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44歳で無理やり離縁させられ家康と再婚するも、4年後に死去…「人権無視」の兄・秀吉に翻弄された旭姫の悲劇

プレジデントオンライン / 2023年9月3日 13時15分

大阪市・大阪城豊国神社の豊臣秀吉像 - 写真=iStock.com/coward_lion

小牧長久手の戦いの後、秀吉は家康に臣下の礼を取らせるため、妹の旭を家康と再婚させた。作家、歴史研究家の濱田浩一郎さんは「当時、既に40代だった旭姫には夫がいたが、秀吉が夫に返すように言い、離縁させられたと伝わっている。秀吉は他の血のつながった妹たちをひそかに粛清したという伝聞もあり、そのぐらいの強引なことはやるだろう」という――。

■目立たない存在だが家康の正室となった秀吉の妹とは?

大河ドラマ「どうする家康」に、徳川家康(演・松本潤)の元に嫁ぐ旭(朝日)姫が登場してきました。演じるのは、俳優の山田真歩さんです。では、この旭姫とは、一体、どのような女性だったのでしょうか。姫は、あの天下人・豊臣秀吉の妹です。よって最初から「姫」(貴人の娘)だったわけではありません。

父は竹阿弥、母はなか(後の大政所)と言われています。秀吉は、農民・弥右衛門の子と言われていますので、旭姫は秀吉の異父妹ということになります。

旭が最初、嫁いでいたのは、尾張の地侍でした。この地侍は、佐治日向守と言いました。秀吉が、主君・信長の死後に、天下の覇権を握るほどの男にならなければ、旭もその夫・佐治日向守も共に平穏に暮らせたことでしょう。ところが、そうはなりませんでした。秀吉は、天正12年(1584)、徳川家康と対立。小牧・長久手で戦います。最終的には和睦しますが、家康を完全に臣従させるまでには至りませんでした。家康方は和睦の際に、家康次男の於義伊(後の結城秀康)や家臣の子息を、秀吉の人質に出しています。よって、秀吉優位の和睦であったことが分かるでしょう。

■和睦の証しとして、秀吉は旭姫を徳川家に輿入れさせた

家康と秀吉の和睦交渉は、その後も続きますが、それを仲介したのが、織田信長の次男・信雄でした。実は、秀吉は小牧長久手の戦い以後も、家康を軍事力でもって討つつもりでした。天正13年(1585)11月には、来春(1586年の1月ごろ)に、家康を討つため出馬する旨を明かしています。それは、家康が新たな人質提出命令を拒んだからです。秀吉は、家康を恐れていなかったことが分かります。

小牧長久手においても、秀吉軍は10万の軍勢(諸説あり)だったとされますが、家康方は1万超。10万は誇大としても、圧倒的な軍事力の差はあったのです。ところが、秀吉の「家康征伐」は中止されます。天正13年11月29日に、大地震(天正大地震)が発生。畿内も大きな被害を受けたのです。よって「家康討伐」どころではなくなった訳です。以後、秀吉は強硬策ではなく、融和策でもって、家康に臨むことになります。

その象徴というべきなのが、秀吉の妹・旭の家康への輿入れです。旭を家康に嫁がせることに関しては、『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)に「関白(秀吉)、重て、信雄とはかられ」とありますので、秀吉は織田信雄と相談して決めたようです。

■旭には夫がいたのに離縁させられ無理やり嫁がされたか

家康は、天正7年(1579)に、正室・築山殿を討って以来、新たに正室を迎えていませんでした。秀吉と信雄はそこに目を付け、秀吉の妹・旭を家康の正室にせんとしたのです。家康を親族にしてしまい、強引に臣従させようとしたとも言えましょうか。旭には、前述のように佐治日向守という夫がいました。しかし、家康に嫁がせるために、離縁させられてしまいます。『改正三河後風土記』(江戸時代に編纂された歴史書。偽書説もあり信頼できる史料ではない)には、この間の経緯を次のように記します。

豊臣秀吉の妹、徳川家康の継室、朝日(旭)姫の肖像画
豊臣秀吉の妹、徳川家康の継室、朝日(旭)姫の肖像画(画像=京都・南明院所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

ある夜、秀吉は急に織田信雄らを呼び寄せます。そして「私は一計を思い付いた」というのです。秀吉が言う一計とは、家康を上洛させ臣従させるために、妹・旭を家康にめあわすというものでした。旭の夫・佐治日向守は「心厚き者なので、天下のために妻(旭)を返すべし」と言えば返すであろうと秀吉は言うのです。信雄らは、この秀吉の策に驚き、かつ感じ入ったといいます。秀吉の命令は、佐治に伝達されます。

佐治は「私がこの命令を拒んだならば、それは天下人民の苦しみを思わないのと同じ。しかし、妻を取り返されて、その後、どうして、他人に顔向けできようか」と言い、忽(たちま)ちのうちに自害してしまったと『改正三河後風土記』は記します(自害ではなく、出家説もあり。ちなみに、旭の夫は佐治ではなく、織田家臣・副田吉成ではないかという説もあります)。

■「人生50年」と言われた時代に44歳で家康と再婚

ちなみに『改正三河後風土記』は、旭の前半生についても簡単に記しており、父は織田家の同朋衆・竹阿弥であること、朝日村で生まれたので「朝日君」と呼ばれたことなどが記されています。秀吉が旭を夫と離縁させてまで家康に嫁がせたことについて「そこまでしたのは、秀吉が家康を恐れていたからだ」と思う人もいるかもしれません。

しかし、それは間違いで、前述のように、秀吉と家康には圧倒的な軍事力の差がありました。秀吉は家康を(多少の損害は出るにしても)軍事的に屈服させることは可能でした。秀吉に臣従するため上洛する際、家康は「私一人が腹を切って、多くの人の命を助ける」(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作『三河物語』)と重臣の前で決意表明しています。上洛しても、秀吉から急遽切腹を命じられる可能性を家康は意識していたと思われます。家康は弱い立場にあったのです。

■血のつながった者も容赦なく駒として使う秀吉の強引さ

その家康を、軍事力を使わずに、懐柔し、臣従させる(秀吉は、軍事力を使わず、損害を出さずに、家康を屈服させることを選択したと言えます)。そのための「道具」として、旭は使われたと言えましょう。再婚当時、旭は44歳でした。

秀吉の手法は、したたかで、強引かもしれませんが、秀吉はそれくらいのことは難なくやる男です。例えば、尾張国に、秀吉と血縁関係にある者(姉妹)がいると聞いた彼は、その姉妹(貧しい農民)に「然るべき待遇をしよう」と言って、強引に京都に呼び寄せたことがあります。姉妹は親族と共に、京都に出向いたようですが、彼女たちを待っていたのは死でした。姉妹は京都に入るとすぐに捕縛され、首を刎(は)ねられたのです(宣教師ルイス・フロイス『日本史』)。

秀吉は「己の血統が賤しいことを打ち消そうとし」て、そのようなひどい所業をしたと考えられています。そのようなことを平気でした秀吉が「異父妹」の旭を離縁させて家康に嫁がせるくらいはやるでしょう。

■切腹覚悟で大坂へ行った家康は「旭姫は助けて返せ」と言った

さて、家康と旭姫の祝言は、天正14年(1586)4月の予定でした。が、家康が秀吉に祝言の御礼言上のため遣わした使者が、秀吉の知らない人物だとして秀吉は立腹。秀吉は「(家康の重臣である)酒井忠次・本多忠勝・榊原康政の何(いず)れかを派遣するよう」に徳川方に求めます。秀吉の「無理難題」に家康は、和睦破棄を覚悟しますが、織田信雄の説得により、思いとどまります。秀吉への使者は、本多忠勝が遣わされることになりました。こうした紆余(うよ)曲折があったため、旭姫の輿入れは、5月14日となったのでした。家康は秀吉の義理の弟となったのです。

秀吉は家康が上洛する決意を固めたと聞いて、母・大政所まで三河に下向させます。家康は上洛の際、「もし私が(上洛後)腹を切ったならば、大政所に腹を切らせよ。しかし、女房(旭)は助けて帰せ。家康は女房を殺して腹を切ったと言われたら、世間の聞こえも良くない。決して、女房に手を出すな」(『三河物語』)と家臣に言ったとされます。これは、旭への愛情から出た言葉ではなく、家康の名誉を傷付けないための方策と言えましょう。

徳川家康三方ヶ原戦役画像
徳川家康三方ヶ原戦役画像(画像=徳川美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■旭姫は家康と再婚してわずか4年後、聚楽第で亡くなった

上洛すれば殺される可能性もあった訳ですから、家康としては上洛するか否か迷うところもあったでしょうが、拒否すれば秀吉軍との戦が始まり、多くの将兵や民衆が死ぬことになる。それを避けるために、家康はいざとなれば「私一人が腹を切って、万民を助ける」(『三河物語』)との思いを固め、上洛の途についたのです。大坂に到着しても、家康が秀吉に殺されることはありませんでした。

さて、家康の正室となった旭ですが、天正18年(1590)1月に病死してしまいます。家康に嫁いでからわずか4年後のことでした。前夫と離縁させられた精神的ショックがたたり……というよりも、何らかの病となり、亡くなったのです。

旭姫は、母・大政所が病だと聞くと、見舞いのため、駿府から大坂に行くこともありました(1588年)。そして、京都の聚楽第に住むことになったのです。以降、旭姫が駿河の家康のもとに戻ることはありませんでした。旭は聚楽第で亡くなっています。家康との結婚生活は、実質2年。親族も知り合いもいない駿河で暮らすことは、旭姫にとって辛(つら)かったのかもしれません。

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(作家 濱田 浩一郎)

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