なぜ一流アスリートは絶望的な状況でもあきらめないのか…「三笘の1ミリ」を脳科学的に解説する
プレジデントオンライン / 2023年8月29日 10時15分
※本稿は、茂木健一郎『運動脳の鍛え方』(リベラル社)の一部を再編集したものです。
■脳を鍛えるにはどうすればいいのか
運動と学力(特に記憶力)について、最新の脳科学のエビデンスを交えて紹介しましたが、それ以上に皆さんに知っていただきたい興味深いエビデンスがあります。それは、運動によって「前頭葉」が活性化するということです。
前頭葉について説明する前に、まずは脳の仕組みについて簡単に説明しておきましょう。脳というのは、大きく分けると「大脳」「小脳」「脳幹」という3つの部位で構成されています。
脳全体のおよそ80%を占めているのが大脳です。この大脳には、主に思考や行動を司る「前頭葉」、知覚や感覚を司る「頭頂葉」、視覚を司る「後頭葉」、聴覚や記憶を司る「側頭葉」の4つの領域があり、このうちの前頭葉の大部分を占めるのが「前頭前野」という部位です。
私たち人間と動物の脳とを比べたとき、最も異なる発達部位こそ、この前頭葉なのです。動物の中で最も前頭葉が大きいとされるチンパンジーでも、人間の前頭葉と比較すれば3分の1程度だといわれています。
この前頭葉は、別名「脳の司令塔」とも呼ばれており、考える、判断する、選択する、アイデアがひらめく、集中する、感情をコントロールするなど、私たちが社会で生き抜いていくための重要な働きを担っています。逆をいえば、前頭葉の活動が衰えると物忘れが増えたり、感情的になりすぎたり、やる気がなくなったりしてしまいます。
では、どうすればこの前頭葉を活性化できるのか。勘のいい方ならもうおわかりですね。そうです。運動によって前頭葉を鍛えることができるのです。
■ランニングで前頭葉が活性化する
ここで一つ、運動によって前頭葉を鍛えることができるというエビデンスを紹介しましょう。
筑波大学のヒューマン・ハイ・パフォーマンス先端研究センターの征矢英昭教授らの研究で、ランニングによって前頭葉の前頭前野が広範囲に活性化することが明らかになり、学術誌にオンライン発表されました。
発表された研究によると、中強度(ややきつめ)のランニングをおこなうことで、脳の前頭葉の前頭前野が広い範囲で活性化することが確認されたのです。
この研究には大学生・大学院生26名が参加して、10分間のランニングをしたのち、15分間の安静を取ったあと、脳の局所的な血流の変化を捉える「機能的近赤外分光分析法(FNIRS)」を用いていて検証したところ、左右両側の前頭前野が広範囲にわたって活性化したのです。
![【図表1】ランニングによる脳の活性部位](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/c/4/1200wm/img_c4e26d55ae342dff641cfdaef458c24f375806.jpg)
それが図表1で、ランニング後の課題回答時に有意な活動が見られた脳の部位が0%~15%の濃度で表現されています。
■成功を収めるために最も重要なこと
私たちが成功を収めるために何が必要なのか。努力? それとも才能?
これは、ビジネスやスポーツの世界で長年にわたり議論されているテーマです。この議論に、一つの風穴をあけた人物がいます。アメリカの心理学者であるアンジェラ・リー・ダックワース氏が、世界中の叡智が集結するカンファレンス「TED」で新たな研究成果を発表(2013年)したことは記憶に新しいのではないでしょうか。
それは、「グリット」という考え方です。グリットとは、何かの目的を達成するために継続的に粘り強く努力することによって、物事を最後までやり抜く力のこと。
冒頭の問いに対して、ダックワース氏は自身の研究結果をもとに、誰もが生まれながらの素晴らしい才能を持っているわけではないし、豊かな才能や知能を持ったすべての人が成功を収めているわけでもないと考えました。
成功を収めるために最も重要なのは、目標の実現に向けた継続的な努力、つまりやり抜く力だと提唱したのです。これを裏付けるため、一見すれば才能の持ち主のように見えて、実はこのやり抜く力で成功を収めた2人のアスリートの事例を紹介したいと思います。
■有森裕子がもっていたすごい力
まず1人目は、元マラソン選手の有森裕子さん。有森さんといえば、バルセロナ、アトランタオリンピックと、2大会連続でメダルを獲得したマラソン界の成功者です。そんな有森さんに私がお話を伺って驚いたのは、高校に入学して陸上部に入部を希望したものの、陸上部の監督はランナーとしては素人同然だった有森さんの入部すら認めてくれなかったというのです。
ただ、それでも諦められなかった有森さんは、監督に入部が許されるまで粘り強くアピールし、1カ月後にようやく入部が許可されたといいます。ただ、高校では特段目立った記録を出すことができず、大学に進んでからも変わらず、大学を卒業してからの進路も、実業団であるリクルートになかば押し掛けで自分から連絡を取り続けたそうです。
その熱意を小出義雄監督に認められ、最初は「マネージャー兼選手」という形でやっと陸上部に入部でき、そこから小出監督の指導によって開花したというわけです。
■やり抜く力と前頭葉の意外な関係
そして2人目が、元プロテニス選手の松岡修造さん。現役時代は世界のテニス界で目覚ましい活躍を披露し、当時の日本人最高ランクである46位まで到達し、4大大会でも輝かしい成績を残しました。
テレビでは熱血キャラでいつも前向きなイメージの松岡さんですが、そんな松岡さんもまた、テニスを始めたジュニアの頃は自分の恵まれない体格と身体能力に相当悩んだといいます。でも、才能のなさを指摘されながらも、松岡さんは諦めることなくテニスクラブで指導を受け、貪欲にテニスを学びました。
さらに、松岡さんは“幼稚園から慶應一筋”という環境で育ってきた甘さが自分の成長を阻害していると考え、自分自身を鍛え直すため、自ら志願して九州のテニス強豪校に転校したそうです。そこで自分に甘えることなく、粘り強く努力をし続けた結果、徐々に頭角を現していったというのです。
このように、有森さんや松岡さんなどの名選手でさえも、生まれ持った才能を頼りにして成功を勝ち取ったわけではないのです。自分の設定したゴールに向かい、何があっても諦めず徹底的に戦い続ける。
この資質こそがやり抜く力ということなのですが、なぜこの2人のアスリートの事例を紹介したのかといえば、このやり抜く力というのは前頭葉の発達と相関関係があることが脳科学の研究でわかっているからです。
![脳のMRI画像](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/5/b/1200wm/img_5b6a7a57065e8bc7b3e06632a4ff1d18403823.jpg)
■最新研究でわかった脳の秘密
東北大学の細田千尋准教授らによる研究によれば、これまで正確な測定ができなかった「やり抜く力」の科学的定量化に成功しました。人工知能が人間の脳を分析した結果、人間では認識不可能だったやり抜く力の強さにかかわる前頭葉の構造を発見し、『NatureResearch/Communications Biology』(2020年4月)に掲載されたのです。
細田准教授らは、研究用に開発された「持続性測定器」を使って脳をスキャンすることで、対象とする人間にやり抜く力があるかどうかを80~90%の精度で判別できるようになったといいます。この数値は、従来の標準的な面接評定の信頼性を大きく上回るそうです。
まず、被験者の全員の脳構造をMRIで詳細に記録し、続いて被験者に「ハノイの塔」と呼ばれる複雑なパズルを1時間にわたり解かせた結果、参加者のうち52%は達成し、48%は途中で諦めたといいます。諦めた理由で最も多かったものが「予想より難しい」であり、続いて「疲れた」でした。
次に細田准教授らは、達成者と非達成者の間で脳構造に違いがないかを機械学習を用いて調査した結果、達成者の左脳の前頭前野の灰白質の容積と白質の神経線維の方向性の強さが、非達成者に比べて優位に大きいことがわかったのです(図表2を参照)。
![【図表2】達成者と非達成者の間で脳構造に違いがある](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/7/7/1200wm/img_77db93bfb10161382fa18b7a11a9a5d1359658.jpg)
■「三笘の1ミリ」は前頭葉が起こした奇跡
また、図表3に示す部分(★印)において、達成者は非達成者に比べて神経接続が多く観察されました。得られた結果をもとに再度、参加者の脳構造から達成の可否を推測してみると、精度は90%にも及びました。
![【図表3】達成者の左脳の前頭前野は神経接続が多い](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/1/f/1200wm/img_1ff05651d0f1873a73f517df920a311b264203.jpg)
![茂木健一郎『運動脳の鍛え方』(リベラル社)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/8/3/1200wm/img_837b056f8d871d4f5b3d8709f9fe132f253557.jpg)
こうした細田准教授らの研究結果から、何事もすぐに諦めずにやり抜く力と前頭葉の構造との相関関係が理解いただけたのではないでしょうか。そして、そんな前頭葉は運動によって鍛えられると述べましたが、有森さんや松岡さんにしても、マラソンやテニスといった運動によって前頭葉を鍛え上げたことでやり抜く力を身につけたと考えればつじつまが合いますよね。
さらにいえば、記憶に新しいサッカーのワールドカップ・カタール大会で、日本がスペインに2-1で逆転勝ちして決勝トーナメント進出を決めた試合、決勝点をアシストした三笘薫選手のクロスがゴールラインを割っているかどうかがVAR判定になり、わずか1ミリ残っていたことでゴールが認められました。「三笘の1ミリ」もまた、前頭葉が起こした奇跡だったと私は思うのです。
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脳科学者
1962年生まれ。東京大学理学部、法学部卒業後、同大学院理学系研究科修了。クオリア(感覚の持つ質感)を研究テーマとする。『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。近著に『脳のコンディションの整え方』(ぱる出版)など。
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(脳科学者 茂木 健一郎)
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