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だから家康はすごかった…自分を苦しめてきた難敵・武田勝頼の首を前に徳川家康が放ったひと言【2023上半期BEST5】

プレジデントオンライン / 2023年8月14日 7時15分

徳川家康(左、画像=狩野探幽/大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)と武田勝頼(右、画像=高野山持明院蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

2023年上半期(1月~6月)、プレジデントオンラインで反響の大きかった記事ベスト5をお届けします。歴史部門の第2位は――。(初公開日:2023年4月15日)
なぜ徳川家康は天下統一できたのか。作家の加来耕三さんは「難敵・武田勝頼を倒した後のひと言に象徴されている。織田信長は感情にまかせて侮蔑の言葉を投げたが、家康は恩讐を超えて『相当の供養をせよ』と指示した。どんな出来事も自分を成長させてくれる教材と捉えていたのだろう」という――。

※本稿は、加来耕三『徳川家康の勉強法』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■信長のもとに届いた娘からの告発状

長篠・設楽原の戦いに勝利して以降、西国の毛利氏、石山本願寺などとの戦いに明け暮れる織田信長からは動員もかからなくなり、この時期の徳川家康は、武田氏に対する防備に専念することができました。

そんな1579(天正7)年、家康にとって、おそらく生涯で最も堪忍を必要としたであろう、痛恨の事件が起きます。嫡男・信康が、信長によって死に追い込まれた切腹事件です。

この事件の原因、背景については諸説ありますが、一般に知られているのは、信康の並々ならぬ器量を恐れた信長が、織田家の将来を危惧し、信康生母の築山殿による武田家との内通などを口実に、家康に対して無関係の信康に、切腹を迫ったというものでした。

『三河物語』などには、次のように記されています。

信康の妻=信長の娘・徳姫(とくひめ)から、信長に対して、信康母子に関する12カ条からなる告発の書状が、届きます。書状には、信康と自分が不仲であること、信康の母・築山殿が武田家と内通していること、信康の日ごろの素行の悪逆非道ぶりなどが、書き記されていました。

■なぜ家康の家臣は信康を擁護しなかったのか

信長は、さっそく家康の家臣団筆頭の地位にあったナンバー2の酒井忠次に面接し、直接、事実関係を問いただします。

この時期、信長は以前よりは多少落ち着いた状況になっていたものの、東に武田勝頼、西に毛利輝元、畿内の中心部には石山本願寺などを敵として、まだ信長包囲網の中での戦いを余儀なくされていました。同盟者の家康に万一、ここで背かれては一大事になりかねません。

信長も、この一件については慎重に対処し、一応の理屈が通る対応をすることが大前提と考えたはずです。

一方、忠次も、家康家臣団筆頭という立場上、懸命に否定してしかるべきでした。

ところが忠次は、信長が挙げる罪状を、ついには「一々、覚えがあります」と、認めてしまったのです。

なぜ、忠次は家康の嫡男・信康をかばおうとしなかったのでしょうか。

■踊りの下手な者を矢で打ち抜く

理由は、信康の体内に流れる松平家の血、すなわち家康の祖父・清康、父・広忠の生命を奪い、さらにそれを必死に封じ込めてはいますが、家康にも確かに流れている、短気でカッとなると抑えが利かなくなる激越な血にありました。

戦場での働きでは、家康がほれぼれするほどの若武者ぶりを発揮した信康でしたが、ときおり尋常ではなくなったといいます。

たとえば、秋の踊りを見物していて、踊りの下手な者、装束のみすぼらしい者をつづけざまに矢で射殺し、鷹狩りに出て、獲物がなかった腹いせに、行きがかりの僧を血祭にあげた、などという話が伝えられています。

さらに、重臣たちを大切にせず、頭ごなしに追い使って、軽々しく振る舞うことも、多々あったようです。家臣たちは内心で、この若殿では徳川家の行く末はおぼつかない、と考えていたのでしょう。

父である家康が健在でなければ、いずれ親族や家臣によって謀殺される運命にあったかもしれません。家康はこの時、浜松城にあって対勝頼戦に忙殺されていました。息子に向き合う余裕がなかったのでしょう。

信長からの尋問は忠次にとって、むしろ渡りに船だったかもしれません。忠次は、信長が意外に思うほど、信康の罪状をスラスラと認めたばかりか、その暴虐な振る舞いを家康も心配している、とまで言及したといいます。

そう聞けば、信長も躊躇は無用です。この瞬間、「すみやかに腹を切らせるよう、三河殿に申し伝えよ」との、信長の断が下りました。

戦国~安土桃山時代の武将、酒井忠次の肖像画
戦国~安土桃山時代の武将、酒井忠次の肖像画(画像=先求院所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

■息子の切腹を決めたワケ

家康は、忠次の報告を静かに聞いていました。家康の選択肢は、二つしかありません。

信長の命令に従うか、従わないか──。

もし、従わなければ、忠次は謀反の旗を挙げるか、あるいは織田家に奔(はし)るかもしれません。

そうなれば、いずれ織田軍団が三河に殺到してくるでしょう。家康がわが子可愛さに、家臣たちに絶望的な一戦を強いれば、彼らは織田家に奔るか、次の旗頭として忠次を戴(いただ)くことに……。

乱世における家臣団は、確かに情義(じょうぎ)を重んじていますが、それは家康につき従うことで、自家や自党の繁栄を期待し、保証してもらうために忠勤を励んでいるに過ぎません。いずれにしても、信長に攻められては、家康は内外に敵を受けて滅亡するしか道はなかったのです。

悩んだ末、家康は信康に切腹を命じ、妻の築山殿については城外へ連れ出し、密かに殺すよう家臣に指示しました。

■晩年の家康のさみしいつぶやき

「謀反など思いもよらぬこと。このことだけは父上によしなに伝えてほしい」と言い残して、信康は見事に腹を切ったといいます。このことは家康の生涯にわたる痛恨事となりました。

信康は、18歳にしてもうけた最初の男子です。いとおしくないはずがありません。

1600(慶長5)年、59歳の家康は関ヶ原に臨む前夜、雨の中で本営設(しつら)えをすすめながら、

「この齢(よわい)になって、これほど辛い目に遭うことになろうとは……。三郎が生きてさえいれば、このようなことを手ずから(自ら)せずにすんだものを……」

20年も前に死んだ信康の通称を口にして、声を湿らせたといいます。

家康にとって若くして死んだ信康は、追憶の中では10万の大軍を率いて、天下分け目の戦いをなし得る大器として育っていたようです。

それでいて不思議なことに、信康を死に至らしめた張本人ともいうべき酒井忠次、処刑を執行した大久保忠世を、家康は終生、左遷もせず、いささかの意趣(いしゅ)返しもしないで、徳川家の柱石、股肱(ここう)の臣として恃(たの)みつづけ、両家の繁栄すら図り続けました。

■忠次に放った強烈なひと言

それらを踏まえて、『常山紀談(じょうざんきだん)』に紹介されている、次のような会話=家康と忠次の間で交わされたものを、お読みいただきたいのです。

高齢になり目を患(わずら)った忠次が、隠居すべく家康に拝謁したおりのことです。

「これからは、わが子家次(いえつぐ)を、どうぞよろしくお願いします」と忠次が言ったところ、家康は、「お前でもわが子を可愛いと思うとは不思議なことだ」と言ったといいます。

一般には、信康を殺したも同然のお前(忠次)が、自分の子をわしに頼むのか、と解釈されていますが、筆者はこのおりの、家康の表情に注目してきました。家康はどのような顔をして、このセリフを口にしたのでしょうか。

おそらくは満面に微笑を浮かべながら、何のわだかまりもなく、この一言が言えたのではないか、と想ってきました。その方が彼の勉強の成果に合っています。

現に忠次はその後、謀叛の片鱗も見せず、子孫は荘内藩主となって、明治維新を迎えています。

■信康=岡崎派、家康=浜松派の分裂

最近の研究では、「築山殿事件」は信長の命令というより、徳川家臣団の内部対立(浜松派と岡崎派)による複雑な事情が主な原因とされ、家臣団の乱れを象徴する事件と見る向きもあるようです。家康が、妻と息子を殺したのは、家臣団の結束が乱れ、徳川家中が二つに分かれて、崩壊の一歩手前まで来ていたがための、やむにやまれぬ手段であった、との見方です。

浜松と岡崎、長く離れて暮らす生活を余儀なくされた父子の間に、日々不信の念が高まっていたのかもしれません。それが発端となって信康=岡崎派、家康=浜松派という家臣団の対立を招き、最終決断として岡崎派を切らざるをえなくなった、ということであったのかもしれません。

■勝頼の首を前にした信長は…

織田・徳川連合軍は、信玄の後を継いだ勝頼を、長篠の戦いで徹底的に叩いたものの、武田家はかつての輝きこそ失いましたが、なかなか滅びませんでした。

長篠以降7年の間、家康の領国は何度となく武田軍に攻められています。

ところが武田家の再興をあせる勝頼は、内政をおろそかにし、戦に明け暮れて領民に重税を課したため、領内には不満が充満していました。

いよいよ武田家もここまでか、と見てとった信長は、1582(天正10)年、北条(ほうじょう)氏政(うじまさ)とも計ったうえで、家康と共同して武田攻めを再開します。

まもなく、さしもの武田家も、ついに滅亡してしまいました。

織田信長像
織田信長像(写真=Bariston/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

武田氏が滅亡したとき、家康は信長の目を盗んで、多くの武田家遺臣を召し抱えますが、その様子について、次のような逸話が『名将言行録』に残っていました。

長年の宿敵、武田氏を滅ぼした信長は、勝頼の首を見て、

「お前の父・信玄は、非義(ひぎ)不道(ふどう)(父の信虎(のぶとら)を、信玄が駿河に追放してクーデターを起こしたこと)であったために、天罰逃れがたく、今、この様(ざま)だ。また信玄は一度は京に赴こうとしたと聞いている(上洛戦を指して)。されば、お前の首を京に送り、女子供の見世物にしてくれるわ」

と罵って、勝頼の首を見せしめのため、家康の陣に送ったと言います。

■家康が取った意外な行動

その時、家康は床几(しょうぎ)に腰かけていましたが、信長から勝頼の首が届いたと聞いて、床几を下り、そばに控えた者に、「ともかく、相当の供養をしたうえで、据えよ」と申しつけ、その首に向かい、こう言ったといいます。

「こうなられたのも、すべて貴殿のお若気(わかげ)のためです」

加来耕三『徳川家康の勉強法』(プレジデント社)
加来耕三『徳川家康の勉強法』(プレジデント社)

家康の礼儀正しい言動が、のちにこの話を伝え聞いた甲斐・信濃の武士たちをして、徳川家に心を寄せる原因となった、といわれています。

ここにも家康の学びの成果、「あた(仇)を報ずるに恩を以てする」(『岩淵夜話別集(いわぶちやわべっしゅう)』)がよく出ています。これまで長年にわたって、自分を苦しめてきた武田氏──信長の感情にまかせた応対と異なり、家康は恩讐(おんしゅう)(恩とうらみ)を超えた“和解の余地”を常に残してきました。

人は時の経過とともに、心境を変えるもの。家康は対人関係の「死地」に幾度も追いつめられながら、人生の出会いと別れ、再会は、すべて、自分を人間として成長させてくれるための“教材”と考えてきたのでした。彼が言うように、人間、一人ですべてができるわけはありませんから。

■「わしこそ信玄公の子である」

信長は、武田家の遺臣たちを見つけ次第、ことごとくを処罰したのに対し、家康は彼らを信長に隠れて自領に招き入れて召し抱え、こう言いました。

「勝頼殿は信玄公の子に生まれられたが、(家を滅ぼしたのだから)信玄公にとっては、敵の子として生まれられたようなものだ。わしは他人だが、信玄公の軍法を信じてわが家のものとしたので、わしこそ信玄公の子のようなものだ。各々方(おのおのがた)は、わしを信玄公の子と思って奉公せよ。わしもまた、各々方を大切に思って召し使おう」

家康は、勝頼父子のなきがらを埋めたところに一寺を建立して景徳院(けいとくいん)と号し、田地を寄付し、信長が焼いた武田家の菩提(ぼだい)寺、恵林寺(えりんじ)も再建しています。

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加来 耕三(かく・こうぞう)
歴史家、作家
1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。『日本史に学ぶ リーダーが嫌になった時に読む本』(クロスメディア・パブリッシング)、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』(日経BP)など、著書多数。

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(歴史家、作家 加来 耕三)

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