これは捨てがたい効用だ…五木寛之さんが「日本人はこれからもマスクを外さない」と考える理由【2023上半期BEST5】
プレジデントオンライン / 2023年8月22日 7時15分
※本稿は、五木寛之『うらやましいボケかた』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
■いちいち手洗いする習慣がまるでなかった
コロナの蔓延(まんえん)とともに、個人的な新しい習慣が身についてしまった。
たとえば手洗いである。ふつうは当り前のようになっているマナーだが、私にとっては革命的な習慣である。
私は子供の頃から、あまり手を洗うことがなかったのだ。戦時下に育った人間は、おおむね常識的な生活習慣が身についていないのである。
匍匐前進だの、防空壕掘りだのと手を汚す仕事に追われる日常だったのだ。いちいち食事前に手なんぞ洗ってはいられない少国民の日常だった。
そのかわり、三八式歩兵銃の磨き方は教練の時間に教わった。食糧不足の時代だったから、手づかみでものを食べるような暮らしだったのである。
子供の頃、私が住んでいたのは和洋折衷の簡素な一戸建て住宅だった。父の仕事の関係で、転勤するたびに官舎をかわることになる。
それでも一応、廊下の突き当りにトイレがあり、その脇にはきまって南天の植込みがあった。その横に、手洗い器というか、何というか忘れたのだが、ブリキの水洗器がぶらさがっている。手を押し当てると、水が出てくる簡単な仕掛けである。
■「どうして手を洗うの?」「汚いからよ」「どっちが?」
「オシッコのとき、ちゃんと手を洗ってる?」
と、母親が私にたずねたことがある。
「うん」と、嘘の返事をしながら、
「でも、どうして手を洗うの?」
「汚いからよ」
「どっちが?」
「どっちが、って?」
「わからない」
子供の私の疑問は、大事なオチンチンに触るから事前に手を洗うのか、それとも、オチンチンは汚いものだから後で手を洗うのか、ということだった。
そんな理屈を言っても変な子だと思われるだけだろうと、そのときは黙っていた。だが、その疑問はこの歳になっても私の中にわだかまっている。
どうやら、手を洗う、という事に意識下の反撥があるらしいのだ。
だから大人になっても、ほとんど手洗いということが身につかなかった。外から帰ってきたときも、食事の前も、ちゃんと手を洗ったことは、ほとんどなかったように思う。
■いまさら手洗いしたところでどうなる、とも思うが…
それには私なりの屁理屈もあった。
神経質に清潔を心掛けるよりも、雑菌とともに暮らすほうが免疫力がつくのではないか、という発想である。
かつて小学生たちがO(オー)157で集団食中毒となり騒がれた頃、名著、『免疫の意味論』の著者である多田富雄さんが、対談の席で、
「あれって、食前食後にきちんと手を洗うような習慣のある子に発症例が多かったんですよね」
と、首をかしげて呟いたことがあった。要するに幼い頃から雑多な菌にさらされて、多様な免疫力を身につけた子供のほうが強い場合もある、という感想である。
私はそのとき天啓を受けたような気がして、それ以来ずっと手洗いをさぼって生きてきたのだ。
それがコロナの流行とともに一変した。
六十年以上つづけてきた夜行性の生活から、朝型人間に急変したと同時に、なぜかしきりに手を洗うようになったのだ。
心中、手を洗うより、足を洗うほうが必要ではないのか、と考えることもある。いまさら手洗い、マスクを励行したところでどうなる、という自嘲めいた気持ちもある。
しかし、人間は常識にもとづいて生きるわけではない。人の行動は理屈では割り切れないものなのだ。
■コロナが去っても日本人はマスクを外さない
コロナが去ったら人はマスクを外すのだろうか。
そうとも思えない。
数年にわたるマスク生活に慣れた人間は、マスクを外すとき、パンツを脱ぐような気分をあじわうのではあるまいか。
〈マスクは顔の下着です〉
と、戦時中なら大政翼賛会のスローガンになっただろう。個人の自由を頑固に主張する外国とちがって、国民が一致団結して生きる列島なのである。
コロナが去ったあと、私の早寝早起きの習慣は、はたして持続可能だろうか。八十代にして身についた手洗いの習慣は、その後も続くのだろうか。
マスクには、また別な効用もある。実際にはどうかわからないけれども、ある種の匿名性があるところが有難い。
![五木寛之『うらやましいボケかた』(新潮新書)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/0/a/1200wm/img_0a12851ea57b7432e2f24c15685dc111187029.jpg)
「あんな老人が――」
などと不快そうな目で見られるのは、なにも書店でヌード写真集を眺めるときだけではない。この国では今でも〈年甲斐もなく――〉といった感性が幅をきかせているからである。
大きなマスクをして、顔半分を隠していると、一見、年齢不詳の感じがする。職業、年齢、階級などに関係なく、ある種の市民としての画一性がたもたれるような錯覚があるのだ。実際にはマスクをしていても、完全に無名性が保証されるわけではない。人は雰囲気で相手を識別できるものだからである。
しかし、それが錯覚であったとしても、マスクをすることで別な自分になったような感覚は、捨てがたい効用ではあるまいか。
さて、コロナが去ったあと、何が残るか興味はつきない。
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作家
1932年、福岡県生まれ。戦後、朝鮮半島から引き揚げる。早稲田大学文学部ロシア文学科中退。67年『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞を受賞。81年から龍谷大学で仏教史を学ぶ。主な著書に『青春の門』『百寺巡礼』『孤独のすすめ』、『うらやましいボケかた』(新潮新書)など。
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(作家 五木 寛之)
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