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「創業者なのに自社株を20%しか持っていなかった」松田公太が今も悔やむ"タリーズ売却劇"の教訓

プレジデントオンライン / 2023年8月4日 11時15分

銀行員、起業家、政治家……多様な経歴を持つ松田氏 - 撮影=髙須力

【連載#私の失敗談 第4回】どんな人にも失敗はある。タリーズコーヒージャパン創業者の松田公太さんは「信じた人からの裏切りに遭い、ゼロから育てた会社を手放すことになった。その後、参院議員として政界に入ったのだが、同じ失敗を繰り返してしまった」という――。(聞き手・構成=ノンフィクションライター・山田清機)

■ウニを食べる日本人は「変わった人種」?

僕は父親の仕事の関係で、子ども時代をアフリカのセネガルとアメリカで過ごしました。セネガルで家族そろって海水浴に行ったら、そこらじゅうにウニが転がっているんです。家族みんなで大喜びでつかまえて食べていたら、それを見たセネガルの人たちが、「日本人は、そんな気持ちの悪いものを食べるのか」と馬鹿にするんです。アメリカでも、生で魚を食べるというだけで「日本人は変わった人種だ」と言われて、子どもながらに傷ついた思い出があります。

そんなことがあったので、高校生の頃から、日本と世界を繋ぐ文化の架け橋になれたらいいと思うようになりました。日本の素晴らしさを正しく海外に伝えたいし、日本にもまだ知られていない海外の素晴らしさを伝えることもやっていきたい。それが、シアトルのスペシャルティコーヒーを日本に持ってこようと思った、僕の原点ですね。

当時は若かったこともあって、とにかくがむしゃらでした。最初は、すでに1000店舗ぐらい展開していたスターバックスにファクスとメールで面会を申し込んだのですが、スタバからは何の返事もありませんでした。次に250店舗ぐらい出店していたシアトルズ・ベストコーヒーにアポイントを入れて、副社長に会ってもらえたのですが、

「君は経営の経験があるんですか?」
「ありません」
「家族は資産家ですか」
「いいえ。親戚一同サラリーマンです」
「あなたはお金を持っていますか」
「数百万円の預金しかありません」
「残念ですが……」

という会話を交わしただけで終わってしまいました。そりゃあ、当時の僕は27歳の一介のサラリーマン(三和銀行勤務)でしたから、仕方のないことでした。

■シアトルに4店舗しかなかったタリーズと交渉

3番目にアプローチしたのが、タリーズコーヒーでした。

日本人の多くが、米国のタリーズは巨大なコーヒーチェーンだというイメージを持っていたと思いますが、実は当時、タリーズはシアトル市内に4店舗しかないローカール・チェーンで、しかも海外で展開しようという考えもまったく持っていませんでした。大金持ちのオーナー(トム・タリー・オキーフ)が、道楽で世界中の農園から最高級の豆だけをかき集めて経営している小さなチェーン店だったのです。

僕がタリーズを日本に持っていきたいと真剣に思うようになったのは、規模は小さかったけれど、圧倒的にコーヒーがおいしかったからです。メールとファクスを送りまくり、電話をかけまくって、なんとかトムと会うことができたのが1996年のことでした。

■創業者なのに自社株は20%しか持たなかった

1997年、銀座にタリーズ1号店を出店しました。最初は個人事業主のような形で、銀行から7000万円の借金をしてのスタートでした。寝袋を持ち込んでお店に寝泊まりして働き続けた結果、売り上げは少しずつ伸びていき、98年にタリーズコーヒージャパンという会社を設立することになりました。

実は、この辺りからすでに僕の失敗談は始まるわけなんですが、法人化の際、まず、1号店の内装をやってくれた会社が出資者に加わってくれることになりました。1号店の売り上げがどんどん伸びるのを見て、2号店、3号店も一緒にやりたいと言ってくれたのです。

松田 公太『すべては一杯のコーヒーから』(新潮文庫)
松田 公太『すべては一杯のコーヒーから』(新潮文庫)

米国タリーズも出資してくれることになりました。1号店がうまくいったら金を出してもよいという契約だったので、これは契約通りということです。そこに、ベンチャーキャピタルなども加わって、僕も含めた5者で、合計2000万円で出資をすることになったのです。

僕は当時、「出資者は仲間だから、出資額は均等にしてもよい」という考えを持っていました。出資比率なんかで喧嘩したくなかったし、力を合わせてタリーズを大きくしていくためには等分がいいと思ったのです。

つまり、創業者であり死ぬ気で働いていた僕自身が、20%しか自社株を持たなかったのです。このことがとんでもない事態を引き起こすことになるわけですが、当時の僕は若かったこともありますが、理想に燃えていたので、これでいいと思っていたのです。

■米国タリーズを救済するためにMBOを実施

タリーズコーヒージャパンは順調に成長を続けていき、2001年、ナスダック・ジャパンに上場を果たしました。当時は新興市場ができたばかりで、飲食企業がベンチャーとして上場する前例もほとんどない中で、当時最速の設立後3年2カ月で上場を果たしました。

2002年にフードエックス・グローブという持ち株会社に移行したのですが、2004年、このフードエックス・グローブをMBOで非上場化しました。MBOとは、経営陣が既存の株主から株を買い取ってオーナーとなることを指します。

これは当時、毎年10億円もの赤字を出して潰れかかっていた米国タリーズを吸収合併して救済するためでした。結局、創業者のトムが最後まで役員会会長としての特別な権限を主張したので実現しなかったのですが……。代わりにタリーズの日本での商標権を買い取ることになりました。

■仲間だったはずのファンドから突然の裏切り

そして今度は、MBOを一緒にやった知り合いのブティック・ファンド(大手の金融企業系ではない独立系のファンド)との間でトラブルが発生することになりました。

その知り合い(以下、Aさん)は、元々ヘッジファンドにいたのですが、ヘッジファンドの切った張ったの世界に嫌気が差してしまい、「企業を育てる仕事をやりたい」とベンチャー・PE・ファンドを立ち上げたということでした。他に野村証券系と日興証券系のファンドとも話を進めていたのですが、トップの顔が見えるファンドとやるべきだと意気投合し、Aさんのファンドと一緒にやりましょうということになったわけです。

MBOを実行した当初、Aさんのファンドは40%近い株を持っていました。ファンドの期限は6年でしたが、Aさんは「最低でも10年は持ちますよ」と言ってくれていました。なにしろ企業を「育てる」ためにファンドを始めたわけですから、長く持つのは当然のことでしょう。

ところが……。

MBOからわずか2年しか経たないうちに、Aさんが売りに動き始めたのです。僕はもう、「えーっ、なんで?」という驚きを隠すことができませんでした。

信頼していた仕事仲間から予想外の裏切りに遭った
撮影=髙須力
信頼していた仕事仲間から予想外の裏切りに遭った - 撮影=髙須力

■タリーズの売却=ブランドが損なわれる危機

タリーズはのれん代償却が重かったですが、EBITDAでは利益を出していました。情報を収集してみると、どうやらAさんは他の投資がうまくいっていないようでした。代表の「顔」でお金を集めているブティック・ファンドの場合、1号をしくじったらおそらく2号、3号は組成できなくなります。日本は、失敗が許されない国なのです。

買い手として大手ファンドが手を挙げていましたが、その経営方針によっては、タリーズのブランドが大きく損なわれる恐れがあります。しかし、ブティック・ファンドはタリーズの株を40%持っていましたから、彼らが他の株主を1~2名巻き込んで、役員会で売却を主張すれば、僕にはこの計画を止める方法がありませんでした。なぜなら僕は、自社の株を20%しか持っていなかったのです。

僕は、この一連の出来事の中で、ある確信を得ました。それは、

「結局、ファンドは金だ」

ということです。

■長い目で育ててくれる伊藤園に任せたい

大手ファンドよりも少しでも高い金額を提示してくれる会社を連れてくる以外に、この難局を切り抜ける方法はありません。ブティック・ファンドは2週間後の役員会にタリーズの売却を提案することを決めていました。

僕はブティック・ファンドに悟られないように、水面下で動き回りました。もし僕が、「より高く買ってくれる相手」を探していることがブティック・ファンドに知れてしまえば、大手ファンドがさらに高い金額を提示してくる危険性があったからです。

僕は以前からアプローチを受けていた伊藤園に接触しました。お茶のブランドしか持っていなかった伊藤園がコーヒーのブランドを欲しがっていたのです。当時、コカ・コーラやサントリーの自動販売機の売り上げは7割以上が缶コーヒーで占められていたのです。伊藤園は有力なコーヒーブランドが必要でした。

仮に伊藤園にタリーズを売却することができれば、今後もしっかりと育ててくれると思いました。ファンドの場合は、外科手術的に事業も人も切ってしまうことがありますが、伊藤園がテイクオーバーしてくれれば、僕が大切にしてきたブランドも社員たちもしっかりと守り育ててくれるに違いない……。

■会社の未来を賭けた、狭い会議室での攻防

役員会の数日前、僕はブティック・ファンド本社内の狭い会議室で、Aさんと向き合っていました。僕が会議室のドアの内鍵をかけるように依頼すると、Aさんは驚いたようでした。

僕は事前に作成しておいた、タリーズ株式を伊藤園に譲渡するための契約書類一式を、Aさんの目の前に置きました。「いまこの場で、この契約書にサインをしてくれれば、大手ファンドの10%増しで伊藤園がタリーズを買ってくれることになっています。ただし、あなたが一歩でもこの部屋を出たら、この話はなかったことにします」

Aさんにすれば、10%増しは魅力的な条件のはずです。しかし、この部屋を一歩でも出れば、大手ファンドに連絡を入れて、さらに高い金額を引き出してしまうかもしれません。10%という数字を交渉の材料にされないためには、「この部屋から一歩も出ない」という条件をつける必要があったのです。

「少し考えさせてください……」

Aさんは、それから1時間近く悩んだ挙句、契約書にサインをしてくれました。僕はすぐさま階下で待機してもらっていた伊藤園の本庄八郎会長に上がってきてもらうことにしました。

「えっ、下にいらっしゃるの?」

こうして、タリーズは伊藤園に譲渡されることになったのでした。

■タリーズ売却劇から得た経営者としての教訓

自分がゼロから育てた会社を譲渡せざるを得ないのは、正直言って口惜しいことでした。しかし、こうした事態を招いてしまったのは、自分の甘さだったとしか言いようがありません。

僕は自社の株式を20%しか持っていませんでした。先ほども言いましたように、「出資者は仲間だから、出資額は均等にするべきだという」という考え方を持っていたからです。ゼロからイチを作るスタートアップの段階なら、僕のような考え方は必ずしも間違いではなかったと思います。

もちろん一般的には、スタートアップの場合でも創業者が過半数を持って、他の出資者はマイノリティーになってもらうのが定石であり、この出資比率の部分で、もっとシビアになっていればタリーズを手放すことはなかったかもしれません。

■会社が大きくなってくると欲が出てきてしまう

しかし、僕には別の思いもあったのです。

それは、「自分は経営者として最も適任だ。経営戦略において間違いはおかさなかった」という思いです。たとえ20%しか株を持っていなくても、僕に対して「会社から出ていけ」と言える人はいないと思っていたのです。もしも、「松田公太は経営者として能力がないから会社から出ていけ」と言う人がいたら、喜んで出ていってやるとさえ思っていました。

青いといえば、青い考え方ですよね。

結果的に僕はお金の力で追い出されることになってしまったわけですから。いや、お金の力というより、欲の力でしょうか。スタートアップの時は理想に燃えていても、会社が少し大きくなってきて一株の値段が何十倍、何百倍ということになってくると、人間、欲が出てきてしまうものなんですね。

その後、2010年にパンケーキで有名なハワイのレストラン「エッグスン・シングス」の世界での展開権を取得しました。これが正解なのかどうかも分かりませんが、今回は僕が株式を100%持っています。経営者としても、政治家としてもそうでしたが、どうしても両サイドを試したくなるのです。その両方を経験して最適解を見つけたくなるのです。

■ベンチャーが生まれやすい土壌を作るため政界へ

僕の失敗談と言ったら、政治の話もしておかなくてはなりません。

僕が2010年の参議院選挙に立候補したとき、おそらく「タリーズの松田公太がなぜ?」と思われた方が多かったのではないでしょうか。立候補のきっかけは、知り合いだった浅尾慶一郎衆議院議員(当時はみんなの党所属)から「一緒に日本を立て直そう」とお誘いを受けたことにあります。

国会議員になれば、経営者時代よりも自分のレピュテーション(評判)が下がってしまうことは目に見えていました。ですが、お誘いを受ける前の2年間をシンガポールで暮らしてみて、金融都市、観光都市として目覚ましく発展していくシンガポールの姿に、僕は圧倒されていたのです。

そして、日本がアジアで確固たる地位を築いていくには、法人税の見直しや、ビザや移民制度の見直しなどをいますぐにでも実行しなくてはならないと考えていました。選挙期間中にインターネットを使った情報発信ができないといった前時代的な規制もたくさん残っていましたから、そうしたものを一掃して、もっともっとベンチャーが生まれやすい土壌を日本に作らなくてはならないと思っていたのです。

「日本を元気にする会」の屋外党大会で、イメージポスターを発表する松田公太代表(左)=2015年3月17日、東京都新宿区のJR新宿駅東口前
写真=時事通信フォト
「日本を元気にする会」の屋外党大会で、イメージポスターを発表する松田公太代表(左)=2015年3月17日、東京都新宿区のJR新宿駅東口前 - 写真=時事通信フォト

たとえ自分の地位や名誉や収入が下がることになったとしても、参議院の1期6年間は、「日本をよくするため」のボランティアだと思って徹底的にやってみよう。そんな決意を固めて、みんなの党から出馬することにしたわけです。

■新人議員がベンチャー政党を立ち上げた理由

無事初当選を果たしましたが、残念ながら、みんなの党は2014年に分裂して解党してしまいました。そこで、2015年にアントニオ猪木さんたちと一緒にベンチャー政党「日本を元気にする会」を設立して、代表に就任することになりました。

なぜ、「日本を元気にする会」を立ち上げたかといえば、いままでにないやり方で国民の意見を取り入れる政党を作りたかったからです。一言でいえば、「直接民主型政治」にチャレンジしたかった。

たとえば、国論を二分するような重要法案については、国会議員や有識者、そして党員とネット上で議論して、その結果を「日本を元気にする会」に所属する議員の(国会での)投票行動に反映していく。そんな仕組みの導入にチャレンジしました。他にも、安保関連法案に対して1000人を超す党員がネット上で意見を表明するといったことにもトライしました。

所属議員の離党によって「日本を元気にする会」は政党要件(現職国会議員が5人以上所属すること)を失ってしまいましたが、安保関連法案に一定の歯止めをかけるなど、ある程度の結果は残せたと自負しています。

■契約書を交わし、他党と会派を組んだのだが…

すでにお話ししたように、僕はビジネスで人に裏切られる経験をしてきましたけれど、政治の世界でもずいぶんひどい裏切りに遭いました。

国会の活動の単位として、「会派」というものがあるのをご存じでしょうか。小さな政党や無所属の議員たちが自分たちの掲げる政策を通すために、会派を組んでより大きな組織を作るわけですが、「日本を元気にする会」の代表時代、当時の維新の会(現・日本維新の会とは異なる)から「一緒に会派を組まないか」と持ち掛けられたことがありました。

「日本を元気にする会」は小さな政党でしたから、「じゃあ一緒にやろう」となったわけですが、もともと僕の中には、政治家は嘘をつく存在だという認識がありました。そこで、「契約書を作りましょう」と提案して、実際に会派としての約束事を5、6枚の契約書にまとめて、きちんと締結までしたのです。契約書にのっとって、維新の会の代表と私がその会派の共同代表に就任することになりました。

ところが、これは後々わかったことなのですが、彼らの本当の狙いは予算委員会の席を確保することにあったのです。予算委員会は、総理大臣が必ず出席をし、国民から最も注目される、いわば政治家にとってのハレの舞台です。私たちはもとも予算委員会に2席持っていたのですが、それがゼロだった維新の会の人たちにとっては喉から手が出るほど欲しいものだったのでしょう。

■「こんなもの何の意味もない」と契約書を破られた

会派を組んで、契約書を交わして、「今回の予算委員会の席に誰が座るか」の取り決めもきちんと行ったのですが、なんと契約書の締結から2週間もたたないうちに、彼らは私たちと真逆の政策を口にし始めまたのです。これはいったいどうしたことかと、維新の会に抗議をしました。

「契約書がありますよね」

と僕が切り出すと、維新の代表は、

「こんなもの何の意味もない」

と言って、僕の目の前で契約書を、ビリビリと破いてしまったのです。

政治の世界でも信頼した人たちに裏切られてしまった
撮影=髙須力
政治の世界でも信頼した人たちに裏切られてしまった - 撮影=髙須力

契約書を破られたのもショックでしたが、さらにショックだったのは、その直後、維新の会が勝手に参議院事務局に行って予算委員会の席をぶんどった挙句、会派を解消してしまったことです。あわてて参議院の事務局に状況説明に行きましたが、「あちらの代表が言っているから」のひと言で、この件は終了となってしまいました。国会の仕組みもどうかと思いますが……。

裏切りどころか、彼らは自分たちにとっておいしいところだけを奪い取っていく、盗人みたいなことをしたのです。そして、ビジネスの世界では「絶対の存在」である契約書が、政治の世界ではまったく何の意味も持たない、紙屑同然のものだったのです。

政治とビジネスの世界は仕組みも常識も違うことを思い知らされた、まさに痛恨の出来事でした。

■平気で嘘をつく、人を騙す人が生き残る政治の世界

平気で嘘をついたり、人を騙したりする人々が平然と生きている政治の世界に愕然として、僕は1期6年だけで政界を引退することにしました。結局のところ、政治家になってやりたいと思っていたことの、100分の1も実現することはできませんでした。

その一方で、永田町の既成政党は、大企業のそれとよく似ているとも思いました。

大企業では、上に行きたいと思ったら、上に好かれるように腰を低くして、自分の言いたいことは絶対口にしないのが鉄則です。そういう人が、最終的には本当に上がっていくのです。

反対に、会社の未来のためにはこの改革が必要だとか、新しいチャレンジをすべきだとか言っている人は、めんどくさがられて出世ルートから外されてしまう。

実際、僕の銀行員時代も、正しいことを言う人、上に意見する人、こんな人にぜひ頭取になってほしいと思うような人たちは、みんな早々に潰されてしまいました。そして、長老たちが引退した後に、ひたすら腰を低くして上の言うことを聞いてきた人たちが経営陣に入っていくのを目の当たりにしました。

■日本の大企業が力を失った原因は「人事」にある

僕は、日本の大企業が力を失ってしまった原因は、究極的にはこうした人事にあると思っています。東芝だって、長老たちの言うことを聞いて粉飾決算を繰り返してきたわけでしょう?

そして、日本の政治の中心にある既成政党もまったく同じなのです。

日本のためにやらなければならないことを直言している人は潰されて、既得権益を守る人がポジションを上げていく。僕は、永田町では人心掌握がまったくできませんでしたが、永田町の人事は、大企業で出世したいと思っているサラリーマンにとって、いいお手本になるのではないでしょうか(笑)。

政治の世界は人事に限らず、「なんでこんなに非効率なことをやっているのか」と驚くようなことが山ほどある、起業家にとってとてもやりにくい世界でした。

起業家は「こんなことをしたら会社が潰れる」と思ったら、即座にやめる判断を下します。ところが政治の世界では、たとえ「こんなことをしたら日本が潰れる」と誰もが思っていることであっても、利権が絡んでやめることができないのです。

■起業家がもっと政界進出すれば政治は変わる

例えば、米国のライドシェア(例:ウーバー)みたいなビジネスができるように規制改革をやりたいと思っても、改革に反対するタクシー業界と政治家が献金と票でつながっているから、ストップをかけられてしまう。

あるいは、コーヒーショップの経営に例えるならば、絶対にうまくいくはずのない新規出店であるにもかかわらず、新店舗の不動産のオーナーから献金を受けているから赤字覚悟で出店するというような、不合理なことが横行しているのです。しかも、いくら赤字を出したってしょせんは税金ですから、政治家自身の腹はまったく痛みません。

自分で稼いだことがない二世、三世の議員が多いから、こんなにデタラメな判断ができるのかもしれませんが、日本の政治家は、国民の生活を便利にし、豊かにする政策の芽を摘む一方で、献金や票田をとても大切にしています。それが日本の政治家の常識なのです。

ですから僕は、起業家や本気の経営経験のある人たちがもっと政治の世界に進出するべきだと思っています。私みたいな人間が1人、2人政治家になったところで、永田町の住人から「頭がおかしいヤツ」とレッテルを貼られてすぐに潰されてしまうだけですが、半沢直樹みたいなビジネスパーソンが大挙して政界に進出していけば、日本の政治は大きく変わると思うのです。

僕は世襲議員の全てが悪いとは思っていませんが、せめて4分の1くらいに割合を減らして、起業家を4分の1、士業の人やサラリーマンとして揉まれてきた人を4分の1、アカデミアを4分の1といった配分にしていけば、もっともっと国民のための政治ができるようになるのではないでしょうか。

自ら政治家になってみて、日本の政治の課題が多く見えてきたという
撮影=髙須力
自ら政治家になってみて、日本の政治の課題が多く見えてきたという - 撮影=髙須力

■騙す人になるより、騙される人のままがいい

こうやって自分の半生を振り返ってみると、ずいぶんいろいろなことに挑戦してきたものだと思いますが、まだまだチャレンジしたいことはたくさんあります。

僕は弟を若い頃に亡くしています。

弟は性格がよかっただけでなく、あらゆることに長けた子でした。僕なんかよりはるかに才能に溢れていて、サッカーをやればすぐにスター選手になってしまったし、ギターを持てばプロはだしの演奏をしてしまう。まさに、“He is talented.”という弟だったのです。だから僕には、彼の代わりになって僕がいろいろなことをやらなくては、という思いがあるんです。

それにしても、自分はずっと同じ失敗を繰り返していようなる気がします(笑)。

人を信じて、信じて、何回も何回も裏切られる。タリーズ時代も政治家時代も、同じ失敗の繰り返しです。直さなくちゃ、とは思うのですが……。やっぱり騙す人になるより、騙される人のままがいいのかなと思ったりもします。そのほうが墓に入るときに気持ちよく入れるように思います。

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松田 公太(まつだ・こうた)
タリーズコーヒージャパン創業者
1968年、宮城県出身、東京育ち。5歳から17歳までの大半をアフリカ・セネガルとアメリカで過ごす。筑波大学卒業後、三和銀行(現・三菱東京UFJ銀行)入行。96年に退行し、97年8月、タリーズコーヒー1号店を東京・銀座にオープン。98年、タリーズコーヒージャパンを設立。2010年、参議院議員選挙に初当選。みんなの党を経て、ベンチャー政党「日本を元気にする会」を結成。2016年に政界引退。現在はEGGS 'N THINGS JAPANの経営のほか、自然エネルギー事業などに携わる。著書に『すべては一杯のコーヒーから』(新潮社)、『愚か者』(講談社)など。

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(タリーズコーヒージャパン創業者 松田 公太 聞き手・構成=ノンフィクションライター・山田清機)

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