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母と妹から「死ね、出ていけ、ダメなヤツ」と罵倒され…"不倫相手の娘"が壮絶虐待された背景にロクデナシ継父

プレジデントオンライン / 2023年8月26日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/seb_ra

現在50代の女性は震えながら幼少期を過ごした。継父は働かず、たまに家に帰ると母親に無心。毎度、激しいいさかいになった。継父はその後、空き巣で捕まって服役した。また、実母と3歳下の異父妹は女性に対して、「死ね、出ていけ」と暴言を浴びせた。高卒後、短大に入学した女性は中退して、19歳の秋、東京行きの夜行バスに飛び乗り、男性のアパートに転がり込んだ――。
ある家庭では、ひきこもりの子供を「いない存在」として扱う。ある家庭では、夫の暴力支配が近所に知られないように、家族全員がひた隠しにする。限られた人間しか出入りしない「家庭」という密室では、しばしばタブーが生まれ、誰にも触れられないまま長い年月が過ぎるケースも少なくない。そんな「家庭のタブー」はなぜ生じるのか。どんな家庭にタブーができるのか。具体事例からその成り立ちを探り、発生を防ぐ方法や生じたタブーを破るすべを模索したい。

■不倫の子

現在、アメリカ在住の幕内絹子さん(仮名・50代・既婚)の母親は、国立大学病院の事務職をしていた20代の時に、単身赴任で同病院に来ていた既婚男性と知り合い、不倫関係に。何度かの流産と中絶を経て、26歳の時に幕内さんを出産した。

男性には妻と2人の子どもがおり、妻は男性との離婚に頑として応じなかった。やがて男性は母親との不倫関係を清算した。母親はその後、5歳年上の大工の男性と見合いをし、結婚。約1年後に妹が生まれた。

「妹が生まれる前は、私はほとんど母方の祖母に預けられていて、母の一番上の兄のお嫁さんが世話をしてくれていたそうです。継父は、妹はかわいがっていましたが、私はしょっちゅう『アホ!』と言われて虐げられていました」

幕内さんが物心ついたとき、継父はろくに働かず、外に愛人を作っては遊び歩き、ほとんど家に帰ってこなかった。そのため母親は、子どもたちを実家に預け、保険の外交員として働いていた。継父はたまに帰ってくると、母親にお金の無心をし、その度に母親とケンカをしていた。夕飯が並べられたちゃぶ台を怒鳴り声を上げながらひっくり返し、茶碗や皿を壁や母親に向かって投げつける。

幸い幕内さんに対しては、身体的な暴力はなかったが、継父と母親の怒号や叫び声、激しく物が壊れる音に耳を塞ぎながら、幼い幕内さんは、別の部屋に避難し、震えながら嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。

幕内さんが5〜6歳の頃には、母と妹と3人で出かけた際、電車に妹だけ連れて乗り込んで、幕内さんは駅のホームに置き去りにされたことがあるという。

「しばらくすると母は戻ってきて、私より、私を心配してついていてくれた駅員さんにだけ謝って体裁を繕っていました」

従兄弟家族とともに旅行に連れて行ってもらったこともあるが、そのときも途中の駅で置き去りにされ、幕内さんは4時間ほどそのまま立ち尽くしていた。遊園地に連れて行ってもらったときは、園内で1人ぼっちにされた。

幕内さんを何度も置き去りにした母親は、どんな心情だったのだろう。あわよくば捨ててしまいたかったのだろうか。

「忘れられないのは、私がまだ小学校の低学年の頃、珍しく家に帰ってきた継父が、私の目の前で母にまたがって、『おい、いいじゃないか』と言いながら事を始め出したこと。そして、私が小3の夏に、継父は空き巣に入って捕まり、2年ほど刑務所に入所していたことです」

継父が刑務所に入ると、母親は自分の実家近くに引っ越した。

■犯罪者の家族

2年後、小5になった幕内さんは、ある晩、母親から、「もうすぐ継父が帰ってきて、一緒に暮らす」「彼は幕内さんの本当の父親ではない」ということを聞かされた。そのとき妹は小2。妹はその話を、布団の中で聞いていた。

やがて継父が出所し、再び一緒に暮らし始める。まともな暮らしができたのは1カ月ほどで、その後はまた荒れた生活に逆戻りだった。母親にお金の無心をしては、ギャンブルに注ぎ込み、母親がお金を渡すのを拒むと激しいケンカになる。

「夜に一度、私が一人外に出て、『誰か助けてー! 殺されるー!』と大声を上げながら近所を走り、助けを求めたことがありましたが、誰も家から出てきてくれませんでした。私は祖父母とそれほど親しくはなく、頼ろうとは思いませんでした」

しばらくすると母親は、継父が帰ってきても家に入れないことを決意したようだ。母親は妹だけ自分の実家に預け、幕内さんはそのまま家に残す。家中の雨戸を閉め、窓も閉め切り、継父の帰宅を待った。

8月の熱帯夜だった。貧しい幕内さんの家にエアコンはなかった。うだるような暑さの中、深夜にドアや雨戸をドンドン叩く音と、継父が「入れろ! 鍵を開けろ!」と怒鳴る声が聞こえる。暑さで幕内さんは眠れずにいた。

やがて、締め出されていら立った継父は、外から「おい! マッチをよこせ!」と怒鳴った。

思わず母親が、「マッチで何をするの?」とたずねると、「マッチで火をつけてやる!」と叫ぶ。

もちろん母親がマッチを渡すはずも、鍵を開けるはずもなかったが、部屋の奥の方で幕内さんは震え上がった。

マッチで火をつける
写真=iStock.com/Sucharas wongpeth
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Sucharas wongpeth

激しく怒鳴ったり、ドアや雨戸を叩いたりした継父は数時間後には諦めたのか、静かになった。締め切った部屋の中で、汗だくになりながらも、いつしか眠っていた幕内さんは、翌朝、朝食を食べようと炊飯器を開けると、中のご飯が一晩で腐って臭っていることに気付いた。

「なぜ私も、妹と一緒に実家に預けてくれなかったのか……。大人になってから母に聞きましたが、『あの子(妹)はまだ小さかったから』という答えでした。それを聞いて、『8歳は小さくて、11歳は大丈夫なのか?』『どうして私だけ、こんな怖い経験をさせられなければいけなかったのか?』と思いましたが、聞いても無駄だと思い、聞きませんでした」

幕内さんの小学校卒業間近、ついに母親は継父と離婚。中学校には、母親の苗字で通い始めた。

「継父の苗字が珍しい苗字だったので、離婚は、“犯罪者の家族”ということを悟られないためでもありました……」

■母親と妹

幕内さんの実の父親は、養育費を入れてくれていたようだ。だからだろうか。母子家庭でゆとりのない幕内家だったが、幕内さんが中3になると、高校受験のために塾に通わせてもらうことができた。

「母からは、事あるごとに、『あんたは何をさせてもダメな子だ』『ホントに情けない子だ』『ネクラだ』『笑顔がない』『色が黒い』『消極的だ』などとけなされてきたので、私は体育はできましたが、ほかはそれなりの成績で、なるべく目立たないようにしていました。でも塾に通わせてもらうようになって、『自分はそれほどひどくはないのかも?』と疑問をおぼえるようになりました」

母親に叱られ、机の下で泣いている子供
写真=iStock.com/Thai Liang Lim
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Thai Liang Lim

幕内さんは、私立高校の特待生枠で合格したが、学費が全額無償になるわけではなかったため、結局、経済的な理由で公立高校に進学。

高校に入ると幕内さんは、喫茶店でアルバイトを始め、家にいる時間が少なくなったことで、かなり気が楽になった。

しかしそんなある夜、中1の妹が、突如「こいつにはご飯を食べさせないで!」と母親に言った。すると母親もニヤニヤ笑って、幕内さんには夕ご飯を用意しなくなった。仕方がないので幕内さんは、自分で稼いだアルバイト代でカップラーメンなどを買い、食いつないだ。

高1の夏。当時住んでいたアパートにはお風呂がなかったため、母親に銭湯に行くお金をくれるように頼むと、母親は妹と2人でいやらしく笑いながら、「男と寝てるんだろ?」「だから毎日お風呂に入りたいって言うんだ」と言った。

「16〜17歳の娘が真夏に毎日入浴したいのは当然のことですよね? それでなぜ、『男と寝てるんだろ?』という発想になるのか、私にはさっぱりわかりませんでした」

高校在学中は、母親に加え、妹からも、毎日のように、「死ね」「何をさせてもダメだ」「家を出て行け」などと言われ続けた。

「私の実父は、国立病院の事務長としか聞いていませんが、当時彼の息子は医大に行っていたそうなので、捨てられた立場の母は、実父を見返したかったんだと思います。見返す道具として私が使えなかったから、母は私を“役立たず”と思っていたのかもしれません」

妹とはよくケンカになった。「不倫相手の娘!」と言われると、幕内さんも負けじと、「犯罪者の娘!」と言い返していた。

「妹が私に嫌がらせをするのは、自分が犯罪者の娘で、私は違うっていうのがストレスだったからじゃないでしょうか。聞いたことがないので想像でしかありませんが……」

幕内さんは家庭内のことを、誰にも相談したことがなかった。そもそも、「相談するという発想がなかった」という。

やがて高校を卒業すると、幕内さんは短大に入学。この頃、母親と妹からの「出ていけ」「まだ家にいるのか?」攻撃が一層激しくなる。

それならばと幕内さんは、短大を辞め、週7日、いくつかのアルバイトを掛け持ちする生活を始めた。やがて音楽が好きだったこともあり、アルバイト先で知り合ったバンドをしている男性と意気投合。19歳の秋のある晩、東京行きの夜行バスに飛び乗り、上京すると、その男性のアパートに転がり込んだ。

■アメリカ留学

母親と妹は、幕内さんが家出をしても、少しも気に留めていなかったようだ。家出をしてから約2カ月後に家に電話をしたところ、「1カ月くらい気付かなかった。郵便物の転送先から東京に行ったんだと知った」と母親は平然と言った。

音楽が好きだった幕内さんは、上京後、転がり込んだ先の男性の影響もあり、ミュージシャンの友人知人が多くできた。

約1年アルバイトをして稼ぎ、その後、靴店に就職すると、自分でアパートを借りて暮らし始める。

「当時の友達はメタルかハードロックをやっている人ばかりで、当時のロック界で有名な人と会う機会も少なくありませんでした。一緒に飲む機会も多く、飲み会で出会って友達になったりして、楽しく遊んで暮らしていました」

23歳くらいの頃、インディーズで活動していたバンドのメンバーと飲み会で知り合い、そのうちの一人と交際に発展。その1年後、やはり音楽つながりで、飲み会で知り合ったアメリカ人の男性に誘われ、オレゴン州に留学することに。交際相手の男性に相談すると、彼は快く送り出してくれた。同州では、その男性の友人である台湾人の女性から部屋を借りた。

約1年が過ぎ、幕内さんは帰国。遠距離恋愛を継続していたインディーズバンドの彼の元に帰った。英語での生活が楽しくなってきていた幕内さんは、内心、心残りだった。そこで彼に、意を決して、「あともう1年、語学留学したいんだけど……」と打ち明けると、受け入れてくれたため、同州に戻る。

それからまた1年後、「もう少しアメリカにいたい」と思った幕内さんは、彼に手紙を送ったあと電話で話し合い、彼とは別れることになった。(以下、後編へ続く)

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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