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気がつけば「日本人初の全米1位」獲得…米国で驚くほど有名な日本人ピアニストが音楽活動より優先したこと

プレジデントオンライン / 2023年8月16日 17時15分

コンテンポラリージャズ・ピアニストの松居慶子さんは、アメリカの音楽業界で最も有名な日本人の一人だ。これまで3つのアルバムで「全米1位」を獲得するなど、その活動は高く評価されている。だが、アメリカでの成功は自らが強く望んだものではなかったという。松居さんの数奇なキャリアを、ノンフィクション作家の梶山寿子さんが取材した――。

■日本人で初めてジャズで全米1位を獲得したアーティスト

80年代のシティポップが再評価されるなど、近年、日本人アーティストの楽曲が海外でも人気を集めている。藤井風の『死ぬのがいいわ』が、昨年、音楽ストリーミングサービス、Spotifyの「グローバル・バイラル・チャート」で最高4位を記録。今年7月には、米ビルボードのグローバル・チャート「Global 200」で、YOASOBIの『アイドル』が日本としては歴代最高位となる7位にランクインしたのも記憶に新しい(7月1日付。アメリカを除いた「Global Excl. U.S.」では首位)。

だが、こうしたJ-POPブームが起きる前から、35年以上にわたってグローバルな音楽シーンで活躍している日本人アーティストがいることをご存じだろうか。

その人の名前は、松居慶子。コンテンポラリージャズ・ピアニスト、作曲家で、拠点を置くアメリカはもとより、ヨーロッパや南アフリカなど、世界中に熱心なファンを持つ。

1987年の全米デビュー以来、発表した30枚のオリジナルアルバムすべてがヒットチャート上位に。米ビルボードのコンテンポラリージャズ・アルバムチャートでは、2001年の『Deep Blue』を皮切りに、2016年『Journey To The Heart』、2019年『Echo』と3作品が1位に輝いた。名だたるミュージシャンがひしめくアメリカのジャズ界で3度の首位獲得は、言うまでもなく、日本人初の快挙である。

J-POPとはジャンルが違うものの、世界の第一線で日本人が活躍し続けていることは称賛に値しよう。

■共演した超大物ミュージシャンたち

魂のこもった演奏を聴かせるライブにも定評があり、北米を中心に、毎年のようにワールドツアーを行う。昨年は南米・パラグアイに赴き、同国を代表するオーケストラとチャリティーコンサートを開催。東ヨーロッパでの人気も高く、今回の戦争が始まる前は、ロシアやウクライナでも頻繁にコンサートを開いていたという。

マイルス・デイビス、ライオネル・ハンプトン、ジェームス・イングラム、パティ・オースティンなど、共演したミュージシャンも大物揃い。ジャズ・フュージョン界を代表するピアニスト、ボブ・ジェームスとは、連弾でワールドツアーを行い、アルバムも共同制作している。また、彼女のアルバムには、ヴィニー・カリウタ(ドラム)、カーク・ウェイラム(サックス)、マーカス・ミラー(ベース)、レイラ・ハサウェイ(ヴォーカル)といった錚々たるメンバーが参加しているのだ。

改めて並べると、その経歴はまばゆいばかり。だが、ご本人はいたって謙虚で、ここまで続けてこられたのは、ファンのおかげだと繰り返す。

「デビューしてから、オリジナル曲だけでコツコツとアルバムをつくり、コンサートを重ねてきました。毎回のようにコンサート駆けつけてくれる追っかけファンもいれば、4世代で来てくださるご家族もいる。ファンの方々がいるから今日がある。ライブでは客席のお客様と心がつながっているように感じます。そんな絆の強さに私自身も支えられているんです」

ファンの想いに応えるように、コンサート終演後はロビーに出て、直接言葉を交わしたり、サインに応じたりする。そんな真摯(しんし)な姿勢が、ファンをさらに虜にするのだろう。

ピアノの鍵盤
写真=iStock.com/fermate
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/fermate

■なぜ彼女の音楽に人々は惹かれるのか

彼女の音楽は、R&Bやロック、フュージョン、クラシックなどの要素を採り入れたコンテンポラリージャズ。「スムースジャズ」と呼ばれるジャンルを専門とするアメリカのFMラジオ局でよくかけられている。そのため、ラジオで耳にしたことをきっかけに、ケイコ・マツイの曲のファンになる人が少なくない。

ドラマチックで情熱的かと思えば、繊細で叙情的と、その音楽はさまざまな表情を持つが、聴かれ方もかなり独特だとか。ほかのスムースジャズのように、聴き心地の良い曲だから人気がある、というだけではない。「『魂の故郷に帰ったような気持ちになる』と言われたこともあります。たくさんの人が私の音楽を精神的な拠り所にしてくれているんです」。そう力を込めるのだ。

「ケイコの音楽は魂の栄養だ」とファンは言う。「心が安らぐ」と語る人もいれば、「生きるエネルギーが湧いてくる」と評する人も。

闘病生活を送る病室で。刑務所の塀のなかで。苦しみに寄り添うような彼女の音楽に救われた人たちから、続々と感謝のメッセージが届く。「あなたの音楽のおかげで、絶望のなかに光を見つけることができました」と。

アメリカの有力紙「ロサンゼルス・タイムス」は、こう評している。

“There is a strong spiritual quality Keiko Matsui brings to all of her creative projects.”
ケイコ・マツイの創作すべてに、強い精神性が宿っている。

■「いったいどこでそのソウルを身につけたの?」

古くからの友人でもあるカーク・ウェイラムが開いたゴスペル・コンサートにゲスト出演したときのこと。演奏が終わるや、嵐のような拍手とスタンディングオベーションが巻き起こり、「ケイコの音楽がソウルに響いた」との賛辞が贈られたのだ。

「『あなたは日本人でしょ。なのに、いったいどこでそのソウルを身につけたの!』って(笑)。そんなふうに言ってもらえるのはとても光栄ですね」

祈りを込めてピアノに向き合う姿は、ときに神々しくもある。そこに東洋の神秘や神がかり的なものを感じる人もいるが、ご本人ははっきりと否定する。「スピリチュアルなパワーのようなものは、まったく持っていないんですよ」

では、いったい何が特別なのか。

ヒントは、あるファンの、この言葉にあるのではないか。

「ケイコの音楽はとてもビューティフル! だけど、何より彼女自身が人間としてビューティフルなんだ」

まっすぐで誠実な人柄、あふれる正義感や人類愛。それが音楽ににじみ出て、傷ついた人々の心をやさしく包むのだろう。

■アメリカでの音楽活動はまったく考えていなかった

海外での成功も、みずから望んでつかんだものではない。むしろ、何かに導かれるまま進んできた結果のように思える。

「不思議ですよね。アメリカで音楽活動をしたいミュージシャンはたくさんいるのに、私はそんなこと、まったく考えていなかった。なのに、やめたくてもやめられない状況になってしまって……。最近は海外で活躍する日本人も増えてきましたが、私のケースはちょっと特殊かもしれません。ファンのみなさんの心の拠り所になっていることもそうだし、私の曲がご縁で、人間同士のつながりが生まれることもそう。人種も宗教も関係なく、コンサートに来てくださったお客さん同士が仲良くなったりするんです。こういうことはなかなかないと思います」

ロシアとウクライナ、双方に縁が深いだけに、ロシアのウクライナ侵攻にも心を痛めている。

キーウでコンサートを開いたジャズピアニストの松居慶子(=2007年3月15日、ウクライナ・キーウ)
写真=Ukrinform/時事通信フォト
キーウでコンサートを開いたジャズピアニストの松居慶子(=2007年3月15日、ウクライナ・キーウ) - 写真=Ukrinform/時事通信フォト

「両方の国に大勢のファンがいるし、友達もたくさんいます。私にとっては信じられない出来事です。ピアノ・ソローツアーで今年も東ヨーロッパを回りましたが、やはりウクライナにもロシアにも行けなかった。ただ祈ることしかできないのがつらいですね……」

以前、一緒にコンサートをしたウクライナのオーケストラの楽団員は、「銃を買うためのお金を集めたいので、これをSNSで拡散してほしい」と、武装した自分の写真を送ってきたという。それはさすがに断ったものの、音楽家が楽器ではなく、武器を手に戦わねばならない現状に、無力感が募るばかり。自分も何か行動すべきではないかと考え始めている。

「ウクライナの問題だけではありません。ペルーやパラグアイではスラム街の人たちの悲惨な暮らしぶりを見てきたし、チェルノブイリの近くに行ったこともある。自分の目で現実を見ると、ほんとうに考えさせられます。ピアノがあろうがなかろうが、世界平和のために貢献したい――そんな気持ちがどんどん強くなっているんです」

■新曲に込めたメッセージ

現在は、今春アメリカで発売された30枚目のアルバム『EUPHORIA』を携えて、アメリカをツアー中。びっしり詰まったスケジュールの間を縫うように、6月28日の日本盤発売に合わせて帰国。大阪や東京などでもライブも行った。

『EUPHORIA』の日本盤のライナーノーツには「このアルバムを、私たち人類の新たな時代と地球に捧げます。Love & light, Keiko」と記されている。その真意を聞いてみた。

今年6月にリリースした最新アルバム『EUPHORIA』
今年6月にリリースした最新アルバム『EUPHORIA』

「私たちは新しい時代の入口に立っているということ。人類が体験したパンデミックは、命の尊さや儚さを教えてくれました。友人、知人が亡くなるなど、つらいこともあったけど、大切な人と過ごす時間のありがたさや、生かされていることの意味を考える、貴重な機会になったと思います。だけど、相変わらず人間は、分断や、戦争など、悲しいことを繰り返している。ほんとうに愚かですよね。でも、人間は、それを乗り越えて前に進もうとする強さや勇気を持っているはず……。地球はもっといい方向に進める。もういい加減に、お互いを傷つけ合うのはやめようよ――そんなメッセージを込めました」

録音のためにスタジオに入ると、曲に導かれているような感覚があったという。

「この音楽を世に送り出すために私たちは働いている。そう感じたんです」

■ポジティブな言葉を伝え続ける理由

コンサートでも、同様のポジティブなメッセージを伝えているという。

「私たちそれぞれが自分の幸せや心身の健康を追求しながら、お互いを思いやって、支え合って生きていく。I hopeでもI wishでもない。愛と勇気があればできると私は信じているから! ――英語でそう言うと、アメリカでは『そうだ‼』という力強いリアクションがあって、拍手が巻き起こります。みなさんが共感してくれているのが伝わってきますね」

アルバムのなかの唯一のボーカル曲、グラミー賞シンガー、レイラ・ハサウェイが歌う『LOVE AND NOTHING LESS』にも、そんな思いが込められている。哀愁を帯びたラブソングのように聞こえるが、その裏に深い意味があるのだ。

「この曲は絶対にレイラに歌ってほしい、彼女しかいない! と直感したんです。詞も書いてほしいとお願いしたら、私の想いやエモーションを汲み取った、ぴったりの歌詞を書いてくれました。彼女自身も平和を願う音楽家です。女性差別や人種差別など、つらい経験もしてきたはずですが、勇気と愛があれば世界は変えられると信じているのでしょう。だから私の考えに共鳴してくれたのだと思います」

人生が生きるに値するならば、喜びも痛みも、すべて抱えて、愛とともに生きてゆこう。この曲の歌詞は、慶子さんの生き方にも通じるようだ。

■海外と日本での人気の違い

ここまで紹介してきたように、海外では安定した人気を誇る慶子さんだが、残念ながら、母国・日本ではその実績が広く知られているとは言い難い。

かなり前の話になるが、アパレルブランド「GAP」が、大規模な国際キャンペーンに、音楽業界を代表するアイコンとして彼女を起用したときのこと。著名なファッション写真家、ハーブ・リッツの撮影した広告写真が、新宿の街頭にも大きく掲げられた。

「アメリカの本社は、有名人だと思って私を選んでくれたのに、日本ではあまり知られていないじゃないですか。モデルが私だとわかって喜んだのは友だちだけですよ」と笑う慶子さん。その状況は、今もさほど変わっていないのではないか。

そこで、これまでの彼女の歩みを、改めて振り返ってみたい。

■決して自ら望んだ成功ではないが…

輝かしい成功も、自身が強く望んだわけではなく、何かに導かれるまま進んできた結果だと前に書いた。

なんとラッキーな人生だろう! と思う人もいるかもしれない。

だが、生まれ育った国を離れ、文化の異なる海外で仕事をするだけでもたいへんなこと。広大なアメリカ大陸を巡るコンサートツアーは、旅から旅の連続で、自宅のベッドでゆっくり寝ることもままならない。出費もかさみ、最初の頃は赤字続きだったとか。東京生まれで、帰国子女でもなかった彼女にとって、言葉の壁も当初は大きかったはずだ。

人種差別もあっただろう。さらには、信頼していた日米双方のマネージャーに大金を騙し取られたこともあったという。そんな耐え難い出来事も、すべて音楽に昇華させてきた。

「何があっても、ステージに出てピアノを弾き始めたら無になれる。ピアノと私には強い絆があるんです。ピアノを一音弾いたら、もう絶対に大丈夫! みたいな。それに、どんなに疲れていても、お客様の前で演奏を始めると、不思議とエネルギーが湧いてきて……。そのうちに、こうして音楽を続けて、みなさんに曲を届けることが私のミッションだと思えるようになりました。親しい友だちにも、言われたんですよ。『慶子自身がつらい思いをした経験も、あなたの音楽に活かされるわけでしょ? 私はその音楽に助けられているから、慶子には悪いけど、苦しくても耐えてね』って」

そう言って笑う慶子さん。ここまで覚悟を決めるまでには、さまざまな葛藤があったのだ。

■渡米のきっかけ

ピアノを始めたのは5歳のとき。高校生で映画のテーマ音楽を作曲するなど、早くから非凡な才能を見せてきた。18歳でヤマハとアーティスト契約を結び、女性3人のフュージョン・バンド「コスモス」として活動。独立後の87年、ちょっとした記念のつもりで、アメリカで自主制作したアルバム『水滴/A Drop of Water』が、思いがけず、アメリカの音楽業界で高い評価を受ける。それをきっかけに、アメリカに拠点を置いて音楽活動を始めることになるのだ。

デビュー4年後の91年には「全米オールスタージャズ・ツアー」のメンバーに選ばれ、ジェームス・イングラム、パティ・オースティンらと共演。翌年も再び選出されて、今度はチャカ・カーン、フィリップ・ベイリーらと全米を回った。

私が慶子さんと出会ったのは、その頃である。

当時、私はニューヨークに住んでいて、ラジオから頻繁に流れるケイコ・マツイの曲がお気に入りだった。ちょうど、ハーレムのアポロシアターでチャカ・カーンらと共演するコンサートがあると知り、会場へ。そこで見た彼女のステージに、ただただ圧倒されたのだ。

あどけなさの残る外見とは裏腹の、鬼気迫る演奏で客席を沸かせたかと思えば、一転して、心に染み入るようなピアノ・ソロを聴かせる。ブラックミュージックの殿堂で、共演するアフリカン・アメリカンの大スターたちがかすむほどの存在感を放った彼女に、割れんばかりの拍手と歓声が贈られたのである。

終演後、女性観客たちの陽気なおしゃべりに聞き耳を立てると、やはりケイコ・マツイの話題で持ち切りであった。「あの、アジア人のちっちゃな女の子、なかなかやるじゃないの! 気に入ったわ!」。彼女の音楽がこうしてハーレムのソウルをつかむ様子を、私は目撃したのである。

■生活の基盤を日本に移したワケ

楽屋に慶子さんを訪れると、そこには幼い娘さんの姿も。聞けば、一緒にツアーを回っていて、共演者にもかわいがられているという。後日、取材に応えてくれた慶子さんは、オーラが消えて、いい意味で、拍子抜けするほど普通の人だった。控えめでシャイな印象すら受ける。そんな人柄にも感銘を受け、以来、折にふれて、日米で取材を重ねている。

その数年後、次女も生まれたが、学校教育はどうしても日本で受けさせたいと、長女の小学校入学を機に、生活の基盤を日本に。娘たちは祖母(慶子さんの実母)と一緒に暮らし、慶子さんは仕事があるときにアメリカに行くというスタイルを選んだ。

小学生時代の楽しかった思い出があるから、娘たちにも同じ体験をさせてやりたい――そんな親心だが、年に14、15回も日米を往復する生活は、体力的にも厳しかったに違いない。娘たちと過ごす時間を少しでも増やそうと、数日でもオフがあれば日本に飛んで帰ると聞き、そのタフさに驚いたものだ。

その頃、アメリカの音楽業界は、彼女を「アメリカのナンバーワン・女性キーボード奏者」と呼ぶようになっていた。

ジャズピアニストの松居慶子
 

北米以外でのコンサートも増えるなど、仕事は順調だったが、彼女は自身の成功に執着せず、「娘たちが明るく元気でいてくれるから、仕事を続けていられる。そうでなければ、すぐにでも仕事をやめます」と言い切っていた。「娘たちと自転車乗ってパン屋さんに行って、パンを選ぶ……。そんな時間がいちばん幸せなんです」と。

■いちばん大切なのは「成功」ではない

「もともと私はキャリアウーマン志向じゃない。成功のためには手段を選ばない人もいますが、私にとっていちばん大切なのは家族。ほんとうは、子どもが学校から帰ったら、必ず家にいて迎えてあげるお母さんになりたかったんです。私の母がそうだったから……。だから妊娠する度に、『この子が生まれたら、もう仕事はやめる!』と騒いで、周囲を慌てさせていました」

長女の出産前の最後のコンサートでは、胸に秘めていた引退の決意が無言のうちに伝わったのか、終了後、数人の女性ファンに囲まれて、「何があっても音楽をやめてはだめよ!」と激励された。

「それだけではなくて、一人のおばあちゃんが、私の手をぎゅっと握りしめて、『あなたの音楽はソー・ビューティフル! 美しい音楽をありがとう!』と、涙ぐみながら、何度も何度も繰り返すんですよ。そんなことがあったので、私は何か“お役目”をいただいているのかな、簡単にやめちゃいけないのかな、と思い始めたんです」

次女を妊娠中にレコーディングしたアルバムのタイトルは『Sapphire』。生まれてくる子の誕生石だ。「これでほんとうに最後」と思いながらつくったこのアルバムが、従来の倍のセールスを記録し、やめるにやめられない状況になったという。

■どうやってオリジナル曲を作っているのか

作曲するときは、自分で曲をつくり出すというよりも、フレーズやメロディが(天から)落ちてくるように感じるという。それを彼女は、「曲が届く」などと表現する。

「メロディが聞こえてくるときは無の状態。いつ落ちてくるかわかりません。私のもとに届いた音楽をみなさんに聴いてもらって、平和と調和の空気を生み出す。それが自分の天命だと思っています。ここまで来られたのはファンのみなさんのおかげですが、曲が届き続けていることも大きいですね。大御所ミュージシャンも、ある年齢になるとオリジナル曲を出さなくなるでしょう? 新しい曲が書けなくなるからだと聞いて、私もそうなるのかな、と怖くなりました。でも、ありがたいことに、今も曲が届いてくれるので、30枚目のアルバム『EUPHORIA』を出すことができました」

『EUPHORIA』というタイトルの意味は、多幸感である。

コロナ禍でリモート制作を余儀なくされていたスタジオ・ミュージシャンが、久しぶりにスタジオに集まって録音をした。その高揚感を表しているという。

「『こうして一緒にスタジオに入って、みんなで録音するって最高だよね!』と、しみじみ言っていたんです。それぞれの音にも、そんな喜びがあふれていたので、この言葉がぴったりだな、と」

■最愛の娘たちに思うこと

コンスタントにアルバムを制作し、ワールドツアーを成功させる。ミュージシャンなら当たり前のことだと思うかもしれないが、そう簡単なことではない。とりわけ、シングルマザーになってからは、強くあらねばと、自分を鼓舞してきたという。

「私にも弱い面があります。心が折れそうなとき、『あなたがしっかりしないと、あなたの音楽を守れないでしょ!』と言われて目が覚めました。私のところに届いてくれた、この音楽のために……そう思うと強くなれるんです。子どもを育てるため必死に働かなきゃいけなかったことも事実ですが、音楽があったからこそ強くなれた。私自身も音楽に助けられたんです。母のサポートもあって、ありがたいことに、娘たちはまっすぐに育ってくれました。失敗も含めて、私の人生からも学んだのではないでしょうか」

3年前、長女は、俳優、ダンサーのマネージメントや舞台の企画・プロデュースを行う会社を立ち上げたそうだ。今年2月には、慶子さんの音楽とダンス・パフォーマンスを融合させた新感覚のステージ「No Borders」(浅草公会堂にて)を実現させた。

「私の音楽を使ったダンス・ステージは、長女の夢だったようです。すてきな舞台になったので、『このダンス・プロジェクトでワールドツアーに行きたいね』なんて話しているんですよ」

愛娘とのコラボを、心から誇らしく思っていることは間違いない。

長きにわたりファンに愛されている慶子さんの名曲に『Forever, Forever』がある。

次女がおしゃべりを始めて間もないときにつぶやいた、「いつまでも、いつまでも、ママのこと大好きぃ~!」という愛らしい言葉に着想を得てタイトルを付けたという。

近い将来、孫のことをタイトルにした新たな名曲が生まれるかも。それもまた楽しみだ。

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梶山 寿子(かじやま・すみこ)
ノンフィクション作家、放送作家
神戸大学文学部卒業。ニューヨーク大学大学院で修士号取得。経営者、アーティストなどの評伝のほか、ソーシャルビジネス、女性の生き方・働き方、教育など幅広いテーマに取り組む。大阪経済大学客員教授、読売テレビ放送番組審議会委員。主著に、『アパレルに革命を起こした男』『トップ・プロデューサーの仕事術』『鈴木敏夫のジブリマジック』『35歳までに知っておきたい最幸の働き方』『そこに音楽があった 楽都仙台と東日本大震災』のほか、自らのリハビリ体験をもとにした『人生100年、自分の足で歩く』『健康長寿は靴で決まる』などがある。

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(ノンフィクション作家、放送作家 梶山 寿子)

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