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NHK大河ではとても放送できない…宣教師に「獣より劣ったもの」と書かれた豊臣秀吉のおぞましき性欲

プレジデントオンライン / 2023年8月27日 19時15分

豊臣秀吉画像(写真=名古屋市秀吉清正記念館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

貧しい身分から出世し天下統一を果たした豊臣秀吉とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「人権の侵害および蹂躙を繰り返す残酷な男だった。自身の貧しい生まれへの強烈なコンプレックスが、そうした行動の原因だろう」という――。

■教科書では描かれない豊臣秀吉の裏の顔

手もとにある山川出版社の高校用教科書『詳説日本史』(2006年文部科学省検定済、2011年発行)を開き、豊臣秀吉についてどう書かれているかを確認すると、核になる説明は以下のとおりだった。

「秀吉は、信長の後継者としての道を歩みながらも、軍事征服のみにたよらず、1588(天正16)年京都に新築した聚楽第に後陽成天皇をむかえて歓待し、その機会に、諸大名に天皇と秀吉への忠誠を誓わせるなど伝統的支配権を巧みに利用して新しい統一国家をつくりあげた」

秀吉が平和な世の中を巧みに築いたかのようなこの説明は、まちがっているとはいえない。統一国家をつくるにあたり、秀吉が「軍事征服のみにたよら」なかったのはたしかである。ただ、「伝統的支配権を巧みに利用する」だけでなく、平和的な手段とは到底いえない、人権の侵害および蹂躙を繰り返したことも忘れてはならない。

現在放送中のNHK大河ではとうてい描けない秀吉にまつわるとんでもないエピソードは、直接交流があったイエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの著作『日本史』(松田毅一・川崎桃太訳)にも数々書かれている。以下、それをいくつか引用したい。

■暴力と弾圧にとって天下をとった

最初に総論的な人物像である。

「この人物(関白秀吉)がきわめて陰鬱(いんうつ)で下賤な家から身を起し、わずかの歳月のうちに突如日本人最高の名誉と栄誉を獲得したことは、途方もない異常事に外ならず、日本人すべてを大いに驚愕(きょうがく)させずにはおかなかった。彼が、身分、権勢、名誉および財産においてかつて家臣として奉仕した前任者(織田信長)を凌駕していることは事実が明白に物語るところである」

「ただしそれらは、ヨーロッパのカトリック王侯たちが我らに示すような公平で正当な手段によって獲得されたものではない。彼は極度に恐れられ、人々に文字どおり臣従されてはいるが、それは暴力と弾圧によるのである。彼は己れに服している日本の君侯らを、その出身地や領国から移動せしめ、自らの欲する諸国は横領し、その他、諸侯の意に大いに反することであったが、その所領を互いに交換せしめた」

臣従させては弾圧し、屈服させたら横領する。その繰り返しだったというのだ。別の箇所には、その容姿もふくめてこう書かれている。

■誰もが秀吉を恐れ、憎んでいた

「彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった。目がとび出ており、シナ人のように鬚が少なかった。(中略)彼は自らの権力、領地、財産が順調に増して行くにつれ、それとは比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えていった。

家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢(ごうまん)で、嫌われ者であり、彼に対して憎悪の念を抱かぬ者とてはいないほどであった。彼はいかなる助言も道理も受け付けようとはせず、万事をみずからの考えで決定し、誰一人、あえて彼の意に逆らうがごときことを一言として述べる者はいなかった」

「片手には六本の指」という記述だが、前田利家の回想録『国祖遺言』にも「太閤様は右之手おやゆひ一ツ多六御座候」(太閤さまは右手の指は、親指が1本多く6本あった)と記されているので、多指症だったのではないだろうか。

秀吉の「悪癖と意地悪さ」、「傲慢」さ、そして「きわめて陰鬱で下賤な家」の出身であることへのコンプレックスの反動が、もっとも醜悪なかたちで表れたのが、次に紹介する逸話だろう。

■親族の首を容赦なく斬る

天正15年(1587)、「一人の若者が、いずれも美々しく豪華な衣装をまとった二、三十名の身分の高い武士を従えて大坂の政庁に現れるという出来事」があり、その若者は「関白の実の兄弟と自称し、同人を知る多くの人がそれを確信していた」というのだが――。

「(秀吉は)自らの母大政所に対し、かの人物を息子として知っているかどうか、そして息子として認めるかどうかと問い質した。彼女はその男を息子として認知することを恥じたので、(中略)過酷にも彼の申し立てを否定し、人非人的に、そのような者を生んだ覚えはないと言い渡した。

その言葉をまだ言い終えるか終えないうちに、件の若者は従者ともども捕縛され、関白の面前で斬首され、それらの首は棒に刺され、都への街道筋に曝された。このように関白は己れの肉親者や血族の者すら己れに不都合とあれば許しはしなかったのである」

秀吉が貧しい生まれだったのはまちがいない。生母の大政所も、秀吉の父を亡くし、再婚相手にも先立たれたことが知られるが、それ以上の結婚歴があったという。

いわば隠し子が何人もいた可能性があり、それは秀吉にとっても大政所にとっても不都合な真実だったのだろう。

■人を人とも思わない残酷な行動

それから3、4カ月後の話として、こんな逸話も記されている。

「関白は、尾張の国に他に自分の姉妹がいて、貧しい農民であるらしいことを耳にした。そこで彼は己れの血統が賤しいことを打ち消そうとし、姉妹として認めそれ相応の待遇をするからと言い、当人が望みもせぬのに彼女を都へ召喚するように命じた。

その哀れな女は、使者の悪意と欺瞞(ぎまん)に気が付かず、天から良運と幸福が授けられたものと思いこみ、できるだけの準備をし、幾人かの身内の婦人たちに伴われて都に出向いた。しかるにその姉妹は、入京するやいなやただちに捕縛され、他の婦人たちもことごとく無惨にも斬首されてしまった」

秀吉は「人たらし」で、人心を巧みに掌握したと伝わるが、「人たらし」も他人を利用するための手段で、その実、人を人とも思わない残酷な男だったと思われる。その残忍さはかなりの部分、自身の生まれへのコンプレックスに起因しているのではないか。上記の逸話もそんなことを思わせる。

■300人いた女性の正体

この無惨な姉妹の話に続いて、『日本史』には次のような記述がある。これもまた、秀吉が人を人とも思わなかったことの証左になるだろう。

「聞くところによれば、関白は大坂城内だけで、日本全国の諸侯貴顕の娘たちを三百名も側室としてかかえており、それ以外に第一夫人とみとめられる人がいる。彼女はきわめて思慮深く稀有の素質を備えており、他の婦人たちはこの第一夫人に従い、関白はあまりにも大勢の女性をかかえているので彼女と生活を営まないにしても、彼女を奥方と認めている」
大阪城
写真=iStock.com/fotoVoyager
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/fotoVoyager

「三百名も側室としてかかえ」といわれても、にわかには信じがたく、筆が滑ったかと想像してもみるが、それにしてはフロイスは、同様の表現を繰り返している。

「羽柴(秀吉)は大坂城に夥しい数の婦女子をかかえていた。彼女たちのうち約五十名は(織田)信長とその息子なる貴公子たちがかつて有していた人たちで、いずれも武将や貴人たちの娘であり、大いに寵愛され、尊敬されてもいたが、これらの婦人たちは誰も皆、羽柴(秀吉)夫人(おね、北政所)の優位を認めていた」

■史料に残された「極悪の欲情」の中身

「齢すでに五十を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪いとったかに思われた。この極悪の欲情は、彼においては止まるところを知らず、全身を支配していた。

彼は政庁内に大身たちの若い娘たちを三百名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また別の多数の娘たちを置いていた。彼がそうしたすべての諸国を訪れる際に、主な目的の一つとしたのは見目麗しい乙女を探し出すことであった」

「彼の権力は絶大だったから、その意に逆らうものとてはなく、彼は、国王や君侯、貴族、平民の娘をば、なんら恥じることも恐れることもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で収奪した」

秀吉について記すフロイスの筆致は厳しく、天正15年(1587)にバテレン追放令を発した秀吉への憎悪が反映されていると思われる。

しかし、そもそも『日本史』は、イエズス会の後進が日本で布教する際の資料であり、事実無根を書き連ねてまで秀吉をおとしめる必要がない。同様の記述が繰り返されている以上、おおむね事実なのではないだろうか。

■「獣よりも劣ったもの」

極めつきは、イタリア人宣教師のオルガンティーノが、西暦1588年(天正16)3月3日、小豆島でしたためた書状の引用である。

「かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣ったものとなり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し、人々をば追放に処して、その俸禄所領を没収する有様で、他人の俸禄を横領するのに道理もなにもないのです」

「彼の淫奔な醜行は、いたるところにあるその宮殿を、挙げて一大遊郭に化せしめたほどでありました。美貌の娘や若い婦人で、彼の手から免れ得る者はいませんでした。

すでに彼はその主君信長の二人の娘を妾としており、別の一人は、彼が殺害した越前国王柴田(勝家)殿の息子の妻で、他は五カ国の君主で、彼が現下もっとも恐れている、最大の敵の一人(徳川)家康の息子の妻であります。

彼は信長の息子御本所(織田信雄)殿の娘も同様の目的で囲い、同じく信長が有していたすべての見目よい妾たち、さらに信長の後継者で、信長とともに殺された嗣子城之介殿(織田信忠)の妻も己れのものとしました」

伝 淀殿画像
伝 淀殿画像(写真=奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■決して庶民派の人間ではない

「また、重立った貴人たちの大勢の娘たちを養女として召し上げ、彼女らが十二歳になると己れの情婦としました。これら諸大身の娘たちで、器量がよいという評判が彼の耳に達しながら、ただちに連行されなかった者は一人もありませんでした」

「結局は手の施しようもなく、本件は放縦をきわめ、皆はもはや拒否せぬばかりか喜んで娘を提供し、かくて身の安全を計るようにまでなりました」

むき出しの欲情と、身分が高い女性を肉体的に征服することで、相対的に自分の価値を高めようという倒錯した欲望。女性への人権侵害のきわみで、オルガンティーノの「獣より劣ったもの」という表現が、少しも大げさに感じられない。

貧しい階層の出身で人たらしだった秀吉を「庶民派」と理解している人は、考え直したほうがいい。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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