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押し寄せる米兵たちの「性の防波堤」に…敗戦国となった日本の警察が開設した「慰安所」の胸痛む実態

プレジデントオンライン / 2023年7月31日 17時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/liebre

第2次世界大戦で敗戦国となった日本は終戦直後、アメリカが主導する連合国軍の占領下に置かれた。国内には、占領軍による性暴力を防止するため、性的な「慰安所」が多数設置されたという。女性史研究者・平井和子さんの『占領下の女性たち 日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」』(岩波書店)より、神奈川県の事例を紹介する――。

■占領軍上陸前、「良家の子女」への避難勧告

太平洋の激戦を戦ってきた実戦部隊である米第八軍、第一陣の上陸先となった神奈川県では、8月24日、政府と大本営に横浜市を加えて折衝連絡委員会をつくり、「平和的進駐」のための準備にまい進した。ダグラス・マッカーサーの厚木到着予定日の4日前のことである(実際の到着は台風のため2日遅れ、30日となった)。マッカーサーは到着後、横浜に入り税関ビルに米太平洋陸軍の総司令部を置いた。

それ以前、8月15日の天皇の終戦詔勅直後、神奈川県知事・藤原孝夫は、県庁の女性職員に3カ月分の給与を渡した上で解雇し、疎開促進を命じた(*1)。その後、占領軍の最初の上陸場所と予想される神奈川県では人々の不安が増し、「男は全部逮捕され、青年は去勢される。女はみんな強姦だ‼」という流言飛語が拡がった。

横浜市長・半井清は藤原県知事と渡辺次郎警察部長と相談し、占領軍の上陸前に「良家の子女」をしばらく避難させたほうがよいという勧告を区長を通じ各町内会へ流した。同時に、渡辺警察部長は、逗子や鎌倉方面の「良家の子女」、海軍関係の留守家族などはすべて退去するように命令を出している(*2)

■女子への心得「貞操を守る為には死を決して抵抗」

海兵隊が進駐した横須賀では、8月30日午前11時に米兵2人による侵入と母子への強姦、午後6時には米兵2人(1人は見張り)による強姦が通報され、翌31日には横浜市や鎌倉市での強盗、強姦の報告が神奈川県知事から内務大臣山崎巌宛てに出されている(*3)(千葉県館山市でも第八軍海軍部隊兵による2件の強姦が報告されている)。

神奈川県警察部は、「婦女子強姦予防」として、独り歩きや夜間の外出の厳禁や戸締まりの厳を新聞に掲載するとともに、町内会へ回覧を回すなどしている。そのなかで、女子の心得は「貞操ヲ守ル為ニハ死ヲ決シテ抵抗シ、止ムヲ得ザレバ相手ニ危害ヲ加ヘルモ正当防衛トシテ許サルベキコトヲ納得セシムルコト」としながら、対策として「米兵慰安所ヲ急設スルコト」を打ち出している(*4)

■進駐1週間で米兵による犯罪は900件を超えた

これは内務省保安課が9月4日に出した「米兵ノ不法行為対策資料ニ関スル件」に倣ったものと考えられる。女性に対しては「死をもって貞操を守る気概を」と説き、並行して性暴力の防波堤としての「慰安所」の開設を警察が自ら行うのである。

進駐後1週間の9月5日までの米兵の犯罪件数は、強姦9件、傷害3件、武器強奪487件、物品・金銭の強奪411件、家屋侵入5件、その他16件、計931件であったと『毎日新聞神奈川県版』(1945年9月8日)で報じられている。しかし、9月以降の犯罪統計はGHQの検閲によって禁止されることとなったため全容は不明であり、この数字は氷山の一角であると考えられる。

■国より先に警察自らによる「慰安所」開設

ポツダム宣言を受諾した直後の8月18日、内務省警保局長から全国の道府県知事と警察長官へ占領軍兵士向けの性的「慰安所」をつくるようにという無電秘密通牒(「外国軍駐屯地における慰安施設について」)が発せられ、占領軍進駐先に「慰安所」がつくられた。

神奈川県の場合、内務省警保局からの指示より3日前の8月15日、正午の天皇による「終戦詔書」のラジオ放送を聞いた後、午後3時からの警察署の監督者打合せ会議において「慰安所」の設置の指示が出されている(*5)

指示を出したのは藤原県知事で、渡辺次郎警察部長の下、保安課長、次長がその任にあたり、県衛生課長らが衛生面で協力した。警官自ら出向き、疎開していた接客業経験者80人をかき集め、横浜市の山下町のアパートに互楽荘を開設した。

「婦女子」には避難勧告を行う一方で、芸娼妓は「慰安婦」用に呼び寄せたのである。米軍上陸後の8月30日には、互楽荘へ数千人の兵士が殺到した。そのほとんどが正規の外出許可を受けずに勤務中抜け出した者で、武器を携行していた。支払いはタバコ、菓子などで行われることが多かったが、後に円で支払うようになった。

■警察がナプキンや消毒液、化粧品を買い付けた

押し寄せる米兵たちのトラブル続きだった互楽荘は、約1週間で閉鎖に至った(*6)。代わって、戦前チャブ屋(外国人の船乗り用の「曖昧茶屋」=ひそかに売春も行う料理茶屋・宿の俗称)のあった大丸谷から本牧小港までを結ぶ地区に貸座敷9軒が開業し、174の業者が355人の「慰安婦」を集めて営業をした(*7)

米側も兵士の「慰安所」利用を禁止するのではなく、各「慰安所」を米憲兵が巡回し、性病予防対策が余念なく行われた。占領軍上陸とともに、被占領国女性を介した男性同士の「日米合作」が始まったのである。

当時復員軍人などで列車が混雑したため、警察は「慰安婦」の呼び寄せに際して、鉄道各駅に連絡のうえ募集人の「公務乗車証明書」および身分証明書を発給し、優先的に乗車ができるように便宜をはかっている(*8)。営業に必要な物資――布団・客用寝巻・タオル・ナプキン・脱脂綿・消毒液・化粧品などは、保安課が車を出して買い付けに行き、業者へ配給した。

■「こんなよごれたからだで国の役に立つのなら」

一方、米第三艦隊が上陸した横須賀では、8月17日には安浦保健組合(私娼組合、88軒)と米ケ浜芸妓組合、翌18日には二業組合、柏木田遊郭組合、皆ケ作私娼組合の業者と芸娼妓が集められ、警察による「慰安所」開設のための説得が行われた。

業者と女性たちを前に横須賀署長・山本圀士は、「戦争に負けたいま、ここに上陸してくる米兵の気持ちを皆さんの力でやわらげていただきたいのです。このことが敗戦後の日本の平和に寄与するものと考えていただき、そこに生甲斐を見出だしてもらいたいのです(*9)」と壇上で言葉を詰まらせながら説得した。

保安課主任の遠藤保は、「〔横浜市の〕真金町にいた女たちが、こういうよごれた体で国の役に立つのなら、よろこんでやりましょうと言って、白百合会というのをつくって本当によくやってくれました。最初の2カ月位は涙の出るほど献身的にやってくれました(*10)」と書き留めている。「慰安所」をつくった側の男性の言葉や意図は資料から知り得るが、当事者である女性たち自身の言葉が残っていないのはまことに残念である。

■米兵に集団レイプされた娼妓の悲痛な叫び

ただ、真金町の「正直楼」の中村ヨシ子(24歳)という娼妓が米兵に集団レイプされたことを語った言葉が、神奈川県知事が内務省へ提出した「大東亜戦争終結ニ伴フ民心ノ動向ニ関スル件」(8月30日~9月5日)に記されているので、ここに書き留めておきたい。

彼女は「慰安所」に集められた女性ではないが、「慰安所」をつくった男性側の「涙の出るほど献身的にやってくれました」という記録とは、全く異なる女性側の思いを代弁しているように思える。

私ハ米兵四人ニ連行サレ約三十名ノ米兵ニ輪姦セラレマシタガ斯ル行為ガ敗戦ノ結果ニ来ルモノナラ 日本婦人全部ハ原子爆弾ニテ最後ヲ遂ゲタ方ガ寧ロ幸福ダロウト思ヒマス。

斯ノ種屈辱ヲ受ケタ婦人ガ他ニ在ルトスルナラバ恐ラク私ト同感ダロウト思ヒマス。私ガ如キ下卑ナ女ニハ自刃スル力モアリマセン。誰ヲ恨メバイヽデセウ(*11)

■遊郭に送られた被差別部落の女性たち

前掲の安浦保健組合は、日ノ出町の海軍工廠工員宿舎を「慰安所」(通称「安浦ハウス」)として開設、私娼172人が集められた。川元祥一の研究では、安浦遊郭へは群馬県桐生市周辺の被差別部落出身の女性たちが多く送られて来ていたという(*12)。差別と貧困、そして部落内での家父長制の犠牲として娼妓に売られることの多い被差別部落の女性たちは、敗戦時に戦勝国兵士へ真っ先に差し出された女性たちでもあった。

安浦ハウス(写真=横須賀市議会/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
安浦ハウス(写真=横須賀市議会/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

占領軍幹部のなかに芸妓遊興を求める者が多かったため、県警は皆ケ作私娼組合と横須賀芸妓組合に対し、「待合茶屋」(芸妓との遊興を目的とする貨席)として5軒を外国人向けに指定し、芸妓70人に接客させた。以上、横須賀では三組合で営業者164軒、「慰安婦」358人となった(*13)。この他、藤沢、平塚、高津、小田原、秦野、厚木でも従来の施設を利用して新規営業をさせている。

■男性は「やむを得なかった」「最善を尽くした」

国に先駆けて占領軍向け「慰安所」を設置した始終を克明に記す『神奈川県警察史 下巻』は、これらを記したのち、保安課長・降簱節の以下のような言葉を書き加えている。

私たち警察部保安課のやったことがよかったかわるかったかはともかくとして、日本の一般の婦女子が進駐軍兵士の牙にかからずすんだというのは、これはこの時の女たちの献身のためとも言えようし、また私たちも、あれはあの時としてやむを得なかったことだし、いま言ったような意味で最善をつくしたんだというふうに思っているわけです(*14)

この言葉には、「性の防波堤」論に立ち、女性を「一般婦女子」と性売買者に二分化し、前者を守るために後者が「献身」してくれた、そのために自分たちは最善を尽くした、という自己免責の論理がある。このような論理は、上は政府肝いりのRAA(特殊慰安施設協会、Recreation and Amusement Association)幹部から、下は地方で占領軍「慰安所」を開設した警察の担当者まで、立場を問わず男性たちに共通する。

■「神奈川方式」は各地で応用実践された

神奈川県には各府県から警察署員が視察にやってきて、警察部主体の「慰安所」開設方法である「神奈川方式」を学び、各地でそれを応用実践した。

平井和子『占領下の女性たち 日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」』(岩波書店)
平井和子『占領下の女性たち 日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」』(岩波書店)

また「慰安所」は県や警察だけではなく、地元の有力者が開設する場合も多くあった。敗戦時に各府県知事が民衆の動向を内務省へ上げた報告書のなかには、一部の右翼が「慰安所」を設置している例もある。旧国粋同盟総裁、笹川良一の実弟(良三)を社長、旧幹部(岡田多三郎、松岡三次)を総務として、9月18日、大阪市南区の食堂跡地に連合軍「慰安所」・アメリカン倶楽部が開設されている(*15)

(*1)細川護貞『情報天皇に達せず』下巻、1953年8月26日頃、同光社磯部書房、430頁。
(*2)『神奈川県警察史』下巻、1974年、21頁。
(*3)粟屋憲太郎・中園裕編『敗戦前後の社会情勢』第七巻「進駐軍の不法行為」現代史料出版、1999年、54頁。
(*4)「神奈川県に於ける聯合軍兵士関係の事故防止対策 神奈川県警察部」粟屋憲太郎編『資料 日本現代史62』大月書店、1980年、310-315頁。
(*5)山本圀士「終戦前後の思い出」『横須賀警察署史』1977年、367頁。
(*6)『神奈川県警察史』下巻、348頁。
(*7)同前、355頁。
(*8)同前、349頁。
(*9)同前、347頁。
(*10)同前、354頁。
(*11)『敗戦時全国治安情報』第2巻、202頁。
(*12)川元祥一『開港慰安婦と被差別部落――戦後RAA慰安婦への軌跡』三一書房、1997年。
(*13)前掲、『神奈川県警察史』下巻、357頁。
(*14)同前、352頁。
(*15)前掲、『敗戦時全国治安情報』第6巻、122-123頁。

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平井 和子(ひらい・かずこ)
女性史・ジェンダー史研究者
1955年広島市生まれ。立命館大学文学部卒業後、中学校、高等学校の教員を経て、1997年静岡大学教育学部社会科教育修士課程修了。2014年一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了(社会学博士)。現在、一橋大学ジェンダー社会科学研究センター客員研究員。専門分野は、近現代日本女性史・ジェンダー史、ジェンダー論。著書に『日本占領とジェンダー 米軍・売買春と日本女性たち』(有志舎)『占領下の女性たち 日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」』(岩波書店)がある。

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(女性史・ジェンダー史研究者 平井 和子)

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