なぜ秀吉は大坂城を金で覆いつくしたのか…城マニアがその意匠に感じた天下人の拭い切れないコンプレックス
プレジデントオンライン / 2023年8月13日 18時15分
■なぜ秀吉は豪華絢爛な大坂城を建てたのか
羽柴秀吉(ムロツヨシ)は賤ケ岳の戦いで柴田勝家(吉原光夫)を破り、勝家が籠る北ノ庄城(福井県福井市)を取り囲んだ。その際、弟の秀長(佐藤隆太)に向かって、勝家に嫁いだ織田信長(岡田准一)の実妹、市(北川景子)のことを「わが妻」といい、救い出すように命じて、こうつぶやいた。
「ほしいのお、織田家の血筋。そうすりゃわしら、卑しい出だっちゅうてバカにするもんはおらんくなる」
NHK大河ドラマ「どうする家康」の第30回「新たなる覇者」(8月6日放送)での場面である。以後、天下人への階段を急速に駆け上がっていく秀吉だが、事実、「卑しい出」であることはかなり気にしていたようで、それを糊塗する方途を考え、手を打ち続けた。
一般に秀吉は農民出身であるとか、足軽の出であるとかいわれているが、じつは、それさえわかっていない。いずれにせよ、当時、武士などの支配層から見れば「卑しい」と受け取られる階層の出身であったことはまちがいない。
同じ第30回の予告編には、建築中の大坂城天守が映し出されたが、勝家を滅ぼした天正11年(1583)から築きはじめた大坂城もまた、秀吉が「卑しい出」であることを覆い隠すための装置のひとつだった。
■「信長は自分より劣った者」というメッセージ
秀吉が「卑しい出」だというイメージを塗りつぶすためにも大坂城で実現させたのは、とてつもない規模と、常軌を逸した絢爛(けんらん)豪華さだった。以下、秀吉と直接の交流があり、大坂城を訪問したこともあるイエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの著作『日本史』(松田毅一・川崎桃太訳)から、何カ所か引用する。
「彼はいっそう身分を高め、不朽の名声を得、統治ならびに地位において、万事、信長を己れより劣れる者たらしめようと決意した。その傍若無人にして傲慢なことのあらわれとして、信長が六年間包囲した大坂(石山)の地に、別の宮殿と城郭、ならびに市街地の建設を開始した。それらは、その地が目的に適合していたために、建築の華麗さと壮大さにおいては安土山の城郭と宮殿を凌駕した」
秀吉が大坂城を、信長の安土城よりも大規模で豪華なものにすることで、自身の権威を高めようとした、というのは研究者の一致した見解である。それは、ねらっただけでなく実現された。
■城内に300人もの女性を囲っていた
「(羽柴)筑前殿は、まず最初にそこにきわめて宏壮な一城を築いた。その城郭は、厳密に言えば五つの天守から成っていた。すなわちそのおのおのは互いに区別され、離れており、内部に多くの屋敷を有するはなはだ高く豪壮な諸城である。それらのうちもっとも主要な城(本丸)に秀吉が住んでおり、その女たちも同所にいた。八層から成り、最上層にはそれを外から取り囲む回廊がある。また、壕、城壁、堡塁、それらの入口、門、鉄を張った窓門があり、それらの門は高々と聳えていた。(中略)とりわけ天守閣は遠くから望見できる建物で大いなる華麗さと宏壮さを誇示していた」
いまの引用文に「五つの天守」という表現があったが、大坂城に天守が5つあったという事実はない。文脈から察するに曲輪、すなわち本丸や二の丸など削平した区画のことだろう。また、「八層」というのは、外観は5重だが内部は地上6階、地下2階、計8階だったことを指すと思われる。
「その女たちも同所にいた」という表現も気になる。じつは、フロイスは『日本史』に2カ所も、秀吉が大坂城内に300人もの女性を囲っていた旨を記しているのだが、そこは本題でないので引用を続ける。
■「我らの言葉でいえば金ピカ」
「別の場所にある一つの台地には、多くの立派で美しい部屋が建てられているが、それらは我らの言葉でいえば金ピカであり、下方に展開する多くの緑の田畑や愛らしい河川をそこから一望に修め得る。これらの夥しい部屋は、種々様々な絵画で飾られている。たとえば日本人がもっとも得意とする大小の鳥、その他自然の風物を描いたものや、日本およびシナの古い史実を扱った絵であるが、これらを眺める者の目を好奇心をもって楽しませずにはおかない」
「これらの建築はすべて木材が用いられ、(中略)外見においてはあたかもヨーロッパの建築のようであり、我らの目になんらの違和感を覚えさせない。だが金箔を施したこれらの部屋も娯楽室もヨーロッパの建物とは異なったところがある。すなわち、その趣向、構造、不思議なほどの清潔さ、はたまた内部の装飾、調和などにおいては、我らのヨーロッパの建築の設計とはあまりにかけ離れ、かつ稀有なもので、これらの建築は我らのものに比べ、はるかに少ない費用でもって大いなる威厳をかもし出しているのである」
「はるかに少ない費用で」云々は、石造建築にくらべれば木造建築はコストが安く済む、という意味である。
■金で埋め尽くされた空前絶後の豪華さ
絵画史料で大坂城の豪華さを検証するとどうなるか。大坂城を描いた最古の絵画「大坂城図屏風」(大阪城天守閣所蔵)には五重の天守が描かれている。その印象はわれわれが見慣れている、白い漆喰で塗りごめられた天守や、壁面に下見板が張られた天守とは、印象がかなり違う。相当にデコラティブで、外観からして「金ピカ」なのである。
下から四重目までの外壁は、軒の下に漆喰が塗られ、その下部には黒い地色の腰板が張られている。黒漆が塗られているのだろう。だが、黒地のうえは秀吉が朝廷から使用を許可された桐紋と菊紋をはじめとする、金色の模様で埋め尽くされている。おそらく大きな木彫に金箔をほどこし、腰板のうえに張り詰めたのだろう。
また、5階すなわち最上重には、フロイスが「外から取り囲む回廊」と記した廻縁がめぐらされ、その廻縁も壁面も金色に見える。ほかにも破風飾り、軒丸瓦や軒平瓦など、いたるところが黄金色に輝いている。
![大阪市内で出土した金箔押瓦(写真=Saigen Jiro/PD/Wikimedia Commons)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/6/1/1200wm/img_614ec3cafa48db294e26c0087d3c0466503405.jpg)
規模だけなら、のちに家康をはじめ徳川将軍が、名古屋城や徳川大坂城、江戸城などにより大きな天守を建てたが、常軌を逸した豪華絢爛さにおいては、秀吉の大坂城天守は空前絶後だった。
■黄金の寝台に黄金の茶室
では、内部はどんな感じだったのか。フロイスは天正14年(1586)にイエズス会の日本地区准管区長だったガスパール・コエリョに伴って、大坂城を訪れた。まず、通された御殿について、
「周囲には美しい虎皮やシナから齎された鞣皮、その他の立派な品々が秩序整然とつり下げられていて壮麗であった。(中略)樹木や鳥が黄金をもって描かれており、関白は奥の上座に坐し、絶大な威厳と貫録を示した」
と記す。そして、謁見(えっけん)ののちにフロイスら一行は天守に案内される。
「関白はその身分とは別に一私人のようにして司祭たちの案内役を務めた。(中略)そして途中は閉ざされていた戸や窓を自分の手で開いて行った。このようにして我らを第八階まで伴った。その途中の各階で、彼はそこに蔵されている財宝についてこう語った。『貴殿らが今見ているこの室には金が充満している。別の部屋には銀、ここには絹糸、ダマスコ織、あの部屋には茶の湯の器が、彼方の室には大小の刀剣や立派な武具が充満している』と」
![復元され、一般公開が始まった豊臣秀吉の「黄金の茶室」=2022年3月27日、佐賀県唐津市の県立名護屋城博物館](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/e/3/1200wm/img_e3668ea93a0411b5a8c6d10395dafc02497346.jpg)
「ある一室を通ると、そこには十着ないし十二着の新しい紅色のヨーロッパ風の外套が紐で吊るしてあった。それらは日本ではきわめて稀で、当国の産ではないために重宝がられているのである。さらに関白は錠がかかった非常に長い多数の大函を開いて我らに見せたが、それを見た我らは互いに顔を見合わせて文句なしに驚嘆した。我らが目撃したものは予期し想像していたことを凌駕していたからである。日本には折畳み寝台もふつうの寝台もなく、それらに寝る習慣もないにかかわらず、二、三台の組立寝台が見られた。それらは金糸で縫い付けられており、ヨーロッパでは高価な寝台にのみ使用される他のあらゆる立派な装飾が施されていた」
「また彼は、ことごとく黄金で造られた一室がある場所を我らに見せた。その黄金の室は、解体して多くの長い大函に入れれば移動できるようになっている。関白はそこでこの部屋は昨日組み立てたばかりで、まだ解体していなければ、貴殿らに折よく見せられてはなはだ好都合だったのだがと言った」
■現代に残る唯一の遺構
外観も、内装も、調度も、蔵されているものも、秀吉の「卑しい出」を徹底的に覆い隠すがごとく、金ピカだったのがよくわかる。だが、空前絶後の輝きを誇った豊臣大坂城は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で灰燼と帰し、天守も焼失。その後、豊臣の痕跡を消したい徳川幕府の手で1~10メートルもの土を盛られ、地上から消されたうえで徳川の大坂城が築かれた。
だが、たったひとつ、その遺構が残っている。
先に挙げた「大坂城図屏風」には天守の左手に、唐破風の入口がある屋根つきの橋が描かれている。これはフロイスも『1596年度日本年報補遺』で、金や宝石が散りばめられ極彩色ですばらしい輝きを放つ、と描写した極楽橋である。この橋は慶長3年(1598)に秀吉が死去すると、2年後に霊廟である豊国廟に移築され(『義演准皇后日記』)、さらにその2年後、琵琶湖北部に浮かぶ竹生島に再移築された(『舜旧記』)と記録されている。
国宝に指定されている竹生島の宝厳寺唐門、およびそれに連なる重要文化財の観音堂と渡廊、国宝の都久夫須麻(つくぶすま)神社本殿が、その極楽橋だとされ、令和2年(2020)までの修理と調査によって、あらためて大坂城から移築されたことが間違いないと検証された。
![](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/0/2/1200wm/img_02536ad8dcb2f3b890fa689c95c502d63447442.jpg)
■海よりも深いコンプレックス
滋賀県がこの修理を行った際、レーザー測定で顔料や模様を精密に分析。それにもとづいて、木部を覆う黒漆が全面的に塗り直され、さらに、彩色や彫刻の欠損も補ったうえで往時の色彩が忠実に再現された。現在、黒地に金のほか赤や青をもちいた絢爛たる装飾がよみがえって、圧巻である。
これを見るだけでも大坂城の常軌を逸した豪華さと、秀吉の海より深そうなコンプレックスに思いをいたすことができる。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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