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頼んだおにぎりではなくサンドイッチを買ってきた…認知症の父と0歳児を抱える娘を打ちのめした母の病名

プレジデントオンライン / 2023年9月9日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gyro

再婚後、両親が住む実家を2世帯住宅にリフォームした30代娘。父親が60代で認知症になったのに続き、子供を出産後、最愛の母が体調を崩し、一気に20kgもやせてしまった。大学病院でいくつもの検査を受けた母親が医師から告げられたのは、娘を打ちのめすに十分な深刻な病名だった――。
この連載では、「ダブルケア」の事例を紹介していく。「ダブルケア」とは、子育てと介護が同時期に発生する状態をいう。子育てはその両親、介護はその親族が行うのが一般的だが、両方の負担がたった1人に集中していることが少なくない。そのたった1人の生活は、肉体的にも精神的にも過酷だ。しかもそれは、誰にでも起こり得ることである。取材事例を通じて、ダブルケアに備える方法や、乗り越えるヒントを探っていきたい。

■仲の良い両親にがん

東北地方在住の春日暁美さん(仮名・30代・既婚)の両親は、同じ運輸系の会社に勤めている時に出会い、父親が36歳、母親が31歳の時に社内結婚。3年後に春日さんが生まれた。

アクティブで情に厚く、穏やかな性格の父親は、大のお酒好きで、居酒屋で出会った人や留学生を家に連れてきて泊めることや、家で宴会を開くことがよくあった。父親は母親が妊娠中でもお構いなく飲み仲間を家に連れてきたが、母親は持ち前の明るさやコミュ力で、嫌な顔ひとつせずもてなしていた。

「一人っ子の私には反抗期もなく、仲が良い家族でした。ただ、お酒を飲みすぎて酔っ払い、何度も同じことを言う父は、幼い頃から大嫌いでした。DVは一切ありませんでしたが、父のべろんべろんになった姿は、今でもトラウマです」

両親は春日さんが小さい頃から、父親の運転でさまざまなところに連れて行ってくれた。中でも、自前のカヌーを車に積み込み、川遊びによく出かけた。

やがて春日さんは大学を卒業すると、教育系の会社に就職。

その頃56歳だった母親は、友人に誘われて健康診断を受けると、乳がんが見つかり、手術を受けた。幸い全摘出は免れ、抗がん剤や放射線治療もせずに済んだ。

春日さんは22歳の頃、仕事を通じて出会った同い年の男性と交際を始め、25歳で結婚。実家近くの新居に移った。

2016年秋。65歳で定年を迎え、嘱託雇用で働いていた68歳の父親が、会社で受けた健康診断で再検査になり、大学病院で詳しい検査を受けたところ、胃と食道の接続部にがんが見つかった。すぐに抗がん剤で腫瘍を小さくする治療を開始し、翌年1月には取り除く手術を受けた。術後思うように回復せず、入院期間は3カ月にも及んだが、母親は毎日父親の病院に通った。

父親の入院中、63歳の母親は、父親の物忘れがひどくなってきていることを心配し、主治医に相談。脳神経外内科を勧められ、受診すると、初期のアルツハイマー型認知症との診断が下りる。以降、3カ月に1度定期的に受診することとなった。

■2世帯住宅に

2017年。29歳になった春日さんは離婚し、実家の近くで一人暮らしを始める。離婚理由は、相手の不倫だった。

30歳になった春日さんは、仕事を通じて2歳年下の現在の夫と出会い、翌年に結婚。前回同様、実家の近くで新婚生活を始めた。

「私が一人娘だったこともあり、母が、『結婚しても、近くに住んでほしい』と言っていたのと、私も住み慣れたエリアで暮らしたかったので、結婚1度目も2度目も、実家から離れませんでした。その代わり、職場は家から1時間半もかかります」

春日さんは、結婚して家を出てからも、母親とは月に何度も会い、数日に1回はLINEするほど仲が良かった。

再婚から2年後の2020年。春日さん夫婦と両親で話し合い、実家を2世帯住宅にリフォームすることに。それまで1階は賃貸と2台分の駐車場で、2階と3階で両親が暮らしていたが、1階を1台分の駐車場だけ残してあとは春日さん夫婦の居住スペースにし、同居することとなった。

「婿に入ってくれていた夫は、リフォームしなくても、元の間取りのままで同居してもいいと言ってくれていました。義両親も、『近くに住んでいるのに、別々に住んでいる方がお金がもったいない』と言って賛成してくれました」

■出産後の兆し

2022年1月。春日さんは無事女児を出産。コロナ禍で面会ができなかったため、翌日春日さんは、早く娘を見せたくて母親にLINE電話した。すると母親はとても喜んでくれたが、どこか元気がなく、「ちょっと喉が痛くてね。あと、なんか食欲なくて」と言った。

キッチンの方からは、「おーい、いつ帰ってくるんだー?」と父親の声。この頃の父親は時間間隔が鈍り、数分おきに同じことを何度もたずねた。春日さんと母親は、運転免許証を返納するよう父親に勧めてきたが、一向に聞き入れない。68歳でがんを患い嘱託の仕事を辞めてからは、母親と買い物やランチをして気ままに過ごしていたが、家の外の掃き掃除と食器洗いだけは毎日欠かさなかった。

出産後の退院の日、母親は父親の運転で迎えに来た。帰りに退院祝いのため、予約してあったお寿司を受け取り、帰宅する。母親は、やはり食欲がない様子だった。好きだったお酒も、「今日はお祝いだから、一口だけ」と言ってほとんど飲まない。

春日さんは気になりつつも、自分の産後の痛みや、初めての育児に追われ、母親のことを気にかける余裕がなかった。

「私は出産時に出血多量による貧血だけでなく、会陰裂傷3度という大ケガを負っていたそうです。そんな状態で娘の沐浴(もくよく)なんてできるわけもなく、夫と母にやってもらっていました」

退院から約1週間後、沐浴してくれていた母親の動きがおかしいことに気づく。「どうしたの?」とたずねると、「なんか、お腹が痛いの」と母親。すると夫が、「あとは僕一人でできますから大丈夫ですよ」と言ってくれたため、母親はソファにうずくまるようにして座った。

春日さんの産後の痛みが良くなっていくのと反比例するように、母親の腹痛は強くなっていった。そして春日さんの退院から1カ月経つ頃には、痛みで布団から起き上がれないほどになっていた。

■母親の受診と父親の認知症

さすがに「病院で診てもらった方がいい」ということになり、母親は父親の運転で近所の消化器内科を受診。検査を受けると、「尿路結石」と診断された。その夜、母親はあまりの痛みに眠れず、翌朝も同じ病院を再受診。すると、「念のため大きな病院へ」となり、紹介状を手に帰宅した。

翌朝8時、母親はやはり父親の運転で大学病院へ向かう。父親は「検査に時間がかかるから、一度帰っていて」と母親に言われ、家に帰ってきた。だが、玄関やリビングを行ったり来たりして落ち着かない。「迎えに行ってくる」と突然言い出すので、春日さんは娘の世話をしながら、「連絡来るまで家で待っててって言われてるでしょ」と嗜める。

「いや、病院の玄関で待ってるから」と言う父親に、「夕方までかかるってば!」と止めるが、「家で待ってても、病院で待ってても一緒だろ!」と言って行ってしまう。結局父親は、母親が帰宅するまでに、車で15分の距離を、4往復した。

母親は17時に帰宅。検査結果はまだ出ないが、大学病院の医師は、「結石はない」と言う。春日さんは、最初に受診した消化器内科を疑った。

その翌朝、春日さんは両親のもめる声で起こされる。両親のリビングがある2階へ行くと、母親が泣いていた。なんでも、朝6時に起きた父親が、日課である洗い物を始め、庭いじりをしたあと、痛みで眠れず、布団の中でうずくまる母親の耳元で、何度も何度も何度も「朝ごはんどうする?」と聞いてきた。

母親は鎮痛剤を飲むために、何かお腹に入れたほうが良いと考え、近所のおにぎり屋の名前と、買ってきてほしいものをメモして父親に渡したが、父親が買ってきたのはサンドイッチとポテトサラダ。いずれも父親の大好物だった。

フルーツサンド
写真=iStock.com/karinsasaki
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/karinsasaki

「この頃の父は、買い物はできますが、○○というお店で××を買ってきて、という頼まれごとはできなくなっていました。口頭で伝えても、玄関を出るまでに忘れ、メモを書いても、ポケットにしまった後、メモの存在を忘れてしまいました」

母親は痛みに耐えられず、早く鎮痛剤を飲みたくて近くのおにぎり屋を指定したのに、倍以上の時間をかけて買って来られたのは父親自身の好物であったことに、悲しさと怒りとやるせなさが溢れたのだった。

その後母親は、2泊3日の血液検査入院が決まった。その間も父親は、「病院へ行ってくる」と言い、春日さんが「コロナだから面会できないよ!」と止めても、「わからないじゃないか!」と言って聞かない。結局病院の受付で断られて帰ってくる……を、1日あたり5回も繰り返した。

「父は優しく穏やかで、私の前では声を荒らげたりすることはなく、夫婦げんかも見たことがありませんでした。認知症という病気が、不安を大きくし、怒りっぽくさせるのだと思います……」

母親が体調を崩した今、春日さんは、生まれたばかりの娘の世話だけでも精いっぱいなのに、認知症の父親の相手まで手が回らない。夫婦で話し合い、夫が会社に相談したところ、特別にテレワーク勤務を認められ、家族の食事作りや夕方以降の父親の相手を担当してくれることになった。

■母親の終活

2022年3月。太り気味だった母親は体重が10キロ以上減り、やせ型に変わっていた。血液検査入院の結果が出るまでの2週間、母親は断捨離と相続対策に勤しんでいた。母親が痛みを薬で誤魔化しながら、急くような形で“終活”に取り掛かったのは、両親の血縁関係が複雑だったからだ。

父親には前妻との間に2人の息子がいる。2人とも春日さんより10歳以上年上で、何度か会ったことがあるが、ほとんど交流はない。しかし、兄の方は、時々忘れた頃に父親にお金の無心をしてきた。貯金のできない父親は、母親に頼りきりだったため、母親が父親の息子にお金を渡す度、両親がぎくしゃくしていた。

母親が父親より先に亡くなれば、母親が管理していた夫婦の財産は、父親によって散財されてしまうかもしれない。もともとは母親の家だった実家を2世帯住宅にしたのも、相続対策の一環だった。父親が亡くなれば、異母兄弟の2人にも相続の権利がある。母親はたった1人の愛娘である春日さんのために、痛む身体にむち打って、税理士や司法書士との面談に出かけていた。

一方、母親には生みの母親と育ての両親がいた。母親がその事実を知ったのは成人後。生みの両親は母親を出産した直後に離婚し、母親は生後数カ月で育ての両親の元に養女に出されたとのだという。母親が養女の事実を知った時には、実の父親は亡くなっていた。

母親は、「私の母は、育ての母だけだから」と言って育ての両親をみとり、「産んでくれたことは感謝しているから」と言って生みの母親をみとった。そして、「母さんは、生みの母さんとは会いたくないだろうから」と言って、育ての両親とは離れた場所に新しくお墓を建てた。自宅にある遺影も仏壇も離してある。母親は春日さんに、「悪いけど、今後もお墓参りは2つお願いね」と言い、「私はいずれ、育ての両親のお墓に入りたい。分骨はしない」と話していた。

2週間後。検査結果が出た。「乳がんの転移と、卵巣がんの可能性あり。リンパ腫を示唆する所見なし」との結果を踏まえ、「来週PET検査を受けていただきます」と医師から告げられる。

母親と春日さんは、約5年前に食道がんが見つかった父親の時にもPET検査を経験しているため、「PET検査ならもっと早くやれたよね……」と思った。

しかし母親は文句1つ言わず、痛みに耐えながら、数日おきに親しい友達に会いに行くようになった。

1週間後、PET検査の結果が出た。母親は20キロほど体重が落ち、歩くのもやっと。一般的な鎮痛剤では効かなくなっており、医師が「麻薬」と呼ぶ鎮痛剤を服用していた。それなのに医師は、「食道周辺にがんの疑いがあるという結果が出たため、過去の乳がんと関連があるのかを調べ、複数の科をまたいで何度もカンファレンスをしている。結果が出るまでもう少し待ってほしい」と言う。

さすがに時間がかかり過ぎ、いら立ちを覚えた春日さんは、「こんなに検査続きで時間も体力も奪われて、その間に悪化しないのでしょうか?」とたずねる。すると、「時間がかかって本当に申し訳ない。1〜2週間で急激に進むということはない。来週にはカンファレンス結果が出るから、また来週来てほしい」との答えが返ってきた。

ところがその1週間後も、明確な診断や説明は得られず、さらに1週間を要した。4月下旬。医師からようやく、「食道がんステージ4B。多発肺転移、多発リンパ節転移。リンパ節転移による水腎症あり」と告知があり、母親の抗がん剤治療入院が決まった。10年以上前にかかった「乳がん」の転移ではなく、原発だった。(以下、中編へ続く)

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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