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なぜアステラス製薬社員は中国政府に拘束されたのか…国際常識からかけ離れた「反スパイ法」の恐ろしさ

プレジデントオンライン / 2023年7月27日 17時15分

東京都中央区、医薬品メーカー大手のアステラス製薬のロゴマーク看板=2017年2月2日 - 写真=時事通信フォト

今年3月、アステラス製薬の社員が3月に中国当局に反スパイ法違反の疑いで拘束された。具体的な拘束理由は明かされていないが、これまでの報道を総合するとどんな理由が考えられるのか。ジャーナリストの村上和巳さんが解説する――。

■製薬会社社員が「反スパイ法違反容疑」で拘束された

アステラス製薬の50代の日本人男性社員が、中国の北京で中国国家安全部に反スパイ法違反容疑で拘束された事件から約4カ月が経過しようとしている。

中国側は拘束直後、3月27日の定例会見で外務省副報道局長の毛寧氏が「スパイ活動に従事した疑いがある」と発言し、4月28日には駐日大使の呉江浩氏が「無実の人が拘束されたというような問題ではない」と語っているものの、この社員が何をもってスパイ容疑としたかの詳細は明らかにしていない。

この間、日本側は在中国日本国大使館が7月19日に4度目、かつ拘束後初の直接対面での領事面会を行い、本人の健康状態には問題ないことを確認し、中国側に早期の解放を求めているものの進展は見られていない。そして7月1日から中国は適用範囲を広げた改正反スパイ法を施行した。

アステラス製薬の社員がなぜ拘束されたかをここであえて考察してみたい。

■条文が曖昧過ぎる中国反スパイ法8項目

まず、いま一度、中国の反スパイ法について整理しておく。同法は正式名称が「中華人民共和国反間諜法」で、2014年に制定された。制定当初の同法ではスパイ行為として、以下が規定されていた。

(1)中国の安全に危害を及ぼす活動
(2)スパイ組織への参加あるいはスパイ組織やその代理人の任務引受け
(3)国家秘密・国家情報を窃取、偵察、買収もしくは不法に提供する活動
(4)公務員に対して中国を裏切るよう扇動、誘惑、買収する活動
(5)敵に対する攻撃目標の指示
(6)その他のスパイ

そして今回の改正ではさらに以下が追加されている。

(7)国家の安全と利益に関わる文書・データ、資料や物品の窃盗行為
(8)国家機関や重要な情報インフラへのサイバー攻撃

一見、具体的に見えるかもしれないが、1番目に規定された「中国の安全」や改正で追加された7番目の「国家の安全と利益」の範疇は曖昧である。もちろん中国側からすると、これを詳しく条文化すること自体、国家機密が何であるかを例示する危険性があるとの論理は成り立つ。

しかし、この条文に曖昧さに加え、この社員以前に拘束された16人での事例の詳細がほとんど明らかになっていないこと、従来中国が法治というよりは人治の色彩が強いことも相まって、同法による摘発は他国から見れば「後出しじゃんけん」の印象は拭えない。

■諸外国の常識ではありえない国家機密の定義

過去の摘発者の中で具体的な証言をしている人が1人だけいる。2016年7月、同法違反で中国国家安全部に逮捕された日中青年交流協会元理事長の鈴木英司氏だ。鈴木氏は6年の実刑判決が下って収監され、先ごろ刑期満了で帰国し、その経験をメディアに語っている。

鈴木氏の場合、2013年12月の中国高官との私的な会食時、北朝鮮情勢を話題にしたことが反スパイ法に抵触したと扱われた。鈴木氏が話題にした北朝鮮情勢とは、北朝鮮の国家元首である朝鮮労働党総書記・金正恩氏の叔父で、当時は同国国防委員会副委員長だった張成沢(チャン・ソンテク)氏が粛清された一件だ(後に北朝鮮国営メディアが正式に処刑を発表)。

この情報は韓国の国家情報院が同国国会情報委員会の所属議員に2013年12月3日に報告。議員らがそれを明らかにしたことで、同日中に韓国内外のメディアが報じた。鈴木氏の証言によると、この翌日に中国高官との私的会食の席でこの報道を口にしたところ、高官からは「知りません」との返答が返ってきただけ。しかし、逮捕後にこれが反スパイ法に抵触したと聞かされた。

このやり取りを鈴木氏自身は「世間話」と称しており、一般的にも多くは同様の理解をするだろう。百歩譲ってやや意地の悪い表現をすれば、何らかの情報をぶつけて相手の反応を見る誘導尋問の一種、いわゆる「鎌をかける」と考えることもできるが、少なくとも証言通りならば、特に国家機密をやり取りしたことにはならない。

しかし、鈴木氏の取調官は「国営の新華社通信が発表していないニュースは国家機密にあたる」と申し渡されたという。中国ではインターネット検閲が行われている事情を組んでも、かなり理解しがたい論理である。

■「産業スパイでは」との指摘もあるが…

今回拘束されたアステラス製薬社員は、同社の前身である旧山之内製薬出身者で、中国事業の経験が約20年におよぶベテラン。中国国内で活動する日本企業の団体である中国日本商会で役員も務めていた。

世間一般では「反スパイ法」「製薬企業の社員」というキーワードから、「何らかの産業スパイを働いたのではないか?」「拘束して逆に日本の製薬業界やアステラス製薬が抱える情報を盗み取ろうとしているのでは?」と考える人は少なくないようだ。

まず、中国では現在、世界各地の大学・研究機関への留学経験者や国際大手製薬企業(通称:メガファーマ)各社で働いていた人材などをベースに発足した自国の製薬企業が急速に成長している。特に人工的に製造した抗体を利用したバイオ医薬品領域では日本をしのぎつつある。

しかし、現時点での製薬企業の総合的な研究開発力は、まだ日本のほうがやや上である。また、前述のバイオ医薬品に関して言えば、本場は欧米であり、急成長の裏を返せばややハリボテとも言える中国の研究開発力に関する情報は、日本の製薬企業関係者がリスクを冒して得るほどの価値はない。

一方、欧米の研究機関などへの留学経験者を日本以上に擁する中国からしてみれば、日中の研究開発力の差が縮小した今、外交関係悪化を承知の上で日本の製薬企業の社員を拘束して得る必要のある情報もほとんどないに等しい。現在の日中の研究開発力の差は、そのような微妙な位置にある。

■「臓器移植実態調査」という陰謀論的推論も

また、一部メディアでは、拘束理由について「中国の臓器移植事情を調査していたためでは?」との推測が報じられている。

中国では当局に拘束された反体制派から不当な移植用臓器摘出が行われているとの報道が以前からあり、なおかつ中国で販売されているアステラス製薬の主力製品が臓器移植後に使われる免疫抑制薬であるために出てきた見方だろう。

しかし、この免疫抑制薬は体重によって投与量が異なり、臓器移植後の経過時期や状態で投与量の調整が必要なもの。そのため販売量から使用実態、ひいては中国での不当な移植実態を正確に推定するのはかなり困難である。もちろんかなり荒っぽい概算なら可能だろう。とはいえ、この薬自体はすでに1999年から中国で発売されており、今さらそうした概算に基づく中国の臓器移植実態を分析することが、同社の業績に影響を与える可能性は低い。この推測は、やや口酸っぱく言えば、陰謀論の域を出ないものである。

こうした前提で拘束者の立場、中国の製薬関連事情、さらに前述の鈴木氏の事例などを踏まえた場合、拘束された理由として私が予想しているものは3つある。

■考えられる拘束理由その1

中国共産党幹部の汚職などの巻き添えを食らった

第1は中国史上、異例の国家主席3期目に入った習近平氏の下で活発化している「汚職・腐敗撲滅運動」などで摘発された中国共産党幹部などの巻き添えを食らった可能性である。

習氏が推し進める汚職摘発の強化は、政敵排除とともに民意表明の機会なき国での大衆のガス抜きという2つの手段を有する、権力基盤の源ともいえるものだ。中国共産党の中央規律検査委員会が昨年10月明らかにした習指導部発足以来の汚職摘発実績は、10年間で約464万人にものぼる。総人口約14億1200万人の中国で、共産党員は国民の14人に1人未満の約9671万人であり、摘発者はその約5%となる。日本人向けの例えをすると、摘発者数は日本最大の政令指定都市・横浜市の人口(約377万人)をしのぐ規模だ。

はためく五星紅旗
写真=iStock.com/Rawpixel
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Rawpixel

しかも、数だけでなく、その中身も容赦がない。摘発者の中には、同国の事実上の国権最高機関で、構成員は暗黙の不逮捕特権を有すると言われた中国共産党中央政治局常務委員会(通称:チャイナ・セブン)のメンバーだった周永康氏(裁判で無期懲役が確定)など高位の者も含まれている。

今回拘束された社員は、中国高官ともかなり頻繁に接触していたと言われている。こうした立場にいると、親密度の高い相手が汚職で摘発された場合、余罪追及に向けて周辺人物に身柄拘束が及ぶことは珍しくない。実は前述の鈴木氏が北朝鮮について軽いやり取りをした高官が別容疑で逮捕されており、そうした疑いがあると言えるかもしれない。

■考えられる拘束理由その2

日本の政府・官庁などへの情報提供の可能性を疑われた?

拘束された社員は前述のように現地で中国日本商会の役員も務め、日中友好事業などの名簿にも頻繁に名前を連ねていた人物。この場合、単に製薬企業の中国駐在員が接触できるレベルを超えた高官に接触する機会は増える。さらにこの社員は、国内では経済産業省主催の研修で中国でのロビー活動などに関して講演を行った経験もある。

このため国の「安全と利益」に関わると中国側が考えるセンシティブな情報(あくまで中国基準だが)に接触する危険性は必然的に高まるし、そのうえで日本の官公庁との接触が明らかになっていると、日本という国の意図を受けた情報の収集・提供を行っていたとの疑念を抱かせる可能性が生じる。

■考えられる拘束理由その3

承認審査を中心とした医薬品の規制情報の収集過程が法に抵触か?

個人的には最もあり得そうと考えているのが社業、より具体的には承認審査を中心とした規制情報などの収集が、中国側に反スパイ法への抵触と扱われた可能性だ。

現在、製薬企業による新薬の研究開発は年々難航し、ある化合物が動物実験、ヒトでの臨床試験を経て、医療現場に登場するのは実に約2万2000分の1の低確率。しかも、一般的に必要な開発期間は10~15年、開発費は約200億円と言われる。昨今では人工知能(AI)を利用した創薬も模索され始め、今後成功確率は多少上昇するかもしれない。しかし、それでも臨床試験開始後に有効性や安全性の問題で開発中止に至ってしまう事態が起こるのは避けられない。つまり臨床試験終了までの期間は不確定要素が多く、これを短縮することは容易ではない。

このため製薬企業が期待することの1つが、臨床試験を終えて各国規制当局に製造承認を申請した後の審査期間がより短縮され、結果として市場投入が早まること。当然、規制当局の動向は最大の関心事の1つだ。実際、日本や欧米でも製薬企業各社は官公庁をはじめとした関係各方面に接触して常に規制に関わる最新情報を収集している。

規制関連の情報収集は企業にとって死活問題

しかし、中国はこの点でかなり難点を抱え、2000年代は新薬の承認申請から承認可否決定まで2~3年も要することはザラ(日米欧では通常1年程度)。中国側もこの部分は問題視していたようで、審査を担当する「医薬品評価センター」の審査担当者増員などにより、ここ数年は300日以下まで短縮している。

さらに2020年の改正薬品登録管理弁法では、承認申請から承認可否決定までの期間を原則200営業日以内と規定して一層の短縮を図っている。さらに最近では、治療上の価値や緊急性の高い新薬に対する優先審査制度を新設するなど、日米欧で標準的な審査制度・体制を急速に整えている。ただし、この変化はあり得ないほど性急な動きだ。

これらを総合すると、中国に拠点を置く海外の製薬企業の社員は、目まぐるしく変更される規制関連の情報収集に血眼になっていたはずだ。それを1日でも早く入手できるかどうかが、他社との競合も含めて事業遂行上の死活問題だからだ。とくに中国の場合、人口規模が大きいことをはじめ、製薬企業としては魅力が大きい市場でもある。

しかし、医療は国家の経済安全保障に密接に関わる分野だけに、こうした情報を中国側が「国家の安全と利益」に関わると考える可能性は十分にあるだろう。

■反スパイ法に抵触しないためには

このアステラス製薬社員の拘束は単に日本の製薬企業の問題ではなく、中国に進出する全ての海外企業にとって看過できない問題だ。しかも反スパイ法改正で適用範囲は広がったことは確かで、中国国内での日常的な企業活動で「後出しじゃんけん」とされる危険性は高まったと言える。

今回の反スパイ法の改正について中国側は7月21日に日米欧の現地駐在企業団体などを集めて説明会を行ったが、そこではありきたりの条文説明に終始したと言われる。中国に進出する企業関係者にとっては、今後手探り状態で拡大したリスクと向き合わなければならない状態が続くだろう。

今回の法改正内容や前述の過去の事例を突き合せれば、最低限として

▽中国高官とは私的面会は避け、可能な限り全て公式面会にする
▽中国側の人間から不用意に文書を受け取らない
▽中国内外のデリケートなテーマは話題にしない

は今後の危機管理として最低限厳守すべきだろう。

また、日本国内などのビジネスの場では日常的である種の情報を相手にぶつけて反応をうかがうという行為は避ける、あるいは相当慎重に行う必要がある。

会議室で交渉するグループ
写真=iStock.com/FangXiaNuo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/FangXiaNuo

■中国に精通した社員ほど要注意

さらに何よりも重要なことは、中国に出張・駐在する社員にこうした注意点などを徹底的かつ継続的に教育することだ。日中間は現在政治的な冷却状態が続いているとはいえ、コロナ禍の影響を除けば、極めて往来の多い2国間関係である。それゆえ慣れや親近感で気が緩みがちになる。

特に中国との往来が多いビジネスマンほど要注意だ。実際、鈴木氏も今回のアステラス製薬社員も中国との交流期間はかなり長い。この場合は何気ない言動が反スパイ法抵触と指摘される局面はどうしても増えてしまう。

いずれにせよ中国は一般的に日本人ビジネスマンが渡航する国の中では、カントリーリスクが高めであるこということを改めて認識しておくべきと言えよう。

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村上 和巳(むらかみ・かずみ)
ジャーナリスト
宮城県出身。中央大学理工学部卒。医療専門紙記者を経てフリーに。専門は国際紛争・安全保障、医療分野、災害・防災など。07~08年、オーマイニュース日本版デスク。NPO法人日本医学ジャーナリスト協会理事兼事務局長。著書に『二人に一人がガンになる 知っておきたい正しい知識と最新治療』(マイナビ新書)、『化学兵器の全貌』(三修社)、『ポツダム看護婦(電子書籍)』(アドレナライズ)、共著『戦友が死体となる瞬間 戦場ジャーナリストが見た紛争地』(三修社)、『がんは薬で治る』(毎日新聞出版)、『生物兵器テロ』(宝島社新書)、『震災以降』(三一書房)など多数。

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(ジャーナリスト 村上 和巳)

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