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なぜヒトラーは独裁権力を握れたのか…「民主的に選ばれた」「選挙で勝った」という説明が見落としていること

プレジデントオンライン / 2023年8月19日 15時15分

ベルリンの首相官邸のバルコニーで敬礼するアドルフ・ヒトラー - 写真=dpa/時事通信フォト

なぜヒトラーの率いるナチ党は権力を握ることができたのか。甲南大学の田野大輔教授は「『民主的に選ばれたから』という説明は単純すぎる。ナチスの権力掌握と宣伝の手法をみれば、それが必ずしも『民主的』とは言えないことがわかる」という――。(第1回)

※本稿は、小野寺拓也、田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波ブックレット)の〈第二章 ヒトラーはいかにして権力を握ったのか?〉の一部を再編集したものです。

■ヒトラーはいかにして独裁者になったのか

ヒトラーはなぜ権力を握ることができたのだろうか。この問題については、「ヒトラーは民主的に選ばれた」「選挙で勝ったから首相になった」などと、かなり単純な説明がなされることが多い。また、ナチスが国民の支持を獲得した理由についても、「ヒトラーの演説には絶大な威力があった」「多くの人びとが彼のカリスマ性に魅了された」という、やや紋切り型の説明が一般化している。

ヒトラーが選挙を通じて広範な支持を得て、それを背景に権力の座についたという意味では、こうした見方は基本的に正しい。だがナチスの権力掌握と宣伝の手法をもう少し詳細に見ていくと、これにはいくつかの留保が付くこともたしかである。

ヒトラーは民主的に選ばれたのか? ヒトラーの権力掌握は「民主的」なものだったのだろうか。この問題を検討する上では、とくに次の3点を考慮する必要がある。

ナチ党が国会で単独過半数はおろか、(自由な選挙ではなかった1933年3月の国会選挙を除けば)保守政党との連立によっても過半数を占めることはなく、ヒトラーの首相就任は議会の選出によるものではなかったこと、②首相指名は大統領の権限にもとづくもので、そこでは大統領周辺の保守勢力との提携が鍵を握ったこと、③ナチスの権力掌握の過程では、選挙運動や宣伝活動と並行して、突撃隊などによる暴力の行使も大きな役割を果たしたことである。

この3点を念頭に置いた上で、ヒトラーの権力掌握がいかなる意味で「民主的」と言えるのかを検証していくことにしよう。

■経済危機と議会政治への幻滅

急進右派の群小政党の一つにすぎなかったナチ党は、ミュンヘンでの武装蜂起に失敗した後、選挙を通じて政権獲得をめざす「合法路線」に転換し、政治集会や街頭闘争など党活動の全国展開を進めていたが、1920年代の相対的安定期には支持が伸び悩んでいた。こうした状況を一変させたのが、1929年10月に始まる世界恐慌である。1928年5月の国会選挙で2.6%の得票にすぎなかったナチ党は、1930年9月の選挙で18.3%の票を獲得し、一気に第二党に躍り出た。

深刻な経済危機が国民にもたらした絶望、この危機に対処できない議会政治への幻滅が、反体制的な政党であるナチ党の地滑り的な勝利の原動力となったことは間違いない。

これ以降、ナチ党は広範な層から支持を集める「国民政党」へと脱皮し、ヴァイマール体制への最大の反対勢力として、国政の舞台でも無視できない存在となった。この間、ナチ運動は草の根レベルにも浸透し、とくに党の準軍事組織である突撃隊は左翼勢力との街頭闘争で存在感を発揮して、膨大な数の若者を惹き付けていた。

経済対策をめぐって国会が空転するなか、ナチ党の国政での躍進はさらに続き、1932年7月の国会選挙では37.4%の票を得て、ついに第一党の座を占めるに至った。この選挙では共産党も14.6%の票を得たので、ナチ党と合わせると反議会勢力が52%と過半数を占めることになり、国会は完全な麻痺状態に陥った。これはほかでもなく、国民の大多数が民主主義と議会政治に背を向けたことを意味していた。

ヒトラーの首相就任を祝い、ブランデンブルク門を松明行進する突撃隊員たち(1933年1月30日)(写真=CC-BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)
ヒトラーの首相就任を祝い、ブランデンブルク門を松明行進する突撃隊員たち(1933年1月30日)(写真=CC-BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)

■大統領大権で首相の座についたヒトラー

こうした事態は、ヒンデンブルク大統領とその周辺の保守勢力に対して、新たな政治的提携を模索させることになった。彼らは1930年3月以降、大統領大権にもとづいて首相を指名し、議会に拘束されない統治を続けていたが、ブリューニング、パーペン、シュライヒャーの各内閣が政権運営に行き詰まると、ヒトラーを首班とする右派連立政権だけが、残されたほぼ唯一の選択肢となった(ただし軍事クーデターという選択肢も完全に消えたわけではなかった)。

1932年11月の国会選挙でナチ党が200万票余りを失って党勢を後退させ、反対に躍進を続ける共産党の脅威が高まったことも、この選択を後押しした。保守勢力の間では、ヒトラーを首相に据えて閣僚の多くを保守派で固めれば、過激な煽動家を政権内で飼いならして、その大衆的基盤を政権運営に利用できるのではないかという観測も広がった。

かくして1933年1月30日、大統領がヒトラーを首相に任命して、ナチ党と国家人民党の右派連立政権が誕生した。だが両党合わせても国会の過半数に届かなかったので、先行する政権と同様、大統領の権力に依拠した少数与党政権であることに変わりはなかった。

■ナチスの暴力性

またナチ党からの入閣もヒトラーを含めて3名にとどまり、ほとんどの閣僚ポストは保守派の政治家が占めた。国会第一党であるナチ党が政権に加わったことは、選挙で示された民意に沿っているという意味では民主的と言えるが、その民意自体、利害対立に明け暮れる議会政治に敵対的だったし、連立政権内にも、議会によらない権威主義的統治の実現をめざすという点で思惑の一致があった。

もっともその後の展開を見れば、保守派の見通しに甘さがあったこともたしかである。彼らは大衆運動の指導者ヒトラーを問題解決の手段と見ていて、それ自体を問題とは見ていなかった。この煽動家を飼いならすことができるという楽観的な見通しに反して、ヒトラーは首相就任後わずか数カ月でヴァイマール憲法を骨抜きにし、一党独裁体制の確立にまで至った。そこで大きな役割を果たしたのが、ナチ運動の暴力的なダイナミズムである。

首相就任後、ヒトラーは独裁権力の掌握をめざしてただちに国会を解散し、総選挙に打って出た。ナチ党は政権党の地位を利用して大規模な宣伝活動を展開し、ラジオ放送や飛行機での遊説を通じて「国民革命」の遂行を訴えると同時に、突撃隊・親衛隊を補助警察に任命して、警察とともに反対派の弾圧にあたらせた。

さらに選挙直前に国会議事堂が放火される事件が起こると、政府はただちに「国民と国家を防衛するための大統領緊急令」を発布し、主要な基本権を停止した(この事件は共産主義者を弾圧する口実を与えた点で政府に好都合なものだったが、現在までのところオランダの元共産党員ファン・デア・ルッベの単独犯行説が依然として有力である)。

■それでも過半数には届かない

これによって約2万人の共産主義者が逮捕され、一部は突撃隊の私設収容所で暴行された。そこにはすでにはっきりと、ナチ政権のもとで無法な暴力が拡大する予兆があらわれていた。

突撃隊の屯所に連行された共産党員(1933年3月6日)(写真=CC-BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)
突撃隊の屯所に連行された共産党員(1933年3月6日)(写真=CC-BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)

だがこうした状況のもとで行われた3月の国会選挙でも、ナチ党の得票は43.9%で単独過半数に及ばず、連立相手の国家人民党の得票と合わせてわずかに過半数を超えるにとどまった。選挙後の国会では、立法権を政府に委譲する「全権委任法」が3分の2を超える議員の賛成で可決されたが、これはその多くが逮捕された共産党議員の票を棄権と見なすことで可能になった。

「全権委任法」は憲法に違反する法律の制定も可能にし、突撃隊などによる暴力の行使とともに「法の支配」を事実上空洞化させるものだったが、賛成した議員たちは左翼勢力に対する弾圧を歓迎するあまり、その危険性を過小評価していた。ヒトラーはさらに続く数カ月のうちに、各州政府・自治体への介入と支配、ナチ党以外の全政党の禁止や解散、その他の各種団体・組合の解体や再編成も遂行した。

国家・社会の各レベルでの画一化、いわゆる「強制的同質化」の過程がこれほど急速に進んだのは、国民の多くが過激で無法な暴力を伴うナチ運動のダイナミズムに幻惑、または萎縮させられて、積極的か消極的かを問わず、新体制にこぞって忠誠を誓うようになったためだった。

■「ヒトラーは民主的に選ばれた」に欠けている視点

小野寺拓也、田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波ブックレット)
小野寺拓也、田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波ブックレット)

以上の一連の過程を見ると、ヒトラーの権力掌握は民主主義の自己破壊を本質とするもので、民意を背景にそれを遂行したという意味では基本的に「民主的」と言うことができる。議会制民主主義の終焉を、ドイツ人の多数が望んでいたことは間違いない。

だがその一方で、56.1%の有権者がナチ党による一党独裁を望んではいなかったことも事実である。それが可能になったのは、憲法の制度上の脆弱性や物理的な暴力行使によってであった。政敵を暴力によって萎縮させ、弱体化させることで、ヴァイマール共和国の憲法秩序は完膚なきまでに破壊された。

「ヒトラーは民主的に選ばれた」という議論は、そうしたナチスの暴力性を覆い隠してしまうのである。

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小野寺 拓也(オノデラ・タクヤ)
東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授
1975年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。昭和女子大学人間文化学部専任講師を経て、現職。専門はドイツ現代史。著書に『野戦郵便から読み解く「ふつうのドイツ兵」第二次世界大戦末期におけるイデオロギーと「主体性」』(山川出版社)、訳書にウルリヒ・ヘルベルト『第三帝国 ある独裁の歴史』(KADOKAWA)などがある。

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田野 大輔(タノ・ダイスケ)
甲南大学文学部教授
1970年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。博士(文学)。大阪経済大学人間科学部准教授等を経て、現職。専門は歴史社会学、ドイツ現代史。著書に『ファシズムの教室 なぜ集団は暴走するのか』(大月書店)、『愛と欲望のナチズム』(講談社)、『魅惑する帝国 政治の美学化とナチズム』(名古屋大学出版会)などがある。

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(東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授 小野寺 拓也、甲南大学文学部教授 田野 大輔)

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