「米軍が占領した7年間」に何があったか…硫黄島に残る「玉砕した1万人の遺骨」はなぜ見つからないのか
プレジデントオンライン / 2023年8月15日 10時15分
■約2週間かけても、4体しか見つからなかった
遺骨収集団に参加して僕が知ったこと。それは収集団の全員が全力を尽くしていたということだ。なのに、約2週間、捜索に取り組んでも、なぜ4体しか見つからないのか。どうして戦後七十数年たっても、これほど小さな島で戦没者2万人のうち1万体しか収容できないのか。
新聞記者にはいろんな属性がある。政治記者や経済記者、スポーツ記者など。僕は元々「サツ回り」だった。北海道警の担当記者だった。分からなければ分かるまで現場に行け。事件の捜査官の世界では「現場百遍」というその心構えを、僕は駆け出しのころにたたき込まれていた。
しかし、硫黄島の現場に二度も三度も行くのは現実的に不可能に思えた。であれば関係者に聞いて回るしかない。「どうして1万人が今も見つからないのですか」。関係者にその疑問をぶつける取材を始めた。
■元厚労省職員が口にした「報告書」とは
そのうちの一人が口にした言葉が、後に僕を新たな「未踏の地」に向かわせる発端となった。「報告書を一冊も読んだことがない人が、硫黄島の遺骨収集について書こうとしてはだめですよ」。長年、遺骨収集に携わってきた元厚労省職員の言葉だった。
報告書とは、旧厚生省や現厚労省が年度ごとに遺骨収集の経過と成果をまとめた公文書だった。遺骨収集史に関する出版物はこれまで多数読んできた。しかし、参考文献欄に「報告書」と書かれた書籍は記憶にない。
すぐにでも厚労省に対して情報開示請求をしよう。そんな前のめりの思いが僕の表情に出ていたのだろう。元職員は諭すように僕に言った。「ただし、報告書は数百ページになるものもありますよ。それを全部開示請求するとしたら、それなりの金額が請求されますよ」。
■1年以上かけ、厚さ50センチの公文書を開示
それでも僕は厚労省への「行政文書開示請求」を行ってみることにした。インターネット上での手続きは煩雑で、一般の人にはハードルが高いように感じた。僕も前のめりになった直後でなければ、煩雑さに負けて、断念していたかもしれない。通常であれば開示まで2カ月以上かかるとのことだった。僕は以後、この手続きを何度も繰り返した。
硫黄島遺骨収集史の起源は、初の政府調査団が硫黄島に派遣された1952年だ。僕はこの調査団の記録がつづられた同年から、昭和が終わった1988年度までの報告書をすべて開示請求した。実際に全開示が終わるまで1年以上要した。「不開示」となった報告書はなかった。ただし、個人名など黒塗りになっていた部分はあった。
これまでに開示された報告書は年度ごとにファイルに納めた。すべてを積み上げると高さは約50センチになった。情報公開のために支払った金額は数万円になった。元厚労省職員の指摘通り、僕にとってなかなかの出費となった。妻は理解してくれた。
新たなことを一つ始めるには、何かを一つやめなくてはならない。僕は20年以上ほぼ休まず飲んできた酒を44歳にして、きっぱりやめた。
■遺骨行方不明の要因1「島の様変わり」
硫黄島の遺骨に関する最古の報告書は、1952年のものだ。全部で56ページあった。表紙に書かれた表題「硫黄島の遺骨調査に関する報告」以外はすべて手書きだった。開示されたのは白黒のコピーだったが、原本は相当朽ちているのが分かった。よくぞ今日まで保管してくれたと思った。僕はこの公文書を約70年間、リレーの如く繫いできた旧厚生省、現厚労省の歴代の職員に心から感謝した。
![各年度報告書の表紙](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/e/4/1200wm/img_e4e2a3f0307aef3ee0aacda8c8c5cedd312218.jpg)
各年の報告書の文章の多くは、手書きだった。だからなのか、無機的なはずの書類の山からは、歴代の担当者の熱のようなものが伝わってきた。「あなたもよくぞ読んでくれた」。そんな喜びの声が、書類から伝わってくるような気がした。僕は心して一字一句、読み尽くさなければ、と思った。
戦後7年間、米軍の占領下に置かれ、日本本土からの視線が遮断され続けてきた硫黄島。上陸した3人が見たのは、どんな光景だったのか。それは、島内の状況が戦時中とは様変わりし、戦後わずか7年にして〈探査行動及び洞窟の発見を、既に著しく困難にしている〉という実情だった。
■7年間で「戦禍の島」から「平和の島」へ
なぜ様変わりしてしまったのか。原因は複数記されていた。
一つ目は「ジャングル化」だ。報告書には〈この島は、目下非常な勢いで植物が繁茂しつつある〉と記載。焦土化した島の自然な緑化に加え〈米軍が近年大規模に種子を撒布した〉というネムの木が島全域に生えたこともジャングル化の一因になったようだ。ジャングル化により〈日本軍当時の旧道が全く跡形ないのは勿論のこと、その後米軍が掘開した道路も、交通に利用していないものは、殆んど徒歩で辿ることさえ出来ない程度〉になってしまったという。
島を変容させた二つ目の理由は、米軍による土地開発だ。〈7年の歳月と、加えられた人工の力は、この島を戦禍の島から平和の島へと復元し、又変ぼうせられつつある〉との記載がある。
僕が驚いたのは、次の一文だ。
〈玉名山は頂上が飛行場工事のため現存しない〉
■「ランドマークの消失」に生還者は呆然とした
玉名山とは、死傷兵の多さから米軍が「肉ひき器」と呼んだ要塞群があった島中央部の激戦地だ。生還者の回想録などに多く登場する地名の一つだ。島全体を見渡せる摺鉢山と異なり、低い山だったが、兵士たちにとっては地理の目印になるランドマークだったのだろう。
僕はかつて、父が散った硫黄島での遺骨収集に捧げた戦没者遺児・三浦孝治さんからこんな話を聞いていた。「いつかの遺骨収集に、生還者が参加していた。彼は硫黄島に着くなり、真っ先にこう言ったんです。『玉名山がない!』って」。三浦さんは、そのときの生還者の驚きの表情を真似した。目を大きく開いて遠くを見つめ、口をあんぐりと開けた表情だった。
玉名山は戦後間もなくして忽然と消えた。山が一つ丸々なくなるぐらいだ。そのほかにも大規模な地形の変化があったのだろう。海外戦没者の遺骨収集は主に、生還者の記憶によって進められた。しかし、硫黄島においては、このような急速な島の変貌から、すでにこの時点で記憶に基づく捜索は極めて困難な状況に陥っていたのだ。
■遺骨行方不明の要因2「米軍による壕の閉塞」
米軍が占領下の硫黄島で行ったことは、基地化に伴う地形の変化だけではなかった。報告書にはこうあった。
〈兵力密度が大であつた関係上、洞窟は、全島至るところに構築されている。しかしながら、それは、米軍による掃蕩戦の当時から、多分戦後にもかけ、(中略)入口を閉塞されたのが大部分なので(中略)小官等が内部を調査し得たのは、洞窟の数からいえば一部に過ぎない〉
〈米軍による掃蕩戦から終戦後にかけての壕(ごう)の閉塞作業は(中略)ほとんど『しらみつぶし』といつてよい位に残らず行われた〉
硫黄島は総延長18キロメートルにも及ぶ地下壕が築かれたとされる。「友軍ハ地下ニ在リ」という硫黄島発の電報も伝えられている。そのため、地下壕内も遺骨捜索の対象となってしかるべきだと調査団の3人は考えていたが、すでに多くの壕が塞がれていたのが実情だった。なぜ米軍は壕を「しらみつぶし」に塞いだのか。その理由は、後に別の公文書で僕は知ることになる。
■壕を見つけ出す手がかりは敵弾の跡だった
米軍によって「しらみつぶし」に潰された壕を、調査団の3人は何を手がかりに見つけ出したのか。報告書に記されていた。
![米軍によって多数の壕が塞がれていたことを伝える1952年度報告書](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/f/e/1200wm/img_fe0185254a310614eddc12e16a109d9e398627.jpg)
![酒井聡平『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/7/2/1200wm/img_729ec77526c5c8761119dcc3213e7e95273251.jpg)
〈岩に残つた弾痕だけは、7年の歳月をもつてしても、到底消すことはできない。4万屯にものぼる鉄量を撃ち込まれたこの島の岩という岩には、それだけでも激戦の模様を十分知ることができる程度に弾痕が残つている。中でも、特にこれが蝟集しているところの下には先ず壕の入口があるものと見て間違いない。察するに、米軍が掃蕩戦当時、残存兵がいようがいまいが先づ(ママ)機関銃の猛射を入口めがけて発射したことによるものと思う〉
僕は、2019年に初めて遺骨収集団に参加した際、「首なし兵士」が見つかった壕「235I―2」を思い出した。壕の入り口は、多数の弾が撃ち込まれ、無数の穴が空いていた。その入り口付近で見つかった兵士の遺体は頭蓋骨だけが粉々だった。敵に囲まれ、手榴弾で自決したのではないかと推測された。
調査団を元部下のもとに導いたのは、元部下たちを死の淵に追い詰めた無慈悲な敵弾の跡だった。報告書の記述は、なんとも悲しいものだと僕は思った。
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北海道新聞記者
1976年生まれ、北海道出身。2023年2月まで5年間、東京支社編集局報道センターに所属し、戦没者遺骨収集事業を所管する厚生労働省や東京五輪、皇室報道などを担当した。硫黄島には計4回渡り、このうち3回は政府派遣の硫黄島戦没者遺骨収集団のボランティアとして渡島した。土曜・日曜は、戦争などの歴史を取材、発信する自称「旧聞記者」として活動する。取材成果はTwitter(@Iwojima2020)などでも発信している。北海道ノンフィクション集団会員。北海道岩内郡岩内町在住。初の著書に『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)。
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(北海道新聞記者 酒井 聡平)
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