書いた。50ダースもらったブラパットの注文代金を、お金ではなくコルセットでもらいたいと申し出たのだ。幸一は半沢商店を、自社製品を百貨店に売ってもらう問屋として利用しながら、逆に自社で小売りする製品を卸してもらう問屋としても利用しようとしたわけだ。
半沢は驚いたに違いないが、了解したという返事とともに商品が送られてきた。
それらに和江商事が当時商標として使っていたクローバー印を貼って売り歩いたところ、仕入れ分はまたたく間に売り切れてしまった。
それからというもの、幸一は毎週ブラパットを担いで夜行に乗り、半沢商店にコルセットの仕入れをしに出かけた。この後、約1年4カ月の間、京都と東京の往復が続くのである。彼はこれを“東京飛脚”と呼んだ。
■上京に内田を同行させた幸一の狙い
そのうち幸一は“東京飛脚”に内田を同行させるようになった。
男性社員はそれぞれの得意先回りで忙しい。そこで内勤の彼女に目をつけ、荷物を持たせると同時に、もう一つの目的を秘めて連れていったのである。
大型のトランク二つに商品が一杯入っている。救いは、かさばりはしたが商品自体が軽かったことだろう。
宿賃を節約するため、相変わらず日帰りである。
特急列車の「つばめ」でさえ東京まで行こうとすれば7時間半ほどかかった時代。夜行だと10時間以上かかる。今で言えばアメリカ出張くらいのイメージだった。1等や2等でなく、もちろん3等列車だったから、今の飛行機のエコノミークラスのほうがよほど快適であったろう。
夜行列車は朝6時半に東京駅に着く。半沢商店が店を開ける8時までの間を利用して、銀座にできたばかりの東京温泉で汗を流し、朝食をとってから半沢商店に乗り込んだ。
半沢商店の商品は人気があるから、仕入れ量を確保するのが大変だ。ここで内田の出番である。男だけなら向こうも関心を持たないが、わざわざ女性が長い時間かけて上京してきたとわかると対応が違う。
■約3カ月で和江商事の収支は黒字に転換
2人並んで頭を下げ下げしながら、できるだけ多く仕入れさせてもらえるよう頑張った。当時のコルセットは人気商品だ。他社もみな欲しがっている。2人はずっと職人の横にはりついて、他の店に持っていかれないよう見張っていた。
そしてもう帰らねばならないリミットである夕方6時頃、完成された商品がたまったところで最後にもう一度頭を下げ、帰途についた。ブラパットと違いコルセットはかさばるので、持参したトランクだけでは間に合わない。一反風呂敷と呼ばれる大判の風呂敷に包んで逃げるように店を出て、再び夜行列車に飛び乗るのだ。
列車に乗った頃には、くたくたになっている。
「もうちょっと会社が立派になって、このへんに1泊できるとこができるとええなぁ」
熱海を通る時、幸一が独り言のように口にしたのを内田は記憶している。
その後も幸一たちは5日から1週間に1度の割合で京都と東京を往復した。すると3カ月ほどしたところで、和江商事の収支はついに黒字に転じたのだ。
ところが好事魔多しという。
突然半沢商店から、ブラパットの取引中止が告げられたのだ。
(第4回に続く)
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作家
1960年、愛知県名古屋市生まれ。富士銀行入行。資産証券化の専門家として富士証券投資戦略部長、みずほ証券財務開発部長等を歴任。2008年にみずほ証券退職、本格的に作家活動に入る。著書に『白洲次郎 占領を背負った男』(第14回山本七平賞受賞)『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』『吉田茂 ポピュリズムに背を向けて』(以上講談社)、『松下幸之助 経営の神様とよばれた男』『小林一三 時代の十歩先が見えた男』『稲盛和夫伝 利他の心を永久に』(以上PHP研究所)、『陰徳を積む 銀行王・安田善次郎伝』(新潮社)、『胆斗の人 太田垣士郎 黒四(クロヨン)で龍になった男』(文藝春秋)、『乃公出でずんば 渋沢栄一伝』(KADOKAWA)、『本多静六 若者よ、人生に投資せよ』(実業之日本社)などがある。
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(作家 北 康利)
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