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かつて「カタツムリ」は貴重な食糧だった…研究者が体を張ってココナツミルク煮にして食べた結果

プレジデントオンライン / 2023年9月1日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Olena Kurashova

沖縄県などに生息する「アフリカマイマイ」は、食用目的で持ち込まれた外来種だ。どのような味がするのか。沖縄大学・盛口満教授の著書『マイマイは美味いのか』(岩波書店)より、一部を紹介しよう――。

■歴史から見るカタツムリ食

本書に書いてきたことを、ここで振り返ってみたい。

カタツムリは、命名、子どもの遊び、食、害、呪術との関わりなど、多様な人々との関係性がある生き物である。本書では、特にその関係史を、琉球列島の島々に追った。

自然史の方面から見れば、移動力の小さなカタツムリは地域ごとに種類が異なっている。例えば多数の島からなる琉球列島においては、島ごとにといっていいほど、多様な種類のカタツムリが見られるわけである。これはむろん、海による地理的な隔離がその要因になっている。また、地質と関わり、見られる個体数にも大きな違いがある。

一方、文化史の方面、つまり、カタツムリと人との関わりを見た場合、例えばカタツムリ食の分布は、沖縄島以南(カタツムリ食について聞き取れる)と与論島以北(カタツムリ食について聞き取れない)で異なる。この断絶は地理的な隔離のせいではなく、歴史的な出来事によるものだろうと考えられる。

■カタツムリは食用でもあり害虫でもあった

地理的な要因と、歴史的な要因が重なり合う形で、琉球列島のカタツムリと人との関わりは多様な様相を見せる。黒島において、カタツムリには害虫と食用という二重性があると、人々にとらえられてきた。カタツムリの食利用は代替可能であったため、時代とともに急速に忘れ去られる運命にもある。害虫としてのカタツムリはまた、駆除という場面において、人間の居住世界と異世界という二重の世界に存在するものと考えられていたという側面がある。

このようなカタツムリの多重性の典型例をアフリカマイマイに見ることができる。アフリカマイマイは、時代によって「換金性のある飼育動物」「重要な食糧源」「害虫」「抽象性を伴う嫌われ者」「駆除目的として導入された移入生物による環境改変の要因」と、さまざまに姿を変えてきた。すなわち、アフリカマイマイのこれらの姿は、その時代の人々の姿の投影ともいえる。

■海洋島の大東諸島のカタツムリは個性的

琉球列島は地理的に見れば、日本本土の南端部に位置する九州の沖合から、台湾にかけて連なる島々である。しかし、カタツムリと人との関係史をひもといていくと、琉球列島は日本の辺境としての位置づけには収まらない。むろん、隣接する地域とのつながりはありつつも、その地に固有の自然と文化の存在が、強く意識される地域だということがわかる。以上のことを明らかにするための、より具体的、個別的な事例として、大東諸島と、与論島について、章をあらためて紹介した。

大東諸島は、海洋島という、主だった琉球列島の島々とは異なる地理的条件にある。そのため、島に見られるカタツムリは際立って個性的である。また、大東諸島は、その地理的条件ゆえに長い間無人島であった。その大東諸島に人々が移住してのち、島の自然は大きな改変を受けることになる。それは、一般にはあまり注目されることのないカタツムリにおいて、より顕著な現象となって表れている。

与論島は、生物多様性という面から見た場合、高島に比べれば限られた種類数の生物相しか見られない低島に区分される。しかし、往時の人々は、その限られた自然資源を持続的に利用してきた歴史がある。

地球資源の有限性が強く意識されるようになった現在、過去における低島の自然利用の実態、すなわち生物文化多様性の解明は、今の私たちの自然との関わり方を見つめ直し、今後の自然との関わり方を考える上でのヒントになるのではないかと考える。とはいえ、与論島の自然や文化は、「だれか」や「なにか」の「ため」に存在するわけではない。

■どんなものごとにも多重性がある

どこに住んでいようと、そこはだれかにとっての辺境ではありえない。いや、たとえ辺境であると位置づけられたとしても、それは同時に、私たちにとっては中心である。ものごとには、そのような二重性があることを絶えず意識する必要があるように思う。

第二次世界大戦において、沖縄は日本本土の防波堤として位置づけられ、激烈な地上戦が繰り広げられるとともに、多くの県民が犠牲になった。ものごとを一義的に見たときに、どこかでこぼれ落ち、犠牲になるものが生じる。

例えば、フォロワー数という計測可能な数値が発言内容の有効性に直結してしまうような風潮は、ものごとの単純化と、それによる序列化が、より進行していく現代社会を象徴している。そのような中、時に立ち止まり、どんなものごとにも多重の意味があるということに気づくことの重要性を、カタツムリと人との関わりから見てとれる。

タイのパタヤ(チョンブリー県)近くで撮影されたアフリカマイマイ
タイのパタヤ(チョンブリー県)近くで撮影されたアフリカマイマイ(写真=Ahoerstemeier/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons)

■毒を持つソテツも極限状態では「恩人」にもなる

島々をめぐって、人々の話を聞く。島々をめぐって、石灰岩の割れ目から、化石のカタツムリをさぐりだす。そのようなことを交互に続けてきた。そうしたアプローチで見えてきたことがある。

島々をめぐり、人々と自然の関わりの記憶を記録するという作業は、本文中に登場した当山昌直さんや渡久地健さんのほかに、山口県立大学名誉教授の安渓遊地さんらとの共同研究の中で行ってきた。その成果の一つとして、2012年に、名護市にある名桜大学においてソテツサミットなる催しが開催された。

沖縄・奄美では、「ソテツ地獄」なる言葉を耳にすることがあるということを、先に紹介した。しかし、実際に島の方々の話を聞いて回った私たちは、「ソテツ地獄ではない。ソテツは恩人だ」という声に出会うことになる。貧困や飢餓という極限状態にあったときも、ソテツがあったからこそ生きながらえることができたのだと。それには、毒のあるソテツを食べるためのさまざまな知恵が伴っていたのだと。

その「ソテツは恩人」という言葉に出会い、ソテツに対しての一般のイメージを転換させるべく開催が試みられたのが、ソテツサミットだった。そして、このソテツサミットの開催をきっかけにして、『ソテツをみなおす 奄美・沖縄の蘇鉄文化誌』という本も出版されることとなった。

ソテツ
写真=iStock.com/kendoNice
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kendoNice

■生物文化多様性をさぐる「理科系のミンゾク学」

さまざまなことどもには多重の意味が伴い、それを明らかにするためには複合的な視点が必要とされる。

『ソテツをみなおす』の「あとがき」の中に、執筆者一同によって、この本に書かれた内容は「理科系のミンゾク学(略してリカミン)」という立ち位置で発信を行いたいという宣言がなされている。「理科系のミンゾク学」とは、生物多様性と文化多様性のつながりをさぐる試み、すなわち生物文化多様性をさぐるための試みだ。

境界線にたたずみ、その向こうの世界に目を凝らす。「理科系のミンゾク学」という立ち位置は、「あわい」の世界の学問であると、私には思える。

■殻長8センチの巨大カタツムリを食べてみる

ここまでカタツムリと人との関わりを追いかけてきて、ようやくアフリカマイマイを食べてみようと思い立つ。それまでも、ちらりとそうした考えが浮かんだことはあったのだが、なかなか実際には手が出せなかった。

大学の理科室の裏につくっている、狭い畑に足を向ける。そもそもアフリカマイマイは衛生的とはいえないが、調理をするのなら、せめて畑の周りにいるものにしようと思ったのだ。案の定、あっさりアフリカマイマイが見つかる。殻長8センチとほどほどの大きさだ。

まずは、下処理。使い捨てのビニール手袋をはめた手で殻をつかみ、鍋に入れゆでる。湯が沸くにつれ、アフリカマイマイの身が縮まっていく。十分に加熱して寄生虫に感染する危険を避けたい。しばらくゆでると、湯はやや茶色がかる。

そろそろいいだろうと、お湯を捨て、ゆだったアフリカマイマイを水に入れて冷やした。冷えたところで、アフリカマイマイの足裏にピンセットを突き刺して殻から身を抜く。ずるずると、簡単に黒い色をした内臓が引き出される(図版1)。ピンセットを使って、足から内臓部をちぎり、捨てる。残った足を、鍋の水を替え、またゆでることにする。

図版1
図版1(『マイマイは美味いのか』より)

■うまいとは言えないが、まずくもない

ここからは調理だ。ピンセットを箸に持ち替える。とにかく、足を念入りにゆでる。足はさらに縮んでしまう。まあまあの大きさのアフリカマイマイだったので、1匹あれば食べるのに十分だと思ったのだけれど、殻や内臓を取り除き、さらにゆでて縮んだ足だけになると、あまり食べるところがないかも、と心配になってしまう。

足の表面にはぬめりがある。箸で足を取り出し、塩を入れたカップに入れて少し揉み、水洗いをしてぬめりを取る。まな板の上に乗せる気がしなかったので、使い捨てができるように紙皿の上にゆであがった足を乗せ、包丁でスライスする。可食分として残ったものの重さをはかったら、わずか2.5グラムだった。

スライスした足の見た目は、干し椎茸や干しナマコを戻してスライスしたような感じだ。さて、仕上げである。ここで近所のスーパーに行き、ココナツミルクの缶詰を買ってきた。アフリカマイマイの調理をするなら、横井庄一にならい、ココナツミルク煮にすると決めていたからだ。ココナツミルク少々に水、そして塩をほんの少し入れて加熱する。足のスライスは、さらに縮む。

盛口満『マイマイは美味いのか』(岩波書店)
盛口満『マイマイは美味いのか』(岩波書店)

汁が煮詰まったところで火を止める。箸でつまんで口へ。まったく抵抗感がなかったといえば嘘になる。味はココナツミルクの味。つまり、足自体には味を感じない。薄くスライスしたこともあり、歯ごたえはあるが、ゴムほどひどくはない。ちゃんとかみ切れる。

見た目もそうだが、干しナマコを戻して調理したものを連想させる(ナマコよりは固い)。おいしいとはいえないが、ひどくまずいわけでもない。ただし、1食分のおかずにするには、何匹のアフリカマイマイを調理しなければならないだろうかと思う。2切れめを口にしたところで、残りのものは土に埋めた。

アフリカマイマイをおいしかったと語るうとぅすい(注)の方がいる。それは、そう感じざるを得ない状況があっての味の記憶だ。あらためて、そのことの意味を思う。

(注)お年寄りの意。

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盛口 満(もりぐち・みつる)
沖縄大学教授
1962年千葉県館山市生まれ。千葉大学生物学科卒。自由の森学園中高等学校理科教師を経て、2000年に沖縄へ移住。以後、珊瑚舎スコーレの活動にかかわる。2007年からは沖縄大学人文学部こども文化学科の教員に。2019年より沖縄大学学長に就任。最近の著書に『生きものとつながる石ころ探検』(少年写真新聞社)、『ゲッチョ先生のトンデモ昆虫記』(ポプラ社)、『めんそーれ!化学』(岩波ジュニア新書)、『琉球列島の里山誌』(東京大学出版会)などがある。

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(沖縄大学教授 盛口 満)

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