老母の前の畳に包丁をブスリと刺し「2人で死んだ方がいい」…介護で"廃業"の60代次男が車で畑に突っ込むまで
プレジデントオンライン / 2023年7月29日 11時15分
■酒乱の父親は49歳で死去
東北地方在住の山田寅彦さん(仮名・60代・既婚)の両親は、知り合いの紹介で、父親30歳、母親23歳の時にお見合いをして結婚。母親は翌年、山田さんの兄を、26歳の時に山田さんを出産した。
父親は兄3人、妹1人の5人きょうだいの末っ子。母親は兄・姉・弟・妹の5人きょうだいで、働き者で明るい人だった。
建築関係の自営業をしていた父親は、幼い山田さんや兄とよく遊んでくれた。山田さんが物心ついたとき、ひょうきんな父親を中心とした笑いのある明るい家庭だった。
しかし、何がきっかけか、父親は徐々に働かなくなり、日中から飲酒するようになっていく。酒を飲みすぎて暴れることが増え、家庭が暗くなっていった。両親の夫婦仲は悪くなり、父親が暴れたときは、母親に背負われて逃げたこともあった。
母親は、働かなくなった父の代わりに精密機械の下請けの仕事を始め、家計を支えるようになった。
父親は49歳になると、酒の飲み過ぎから肝硬変になり、急死。
「日中から酒を飲んでいることが多く、私が高校に入ると、頻繁に居酒屋から呼ばれ、泥酔した父を背負い、家まで連れ帰っていましたが、背中に失禁されたこともありました。暴力は振るわれませんでしたが、酔って私のラジカセを踏みつけて、壊してしまったこともありました。小さい頃からよく遊んでくれた情はありましたが、(亡くなっても)涙は出てきませんでした」
兄も泣いていなかったが、母親は泣いていた。
42歳の母親は、父親が亡くなってすぐ、乳がんになっていたことがわかったが、手術や入院治療を経て、その後は寛解。退院後は働きながらも、高校3年生になっていた山田さんの毎日の弁当作りをこなしてくれた。
兄は高校を卒業し、建築関係の会社に就職していた。山田さんは高卒後、不動産関係の専門学校に進む。やがて24歳くらいの頃、兄は結婚し、実家を出た。その2年後、建築設備の会社に就職していた山田さんが、高校時代からの友人だった女性と結婚し、実家を出た。
そのタイミングで、一人暮らしになった母親を心配した兄家族が実家にもどり、母親と同居を開始。母親は仕事を続けながらも、友人たちとの交際も積極的に行っていた。還暦後は、老人大学などに参加して新しい友人をつくり、充実した老後を送っていた。
ところが兄家族と母親の同居から約16年後、兄が42歳、母親が66歳の頃、兄夫婦の離婚が決まる。兄の妻と子どもたちは出て行き、実家は母親と兄だけになってしまった。その後、半年くらいで兄は実家を出て、一人暮らしを始めた。
「母はいつも心配して、良くしてやろうとして言っていたようですが、兄は小言を受け流すことが下手というか、やはり相性が良くなかったということでしょうか。兄は離婚後、精神的に不安定になっており、実家にいるのがつらくなったようです。母は、私は素直に母の言うことを聞く耳を持つが、兄は素直に聞いてくれないと嘆いていました」
■母親が白血病に
兄は離婚後に家を出てから、母親と折り合いが悪くなり、なるべく接触をさけていた。山田さんは、仕事場から自宅の中間に実家があったため、週に3〜4回は帰宅途中に2時間ほど寄るようになっていた。
「兄が離婚後実家を出る時、『俺はおふくろとうまくいかないから出るが、お袋のことは頼む』と言いました。私はまだ介護のことまで考えていなかったので、母と仲が良かった私は、快く承諾したのです」
実家に寄ると、母親は必ず自分で作ったおかずを一品、持たせてくれた。だが、元気に暮らしていた母親が75歳で受けた特定健診で、慢性骨髄性白血病であることが判明する。
「白血球の数値が突然上がっていたため、主治医が紹介状を書いてくれました。私の付き添いの下、総合病院の血液内科を受診すると、急性でなく慢性骨髄性白血病と診断されました」
医師の説明によると、「慢性骨髄性白血病は、骨髄中で白血球が過度に多くつくられる病気であり、緩徐に進行する血液と骨髄の疾患。症状としては、疲労感、寝汗、発熱があるが、場合によっては全く症状を示さないこともある」という。
母親はまだ症状は見られなかったが、要注意状態となったため、山田さんはほぼ毎日、実家に寄るようになっていった。
■母親の異変
それから10年、2014年に母親が85歳になると、母親に異変が見られ始めた。
自営業で、衣料品関係の店や飲食店を経営していた山田さん(59歳)が仕事帰りに寄ると、必ず一品持たせてくれる夕飯のおかずの味がだんだん濃くなり、髪の毛が入っていることが多くなった。また、テレビショッピングを頻繁に利用するようになり、健康器具など、同じものを購入してしまった。電話機やテレビのリモコンなど電気機器の使い方が分からなくなり、銀行のATMの操作ができなくなったため、山田さんに、「通帳を預けるから、お金の管理をして」と言うようになった。
「この頃はまだ、年齢による物忘れだと思い、私も母もそれほど深刻には考えていませんでした。私が認知症予防のドリルを用意して持って行くと、母は楽しみながら毎日、脳の訓練をしておりました」
翌2015年の2月ごろ、2度目の認知症検査を受けると、以前はさほど悪くなかったが、今回は主治医から「MRIを受けた方がいいですよ」と言われ、紹介状を出してくれた。
後日、紹介状を手に総合病院でMRIを受けると、母親は「アルツハイマー型認知症」との診断を受け、認知症の薬を飲み始めた。同じ頃、介護認定の申請をしたところ、要介護1。母親は、デイサービスを週に1回、訪問介護を週に2回から利用開始する。
「アルツハイマー型認知症」であることがわかってから、山田さんと母親は度々話し合いをした。
「母は、私たちに介護の苦労をかけたくないという思いを常々話していたので、最後はホームに入所したいという希望を持っていました。その際、新築の高齢者用ケアハウスの広告を見つけ、見学会に行ってみることにしました」
同じ2015年の5月ごろ、新しくできた軽費老人ホームに母親とその友人を連れて見学へ行った。だが、山田さんは興味津々で見学したが、母親はあまり自分事として捉えていない様子だった。
ところがその年の冬。高血圧だった母親は、血圧を下げる薬を所定量より多く飲んでしまったせいか、血圧が下がりすぎて身体がガタガタ震え、ろれつが回らない状態で、仕事中の山田さんに電話をしてきた。電話を受けた山田さんは、すぐに救急車を呼んだ後、実家に車で向かう。到着すると、ちょうど救急車が出たところだったので、車で後を追った。幸い、母親は投薬だけで落ち着き、すぐに帰宅することができた。
■通い介護
2015年までは、昼間はデイサービスや訪問介護だけ利用し、夜は時々山田さんが泊まるようにしてやり過ごしていた。
母親は朝8時ごろ起床し、山田さんが寝ているリビングのコタツの座椅子に座り、山田さんを起こす。母親は夜中、7〜8回トイレに起き、その度に山田さんも気になって目が覚めてしまうため、ほとんど熟睡できていなかった。
山田さんは、眠い目をこすりながら朝食の味噌汁を作る。母親は、料理はできなくなったが、まだ自分で箸を持ち、自分で食べることはできた。
デイサービスがある時は、食事のあと、すぐに母親の持ち物の準備をして、身支度を済ませる。連絡帳などの準備が済むと、送迎時間の10分前くらいにトイレに行かせる。だが、出てほしいときに出なかったり、車に乗ると出したくなったりで大変だった。
病院へ行く日は、午前中に受診を済ませた。
「病院帰りについでに買い物をしたいのですが、母のトイレが近いので、先に家に送った後、買い物をすることが多かったです。昼食はコンビニ食がほとんどでした。買ってきて2人で食べました。午後、母独りで大丈夫そうなときは、私は用事に出掛けるか、私の車で30分くらいの自宅に戻り、食事をしたり、自分の用事をこなしたりしていました」
山田さんは通い介護と言うが、実質はほぼ同居介護だ。
だんだん認知症の症状が進み、2時間以上は母親を独りにできなくなると、自宅や職場にいても、1時間ほどで実家に戻る。
夕食は、日中に自宅に戻った際に妻に持たされたものか、コンビニ食、スーパーの総菜に味噌汁が多かった。夕食後はテレビを観て、入浴すると、就寝。訪問介護があるときは、ヘルパーさんに部屋の掃除などをしてもらい、その間に山田さんは自分の用事を片付けた。
■「私は今、どこにいるだえ?」
しかし、2016年になると、母親はますます1人で過ごせる時間が短くなっていく。
11月のある日、山田さん(61歳)が衣料品店の仕事をしていると、突然母親から電話がかかってきた。びっくりして出ると、「私は今、どこにいるだえ? ここにいていいだかえ?」と焦った様子でたずねる。山田さんが落ち着かせながらどこにいるのか確認すると、母親自身の家だった。
山田さんが仕事でいない日中や、デイサービスも訪問介護もないとき、しばしば自分がどこにいるのかわからなくなった母親から電話がかかってくるようになると、山田さんが仕事に集中できなくなるだけでなく、母親の徘徊(はいかい)の危険性も高まってきた。
そこで、ショートステイを利用することにした。
12月。母親自身は行くことを渋ったが、山田さんはなだめたりすかしたりしながら何とか初めてのショートステイに行かせた。その日は山田さんの妻も実家に来ていて、山田さんと2人でショートステイ帰りの母親を迎えた。
「どうだった? 気に入ってくれた?」
「嫌なところとは思わなかった?」
山田さんと妻は、すがるような気持ちで母親に問いかける。すると母親はぽつりぽつり言った。
「食事はまずくて、夜は脚が寒くて、夜中に館内を歩いた……。帰る日はレクリエーションをして楽しかった……。何より、息子夫婦が、『泊まってくれて、とても助かった』と、言うなら、それが一番良かった……。だから、また泊まりに行く……」
それを聞いた山田さん夫婦は、胸をなでおろした。しかし山田さんは、自分に保険をかける意味で、「明日になったら、わからないよ」と妻に言った。
■在宅介護の限界
そんな翌日。その日は山田さん(当時62歳)だけでデイサービス帰りの母親を迎えた。母親は帰宅するなり、どうも機嫌が良くない。「どうした?」と聞いてみると、母親はまた、ぽつりぽつりと話し始めた。どうやら、昨日のショートステイに対する不満が母親を不機嫌にさせているようだ。
「泊まりには行きたくない……」
そう言って下を向く母親。
「昨日は私の妻の前ということもあって、本音が言えず、私たちの雰囲気に合わせたのでしょう。私の母の介護は、食事や排泄の介助というより、見守りや補助をするものでしたが、母はまだ自分で歩けたので、徘徊の可能性が高く、目が離せないのが大変でした。だんだん母にかかりきりになり、仕事ができなくなって、収入が減ってくると、私はジワジワと経済的な不安も増してきていました」
衣料品の店は、山田さんがほぼ1人で切り盛りしていたため、母親につきっきりでいれば店を開けられない。藁にもすがる思いで利用したショートステイだったが、あるとき「行きたくない」と言われ、山田さんは目の前が真っ暗になってしまった。
次の瞬間、山田さんはキッチンに包丁を取りに行き、母親が座る目の前の畳に思い切り突き刺した。
「自分は親の介護なんかしたことがねえくせに!」
「2人で死んだ方がいいんだよ、それしかねえんだよ‼」
母親を罵る言葉がとめどなく口から溢れ出た。しかし母親は、「お前……何てことするだえ?」と言ったきり、冷めた目で山田さんを見ていた。
「内心、自分で自分がバカみたいだと思っていました。ただのパフォーマンスでしたね。62歳のいい大人が何をしているのかと、恥ずかしくなってしまいました。介護は大変でしたが、思い返してみれば、面白いネタの宝庫で、母と夜な夜なデカイ口を開けて大笑いをしたものでした。入れ歯を外した母の顔は、別居していてはきっと見られなかったと思います。私が大笑いすると、母もその口を開けて大笑いするので、それを見た私はさらに、腸が捻じれてしまったのではないかと思うほど笑い転げました。しかし、そんな日々の中でも、やはり介護は楽なものではなく、心身ともに疲れた私は母に声を荒らげ、最後には手を上げたり、包丁を畳に突き刺して脅したりと、2016年は精神的に相当不安定になっておりました」
■厄介な病気
その夜のこと。物音が気になって山田さんが目を覚ますと、時計は午前3時。音がするのは母親のベッドの方だと気付くと、山田さんは行って明かりをつけた。すると布団から上半身を起こして、母親がすすり泣いていた。
「どうした? そんなに行くのが嫌なら、もうショートステイ、行かなくてもいいよ」
何とも言えない気持ちになった山田さんは、思わずそう口にしていた。
実はこの日、山田さんは発熱していた。このところ疲れがたまり、肉体的にも精神的にも限界で、「母がショートステイに行ってくれなければ、自分のほうが先に参ってしまう」と崖っぷちにいる気分だったのだが、そう言わずにいられなかった。
「2015年からのこの2年。何度、私は母を泣かしたでしょう。認知症になるまで、母が泣く姿なんで想像もできませんでした。いつでも強く明るくいてくれた母が認知症になって、母を見るストレスから、私は母をなじり、口汚く責め、悔しい思いをさせてしまいました……」
夜中、ひとり泣く母親の姿は、山田さんを今までになくつらい思いにさせた。
すると母親は嗚咽をこらえながら言った。
「そうじゃないよ……。お前の具合が悪いのに……何もしてやれねえ……。泊まりは行くよ……。そうしねえと……お前が困るからな……」
それを聞いた山田さんは、自分の布団に戻って泣いた。
「母にこんな気持ちにさせずに済む方法は? 私にとっても、こんな状況にならずに済む方法はあったんだろうか……? どこで、道を間違えたのか……? 母は今を生きてない方が幸せだっただろうな……と、思わずにはいられませんでした」
山田さんは母親を泣かせたあと、押し寄せる後悔にいつも苦しんでいた。
「認知症はとても厄介な病気です。言い表せないほど、毎日が食い違いの連続でした。最もつらかったのは、介護の疲労によって、母に言ってはいけないことを言ったり、やったりしてしまったこと。これはもう、私が死ぬまで悲しみ苦悩することになりました」
その後、介護度が要介護2に上がったことから、介護保険のサービスの範囲でデイサービスを2回から3回まで増やし、さらに山田さん自身の負担を減らすためと、母親の安全確認の目的で、訪問介護の回数を週4回に増やした。
■介護廃業
2017年11月。88歳の母親が風邪をひき、ひと月ほどショートステイに行けなくなった。そのため、山田さんがほとんどひと月母親につきっきりになり、衣料品の店は完全廃業に。
さらに介護による不眠や疲れから、日中、車での移動中、寝不足から気を失い、対向車線側の畑に突っ込んでしまう。幸い対向車が来なかったため、事故は免れたが、この出来事で山田さんは、「もう限界だ!」と妻に訴え、ケアマネジャーに相談することに。ケアマネジャーからグループホームを勧められた山田さんは、そのとき空いていたところに母親を入所させることにした。
ところが、費用が全く足らないことが判明。山田さんはすぐに兄に電話し、これまでの経緯と現在の状況を説明。兄に施設費用の6割ほどを負担してもらうよう要請すると、兄は快諾してくれた。(以下、後編へ)
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ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。
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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)
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