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三方ヶ原でも関ヶ原でも大坂夏の陣でもない…NHK大河ドラマではスルーされた家康の「生涯最大の危機」

プレジデントオンライン / 2023年9月16日 12時15分

徳川家康公像=2018年8月9日、愛知県岡崎市・岡崎公園 - 写真=時事通信フォト

1585年11月29日、中部地方から近畿地方東部を巨大地震が襲った。歴史評論家の香原斗志さんは「地震の直前まで、秀吉は対徳川の戦いの準備をしていた。もし、この天災がなければ、家康は秀吉によって滅ぼされていた可能性が高い」という――。

■ドラマ内での地震の描き方に驚いた

「つくづく運のええ男、家康、ちゅうは」

NHK大河ドラマ「どうする家康」の第34回「豊臣の花嫁」で、ムロツヨシ演じる羽柴秀吉は、こうつぶやいた。天正13年(1585)11月29日午後10時すぎ、中部地方から近畿地方東部を襲った巨大地震、いわゆる天正地震が発生し、家康を攻めることができなくなっての言葉だった。

ドラマでは徳川家康(松本潤)も、家臣たちに「守りを固め、戦に備えよ」と指示していたが、そこに巨大地震が発生。当面の戦争は回避された、という状況が描かれた。それは史実と異なるわけではないものの、ドラマではかなり軽くやり過ごされて驚いた、というのが正直な感想だった。

なぜなら「天正地震」が救ったのは、家康の生涯における最大の危機だったからである。いってみれば、この地震が発生しなければ、その後、家康が天下をとれたかどうかは疑問で、地震がなければ、江戸時代もなかったかもしれないからである。

地震が発生する前後の、家康と秀吉をめぐる経緯を追えば、いかに家康が命拾いをしたかわかると思う。

■大河は描かなかった石川数正の出奔の余波

天正地震が発生する1カ月ほど前の10月28日、家康は秀吉との事実上の断交を決定した。家康の家老の親族などを秀吉に人質として出すように求められていたのを、正式に拒否したのである。その後、秀吉とのあいだに立って人質提出の話を進めていた重臣で宿老の石川数正は、対秀吉において主戦派が大勢を占める徳川家のなかで孤立し、身の危険を感じた挙句、11月13日に秀吉のもとへ出奔した。

その4日後の11月17日、秀吉は「家康成敗」のために、翌天正14年(1586)正月に出陣することを決意し、配下の大名たちに準備をするように命じている。

たとえば、前線基地になる美濃(岐阜県南部)大垣城(大垣市)の城主、一柳(ひとつやなぎ)直末に宛てた書状には、正月15日以前に大垣城まで出向くので準備に抜かりがないように、という指示が記されている。11月19日付の真田昌幸宛ての書状にも、同様のことが書かれ、秀吉の決意の固さがうかがえる。

また、このタイミングで秀吉が家康成敗を決めたということは、石川数正の出奔がその引き金になったということである。

「どうする家康」の第34回では、数正(松重豊)は家康と徳川家を守るために責任を一身に背負って出奔した、という描き方だった。それに、数正は死に追いやられた家康の正室の瀬名こと築山殿(有村架純)が望んだ「戦無き世」の実現のためにも、秀吉への臣従を家康に促した、という話だった。

しかし、数正の行動は、自身の身に迫った危険を回避するためだと思われ、このようなメルヘンを感じさせる背景とは縁遠い。なにしろ、彼の出奔を契機にして、家康も徳川家も葬られかねない状況に置かれたのである。

■「きわめて異常で恐るべき」地震

むろん、家康も手をこまねいてはいられないので、数正が城代を務めていた岡崎城に酒井忠次を在番させ、家康自身、吉田城(愛知県豊橋市)や岡崎城などを相次いで訪れ、防備を強化するように指示している。

そこに11月28日、織田信長の次男で家康が小牧・長久手の戦いを一緒に戦った織田信雄らが岡崎城を訪ね、秀吉との和睦を勧告した。しかし、この時点では、家康は秀吉に頭を下げるつもりはなかった。

天正地震が発生したのは、その翌日のことだった。イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスは『日本史』に次のように記している。

「堺と都からその周辺一帯にかけて、きわめて異常で恐るべき地震が起こった。それはかつて人々が見聞したことがなく、往時の史書にも読まれたことのないほど(すさまじいもの)であった。というのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることはさして珍しいことではないが、本年の地震は桁はずれて大きく、人々に恐怖と驚愕(きょうがく)を与えた」

「これらの地震が起こった当初、関白(秀吉)は、かつて明智(光秀)の(ものであった)近江の湖のほとりの坂本の城にいた。だが彼は、その時に手がけていたいっさい(のこと)を放棄し、馬を乗り継ぎ、飛ぶようにして大坂へ避難した。そこは彼にはもっとも安全な場所と思えたからである」(松田毅一・川崎桃太訳)。

この地震は、マグニチュード8程度の直下型地震だったと推定されている。

地震でひびが入った地面
写真=iStock.com/SteveCollender
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SteveCollender

■城が一瞬にして土砂の下に消えた

被害はかなり広範に及んでいる。以下、寒川旭著『秀吉を襲った大地震』(平凡社新書)をもとに被害状況を記すと――。山内一豊が配されていた長浜城(滋賀県長浜市)は、湖岸の城と城下町が軟弱地盤であったこともあり、倒壊したうえにくまなく炎上したという。一豊は妻の千代とのあいだに生まれた女児を失っている。

先述した大垣城も、地震で城内の建物は降り積もった雪のうえに倒壊し、残らず炎上したという。秀吉は家康成敗のための兵糧なども大垣城に置いており、大垣城が灰燼に帰した時点で、家康を攻めることは困難になったといっていい。

家康成敗で先陣を切るのは織田信雄だと考えられたが、信雄の居城であった伊勢(三重県東部)の長島城(桑名市)も壊滅した。江戸時代にまとめられた『当代記』には、城内で建物が倒壊し、周囲が川になったと書かれている、洪水か液状化か津波のいずれか、あるいはすべてが発生したのだろうか。ほかにも、天守をはじめ建物が壊滅したという記録がある。結局、信雄は長島城を廃棄し、清洲城を修復して移っている。

信雄が大きな被害に遭ったことでもまた、家康成敗は困難になった。

この地震による被害の最たるものは、飛騨(岐阜県北部)の帰雲城(白川村)で起きていた。山腹が崩れ落ち、城主の内ヶ嶋氏理はもちろん、城も城下もすべてが一瞬にして土砂の下に姿を消してしまった。

■秀吉の妹・旭姫が家康に嫁いだ経緯

一方、家康の家臣の松平家忠が書き遺した『家忠日記』には、秀吉の来襲に備えて防衛力を強化中だった岡崎城でも、前後を覚えないほど揺れ、その後も余震が続いた旨が書かれている。このため修復が必要になり、家忠自身、毎日普請の監督をしなければならなかったという。

だが、言い換えれば、城の普請を継続できる程度の被害だったということである。ましてや、本拠地の浜松城はさらに震源から遠く、被害も小さかった。すなわち天正地震は、畿内を中心に尾張(愛知県西部)、美濃(岐阜県南部)、そして北陸と、秀吉の勢力範囲をねらい打つように襲っており、それにくらべれば、家康の領土はかなり軽傷で済んでいた。

畿内では翌天正14年(1586)春まで余震が続いたという。そんななか秀吉は、しばらくは「家康成敗」を取り下げこそしなかったが、実現はすでに現実的ではなかった。1月24日には織田信雄が岡崎城に赴き、27日に家康に会って和睦を勧告。その結果、家康が「何事も関白の意向に従う」と申し出たのを受けて、2月8日、秀吉は正式に「家康成敗」を中止。赦免することにした。

これを受けて、秀吉の妹の旭が、正室として家康のもとに嫁ぐことになったのである。

■家康が切腹させられた可能性

秀吉が「家康成敗」を実行に移していたら、どうなっていただろうか。秀吉の勢力は天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いのころとは比較にならなかった。天正13年(1585)正月に中国地方の毛利氏を従属させ、4月に畿内を平定。7月に従一位関白に叙任し、翌月には四国を平定。北陸の佐々成政も従属させ、全国統一も間近という勢いだった。

秀吉は天正18年(1590)の小田原征伐の際には、約22万もの軍勢を動員している。「家康成敗」を標榜していたころは、まだ九州などを支配下に置く前だったとはいえ、おそらく20万近い軍勢が動員され、家康は秀吉によって軍事的にすっかり制圧されただろう。

本多隆成氏も「仮に滅亡は免れたとしても、大幅に所領を削減され、どこかへ転封(国替え)されることになった可能性が高い」(『徳川家康の決断』)と書く。むろん、抵抗の仕方次第では、小田原征伐の際の北条氏政のように、切腹させられた可能性もある。

「どうする家康」では、秀吉と家康がふたたび戦争をするかどうか、という描き方だったが、たがいに争うという生易しいものではなかった。家康が一方的に成敗されるという話で、まさに滅亡の火蓋が切って落とされようとしていた。それは武田信玄に完膚なきまでに打ちのめされた三方ヶ原の戦いなどよりも、よほど大きな危機だった。

その絶体絶命の状況下で発生した巨大地震。冒頭で紹介した「つくづく運のええ男、家康、ちゅうは」という秀吉のセリフは、ドラマで感じられるよりもはるかに深い意味を持っていたのである。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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