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NHK大河ドラマはあまりに史実と違う…信長が家臣から次々と謀反を起こされた本当の理由

プレジデントオンライン / 2023年7月29日 13時15分

織田信長像[神戸市立博物館蔵・重要文化財](写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)

織田信長とはどんな武将だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「傍若無人なイメージがあるが、史実をみると決してそんなことはない。一度仲間になった相手は徹底的に信用していた。ドラマで描かれたような、自分しか信じない人物ではない」という――。

■歴史への誤解を広めている「どうする家康」

主役である以上、徳川家康がそれなりに美化されるのは仕方ない。織田信長が家康の引き立て役として描かれ、ダークサイドが強調されても、ある程度は許容されると思う。これら歴史上の巨人が、これまでと違う描き方をされること自体が、安易に否定されるべきではない。

とはいえ、脚本家が思い描く家康像や信長像をドラマで鮮明にし、見せ場を作るまではいいが、あきらかに史実と認定されていることや、すでに学問上の定説になっていることまで無視するとなると、話は別である。NHK大河ドラマは、歴史ドラマとして楽しんでいる視聴者が多い以上、史実や定説をある程度ふまえてドラマを制作しないと、歴史への誤解が広がってしまう。

あらためてそう感じたのは、大河ドラマ「どうする家康」で描かれた家康(松本潤)像と信長(岡田准一)像についてだった。

第27話「安土城の決闘」では、信長の居城である安土城(滋賀県近江八幡市)でもてなしを受けたのちの家康が、夜にひとりで城内の信長の居所を訪ね、信長と口論になる場面が描かれた。

■「自分しか信じない」という信長は本当か

日中に信長が家康をもてなした際、饗応役の明智光秀(酒向芳)が出した淀の鯉の臭いを家康が気にしたのを機に、信長が光秀を怒鳴りつけ、何度も殴る様子が描かれた。それについて家康が「明智殿のご処分はほどほどに」と進言すると、信長は「しくじりは許さぬ。使えない者は切り捨てる」と言い切った。

このとき信長が、光秀を「使えない者」と認定していたとは到底考えられないのだが、それについては、あとで詳述する。

信長が「甘く見られれば足元をすくわれる」と言うと、家康はかつて老臣の鳥居忠吉(イッセー尾形)に言われた以下の言葉を信長に伝える。「信じなければ信じてもらえん。それで裏切られるなら、それだけの器」。すると信長は、「それはいかん。だれも信じるな。信じられるのはおのれ一人だ」と言い返す。

というのも回想シーンによると、12歳の信長は父の信秀(藤岡弘)から、「おぬしの周りはすべて敵ぞ。身内も家臣もだれも信じるな。信じられるのはおのれ一人、それがおぬしの道じゃ」と言われていた。

こうして成長したため、だれ一人、信じることがない、というのが「どうする家康」で描かれた信長像である。たしかに江戸時代には、儒教思想の影響もあって、信長は暴虐で独りよがりな人物と認識されていた。しかし、それを今日まで引きずっても仕方ない。いまではむしろ、信長は人を信じやすいがゆえに足元をすくわれた、と提起されている。

■話の展開にかなり無理がある

第28話「本能寺の変」では、家康は安土をあとにして訪れた堺(大阪府堺市)で、信長の妹の市(北川景子)に遭遇。市は家康に次のように語りかけ、自分のほかだれも信じない信長像を、さらに強調した。

「兄を恨んでおいででしょう。私は恨んでおります。兄ほど恨みを買っている者は、この世におりますまい。でも、あなた様は安泰です。兄は決してあなた様には手を出しませぬ。あなた様は兄のたった一人の友ですもの。兄はずっとそう思っております。みなから恐れられ、だれからも愛されず、心を許すたった一人の友には憎まれている。あれほど哀れな人はおりませぬ。

いずれだれかに討たれるなら、あなた様に討たれたい。兄はそう思っているのでは。兄はあなた様がうらやましいのでしょう。弱くて、やさしくて、みなから好かれて、兄が遠い昔に捨てさせられたものをずっと持ち続けておられるから」

こうして市の話に心を揺さぶられ、家康は信長を討つのを断念した。

まず、この展開にはかなりの無理がある。どう無理があるのかを理解するために、ここで「プレジデントオンライン」の過去の記事で指摘したことを、簡単におさらいしてきたい。

■なぜ光秀は信長を討ったのか

「どうする家康」では、家康は信長を恨んでおり、その理由は、有村架純が演じた正室の築山殿(ドラマでは瀬名)と嫡男の松平信康(細田佳央太)を、信長のせいで死に追いやられたからだとされた。

しかし、歴史上の築山殿は宿敵の武田氏と内通し、そこに信康を巻きこんだため、家康は自分の判断で妻子を死に追いやった。現在、それが研究者たちの共通認識である。

築山殿の肖像
築山殿の肖像(図版=西来院蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

脚本家は最初から、家康と築山殿を仲のいい夫婦として描き、その流れを変えられないので妻子の死を信長のせいにし、被害者としての家康を描く。そのために史実が曲げられてしまったが、元来、家康には信長を討とうと考える動機がない。

また、家康が信長を討とうと考えたのは、妻子を殺されたという私怨によるという描き方だが、明智光秀が本能寺で信長を討ったのも、やはり私怨が原因だとされた。

家康の饗応役を務めた際、家康が鯉の臭いを気にしたために信長の逆鱗(げきりん)に触れたのを恨んでの謀反で、ドラマ内の光秀の言葉を借りれば、「上様はしくじりを決してお許しにならないお方」で、饗応役に失敗し、「私はもう終わった」からだった。

しかし、史実の光秀には、自分が取次役を務める土佐(高知県)の長宗我部元親に対し、信長がいったんは領土の保全を約束しておきながら、それを反故にして元親をも対象にした四国攻めを決めたため、取次役として立場が失われた、という動機があった。

■イマドキの若者のような言動

柴裕之氏は「戦国大名や国衆にとっての優先事項は領国の『平和』の維持にこそあった」と記す(『徳川家康』平凡社)。戦国大名とて人間だから、だれかを恨むことはあっただろうが、個人の恨みを押し殺して、「領国の『平和』の維持」のために行動しなければ、自分ばかりか家族や家臣の命さえ守れなくなった。

当時はそんな時代で、大名たるもの、行動原理は個人の思いなどよりもはるかに家の存続に依拠していたのだが、「どうする家康」の登場人物は、令和の若者のように個人の思いを優先する。

■相手を信じすぎる信長

さて、ドラマでは自分しか信じない人間として描かれた信長について、金子拓氏は「本能寺の変直前においても、信長は光秀を強く信頼していたことである」と書く。

根拠はこう記される。「光秀は、武田攻め、家康らの接待、そして中国攻めのための出陣と、信長の命を受け休む間もなく奔走していたのである。これだけ立てつづけに重要な役目を与えられるのだから、信頼されていないはずがない」(『織田信長 不器用すぎた天下人』河出書房新社)。

信長を裏切った人物は、光秀の前にもいた。妹の市を嫁がせた浅井長政。同盟を結んでいた武田信玄、上杉謙信、毛利輝元。家臣では松永久秀、荒木村重。しかし、裏切りを知ったときの信長の反応はいつも共通しており、耳を疑って、信用しようとしていない。

たとえば、浅井に裏切られたときは「虚説たるべしと思し召し候ところ(ウソに違いないとお思いになったのだが)」と『信長公記』にある。松永や荒木の裏切りも、『信長公記』によれば、最初はまったく信じようとせず、裏切りが事実とわかったのちも、なにか不足があるなら考える旨を伝え、慰留しているのである。

藤本正行氏は「信長には、このように話し合いで解決しようとした例が、案外多い」(『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』歴史新書)と書く。そこには、「しくじりを決してお許しにならない」「使えない者は切り捨てる」という信長像はない。

そして金子氏は、「これほどたびたびの裏切りにあった信長は、あまりに相手を信じすぎたのではないか」という結論に達している(同前)。つまり、相手を信用すぎたがゆえに油断が生じた、というのである。

■心から人を信じることがなかった家康

一方、家康は、ドラマの市が言うように「弱くて、やさしくて、みなから好かれ」る人間だったのだろうか。

磯田道史氏によれば、「家康はこれ以上、他人や家臣に踏み込まないという境界線を、自分のなかで決めていたように思えます。(中略)戦場では卑怯な真似をせず、勇敢に戦え。それさえやっていれば、秀吉ほど気前よく禄はやれぬが、子孫までちゃんと面倒を見る。この姿勢で一貫しています」という(『徳川家康 弱者の戦略』文春新書)。

だが、これは家康が人を信用したというよりは、冷静だったと評すべきことだろう。

豊臣秀吉に臣従したのちは自己主張を控え、あらぬ疑いをもたれないように、居城になった江戸城の整備さえ控えた。ところが、秀吉が死ぬと一転、秀吉が禁じた大名たちとの縁組を重ね、政務を自身に集中させ、政敵になりそうな前田利長や上杉景勝の排除を試みる。

その帰結として関ヶ原の合戦の総大将となり、勝利して将軍職を獲得してからは、大坂に残る豊臣秀頼と、豊臣恩顧の西国の大名たちを、徳川による政権を揺るがす要因になりうると考えた。そこで、西国の外様大名には、家康が築く城の普請を次々と押しつけて経済力を奪い、そうやって築いた城で大坂を包囲したうえで、執念で自分の目が黒いうちに秀頼を滅ぼした。

まさに自分しか信じられない人間による、徹底的に冷静な対応だったといえないだろうか。

むろん、信長も家康も戦国の世に終止符を打った大人物であって、きわめて多面的な人間だったと思われるが、あえて単純化するなら、むしろ「どうする家康」とは逆に、人を信用する信長と信用しない家康だったと思うのだが。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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