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NHK大河ドラマではスルーされた…豊臣秀吉が難敵・徳川家康を自分の配下にするために行った「特別な提案」

プレジデントオンライン / 2023年9月17日 17時15分

徳川家康画像〈伝 狩野探幽筆〉(画像=大阪城天守閣/PD-Japan/Wikimedia Commons)

なぜ徳川家康は豊臣秀吉の臣下となったのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「秀吉は家康に三位中将という高位の官位を提案している。それは、官位の重要性を認識していた家康にとって非常に魅力的だった」という――。

■なぜ家康は秀吉の要請に応じたのか

大河ドラマ「どうする家康」の第34回「豊臣の花嫁」では、徳川家康が、対立してきた豊臣秀吉の要請に応じ、上洛を決断する様が描かれた。

「もう誰にも何も奪わせぬ。儂が戦なき世をつくる。2人(筆者註=家康の亡き妻子。正室・築山殿と嫡男・松平信康)にそう誓ったのじゃ」と当初は頑なに上洛(秀吉への臣従)を拒んでいた家康。

ところが、側室・お愛の方(西郷局)の「他の人が戦なき世をつくるなら、それでも良いのでは」との意見や、重臣・酒井忠次の「お心を縛りつけていた鎖(筆者註=亡き妻子への誓い)、そろそろ解いてもよろしいのでは」との提言により、自身が天下人となり、戦なき世を作るという「夢」を一旦諦めるのだ。

「関白(秀吉)を操り、この世を浄土とする。それが、これからの儂の夢じゃ」というように心境が変化したのであった。

このように、ドラマでは家康は、自分が天下を取ることは断念し、戦なき世を作ることは別の形(秀吉への臣従)で成し遂げようとした。家康は正室・築山殿が生前に提言していた平和な国を作るという「慈愛の国」構想(ドラマにおけるフィクション)にいまだ動かされるような形で、上洛を決意したと言えようか。

■ドラマでは描かれなかった上洛の理由

では、史実において家康は、なぜ上洛を決意したのであろうか。

天正14年(1586)10月27日、徳川家康は豊臣秀吉と大坂城で対面し、臣従を約した。家康が大坂に行き、秀吉に服したのは、1つには、秀吉と全面的に戦をしても最終的には自身が劣勢となり敗れるという冷静な判断があったからだろう。もちろん、そうなると、徳川領国は戦火で荒れ果て、侍は死に民衆は苦しむことになり、それは避けたいという想いもあったはずだ。

そして、もう1つ、家康が秀吉に服した理由がある。

それは、家康が大坂に下るひと月ほど前のこと。遠江国の寺院に対し、家康は寺領の安堵や寺院の法規を記した文書を出している(現存する文書は3通であるが、同内容の文書は遠江国の全寺院に出された可能性も指摘されている)。

■手紙に書かれていた意外な署名

重要なのは、文書の発給者(家康)の署名で、そこには「三位中将藤原家康」と記されているのである。これは、家康が三位中将(従三位右近衛中将)に朝廷から叙任されたことを示している。三位中将という位は、一般の武士から見れば、目も眩むような高位であった。ちなみに、秀吉はこの時、従一位関白という朝廷官位の最高位を手にしていた。

家康は永禄9年(1566)には関白・近衛前久を頼り「従五位下三河守」に任命されている。若い頃から家康は朝廷官位の重要性を認識し、うまく活用してきたと言えよう(従五位下三河守の官位は、家康に三河支配の正統性を付与したと思われる)。さて、では今回の従三位右近衛中将の位のことである。

天正14年(1586)9月24日、秀吉からの使者と織田信雄の使者が岡崎城にやって来たので、家康は浜松城から岡崎に向かい、使者と対面する。そして、その2日後の同月26日に、徳川諸将は岡崎城への参集が命じられ、家康から上洛する旨を伝達されるのだ。上方からの使者と会談した結果、家康は上洛を決意したと言えよう。

この際に、秀吉の使者が家康に伝えた「秀吉の言葉」が重要であろう。おそらく、秀吉の使者は、家康が上洛した際には身の安全を保証すること等を述べたのだろう。それと共に、秀吉使者は「三位中将」の宣旨(天皇の命令を伝える文書)をもたらしたのではないかという説もある。

重要文化財「豊臣秀吉像」(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵。〈伝 狩野光信筆〉
重要文化財「豊臣秀吉像」(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵。〈伝 狩野光信筆〉(画像=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■家康は官位の誘惑に負けた

前述の家康から遠江国寺院に宛てられた文書の日付は「九月七日」、よって、三位中将の叙任(宣旨作成)は9月7日だったとされる。9月7日に作成された宣旨を、秀吉の使者が携えて、9月24日に家康に下した可能性が指摘されているのだ。

そうしたことから、この三位中将の叙任・宣旨発給こそ、家康が上洛を決意した一番の理由とする説もある。

家康は秀吉の斡旋した朝廷官位の「誘惑」に負けたというのだ。この説を唱えるのが歴史学者の笠谷和比古氏(国際日本文化センター名誉教授)であり、その著書(『徳川家康』)の中で「筆者がここで強調したいことは、家康の上洛決断が、世に言われている大政所の人質提出によってなされているのではなく、三位中将という朝廷官位の権威によって実現されていたという事実である」とまで述べられている。

確かに笠谷氏が主張されるように、三位中将の官位も家康にとって魅力的であったろうし、家康の上洛決断に影響を与えたものと思う。ただ、私は秀吉が実妹・朝日姫を家康の正室として嫁がせ、実母・大政所をも三河に人質として下向させるという決断をしたことも、家康にとっては大きかったと推測している。

■念願の「源氏」を手に入れた

10月14日に家康は浜松を立ち、上洛の途につくが、上洛を決断してから2週間以上経過している。これは上洛の準備期間でもあろうし、秀吉が大政所を真に下向させるか否かをじっくりと家康は見ていたのではないか。実際には大政所は10月18日に岡崎に到着、家康は同月20日に岡崎を出発し、上方に向かっている。

もし、この間に、秀吉側が「やはり、大政所を下向させない」という判断をしていたら、おそらく、家康は上方に向かわなかったのではないか。家康の身の安全が保証されない可能性があるからである。よって、私は朝廷官位の授与と共に、やはり大政所の下向も上洛の最終決断には大きな影響を与えていると考える。

さて、大坂で秀吉と対面した家康は、11月5日には、秀吉に従い、参内し、正三位中納言に任命された。秀吉の弟・羽柴秀長と同位となった。ちなみに、この時、家康は姓を「藤原」から「源」に改めたという。家康から秀吉への働きかけがあったと思われる。

家康は永禄9年(1566)に、朝廷から従五位下三河守に叙任されたが、この時に苗字を「松平」から「徳川」に改めることも認められた。しかし、姓は、家康が希望した「源」ではなく「藤原氏」とされてしまう。これは、家康の叙任を仲介した近衛前久が藤原氏だったことによるとされる。

■秀吉によって家格が上がっていく

家康が源氏を名乗りたいと熱望していたことは、元康と名乗っていた若い頃の文書の署名に「源」と記していたことからも分かるが、それだけに藤原氏とされてしまったことは残念ではあったろう。

家康の「藤原」から「源氏」への改姓であるが、天正16年(1588)4月に行われた聚楽第行幸と関連付ける説もある。聚楽第とは、秀吉が京都に造営した壮大な城郭風の邸宅のことだ(1587年造営)。

『聚樂第屏風圖』部分(三井記念美術館所蔵)(写真=三井文庫蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
「聚樂第屏風圖」部分(三井記念美術館所蔵)(写真=三井文庫蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

その邸宅に秀吉が後陽成天皇を招いたのだ。その行幸行事に際しては、諸大名は上洛することが求められ、当然、家康も上洛している。聚楽第に参集した武家領主は、秀吉への臣従を誓約させられることになるが、その時の起請文(誓約書)に家康は「源家康」と署名している。

ちなみに、家康は行幸の直前に、秀吉の執奏により、「清華成」を果たす。清華家とは、太政大臣まで昇進可能な、摂関家に次ぐ公家の家格に上がることである。織田信雄や羽柴秀長・秀次らも清華成している。

家康の源氏改姓が、聚楽第行幸をきっかけとする説の裏には、同年正月に足利将軍家が終焉(しゅうえん)したことがあるという。

■秀吉の臣下になって得られた果実

足利幕府15代将軍の義昭は信長によって京都を追われて以降、毛利氏の庇護下にあったが、天正15年(1587)には上洛し、翌年(1588)正月13日には将軍職を辞し、出家している。

足利幕府の滅亡を信長の義昭追放時(1573年)に求めることが教科書等でも多いが、厳密に言えば、1588年に足利将軍家は終焉を迎えたのである。

家康が足利将軍の終焉と共に、源氏に改姓したという説の裏には、彼が将軍職(征夷大将軍)就任をこの時から望んでいたのではないかという考察もあるのだ。

高位高官となった家康には、それは遠い夢ではなかったであろう。源氏になれたのも清華成を果たしたのも、家康が上洛し、秀吉に臣従したからこその「果実」であった。臣従を拒んでいたら、待っていたのは、重ければ家康の死と徳川家の滅亡、軽くても大幅な領土削減であったであろう。

参考文献
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・藤井譲治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(作家 濱田 浩一郎)

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