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「平安京時代からの名残り」は間違っている…日本人が知らない、京都の道路が「碁盤の目」になった本当の理由

プレジデントオンライン / 2023年9月21日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/urbancow

道路が「碁盤の目」に広がる京都の街並みはいつ頃完成したのか。京都大学名誉教授の有賀健さんは「同じく碁盤の目状だった平安京時代からと誤解されがちだが、全く違う。今の街区を形成する主要道路が完成したのは大正から昭和にかけてだ」という――。

※本稿は、有賀健『京都 未完の産業都市のゆくえ』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

■古都の街並みは「空襲被害が少なかったから」ではない

決まり切った言説の一つに、「京都の中心部は太平洋戦争末期の空襲に遭わずに済んだから、江戸期から続く伝統的な家並みを維持できた」というものがある。

京都の空襲被害はゼロではなかったが、それでも他の大都市に比べれば軽微で、中心部には大きな空襲はなかった。空襲被害が東京や大阪のようであったらどうなったか、推測することは難しいので厳密には否定も肯定も難しいが、私は、たとえ空襲で焼け落ちたとしても、京都の中心部の町並みは、それを担う町衆が健在である限り、再生産されたと考える。

但し、戦後も町衆が健在であったのは、京都の空襲被害が軽微であったことと無縁ではないだろう。東京や大阪など戦後の主要都市のどこでも見られた闇市には、疎開と空襲被害で戦前の地域社会が崩壊し、土地を巡る権利関係もしばしば錯綜した時代背景がある。京都ではこのような地域社会の崩壊は起こらなかった。

京都の町並みの再生産が出来なくなったのはバブル崩壊後の1990年代以降であり、西陣(織)と室町(商人)が修復不可能なまでに傷み、廃業を余儀なくされたからである。

■第二次大戦で壊滅した都市はどうなったか

太平洋戦争末期の空襲被害を含め、戦争や自然災害あるいは大火などによる影響を過大視してはならないと思う。Davis and Weinstein(2002)は日本の空襲被害の程度が戦後の日本の都道府県別人口分布にどのような影響を与えたかを調べた。彼らの統計分析によれば、戦後の人口成長は概して戦前からの分布の趨勢に従っており、空襲被害の程度は有意な影響を与えていないことが示される。

ポーランドのワルシャワやドイツのドレスデンは第二次大戦で徹底的に破壊され、中心部は文字通り灰燼に帰したが、町並みは復旧された。物的破壊の有無は文化財の保存には決定的に重要だが、町の姿に長期的な影響を与えるとは限らない。

確かに、清水寺や金閣寺(戦後放火により全焼した)が空襲で焼失していたら、それは大きな文化的損失となったであろうが、だからといって町並みが復旧しなかったとは言い切れないのではないか? それでも戦争や自然災害が分岐点になることはある。実際、戦後復興事業の一環として多くの都市で土地区画整理事業が計画された。その実現には長期の年月を要したが、町並みが戦前とは大きく変貌した都市も多い。

■原爆投下の広島、長崎が辿った異なる歩み

逆に、同じように壊滅的な被害を受けたからといって、その後の復興の道程も同じになる訳ではない。広島と長崎はいうまでもなく太平洋戦争終了直前に原爆を落とされ、町は灰燼に帰した。戦争直前の1940年の人口は広島が34万、長崎が25万でやや広島が大きかったが、いずれも重要な港湾に面し造船・機械・金属加工など製造業が発達し、よく似た都市であったといえる。

敗戦後間もない1947年、両市の人口は広島22万、長崎20万足らずといずれも人口は激減しているが、その後の歩みは大きく異なる。広島は1965年には50万を突破、1985年には100万、現在は120万に近い人口である。一方、長崎は1965年には人口40万となりその時点では広島との人口差は10万程度であったが、1970年代の半ばに45万に到達したころをピークとして、その後は緩やかに減少、2022年には40万を切った。

原爆ドーム
写真=iStock.com/Eloi_Omella
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Eloi_Omella

■大火や戦禍は町の姿を大きく変えるわけではない

町の姿は、背後にある社会や経済の構造やその変化がもたらす長期的影響に決定的に依存する。逆に言えば、背後にある社会や経済の構造に変化がない限り、災害や戦禍により失われた町は大きな変化なく復旧される。実際、明治以前の江戸、京、大坂はいずれも数多い大火により、何度もその建築物の大半を焼失してきたが、それで町の姿が根本的に変わったとはいえない。

江戸の大火の中でも特に重要といわれる、明暦の大火(1657年)は、江戸城の本丸・天守を含む外堀以内のほぼ全域を焼失させ、大火後の江戸の都市改造をもたらしたといわれる。しかし、岩本(2021)によれば、大火の被害はこれまでの推定と同じかそれ以上のものであったが、他方、大火前後の町図を詳細に検証すると、定説とされてきた「都市改造」が実は極めて限定的なもので、江戸の町並みは大火の前後でほぼ不変であったという。

■京都が「碁盤の目」になったのは比較的最近

現代の京都の町の姿が他の大都市の景観と大きく違う原因を探るのであれば、江戸期の京と現代の京都を比較するのではなく、あるいは空襲の有無だけで判断するのでもなく、維新以降の京都の町の成長と変化をたどることが求められている。

例えば、太平洋戦争の京都への影響を考えるならば、確かに空襲被害は比較的軽微であったが、「建物疎開」と呼ばれた大戦末期の防火のための家屋除去により、御池、堀川、五条の通りが片側3車線を持つに至ったことを忘れてはならない。

また、15年戦争と呼ばれる満洲事変(1931年)以降の戦時経済体制への移行は、京都の産業の中心であった絹織物や醸造業に壊滅的な影響を及ぼしたことを見逃すわけには行かない。第二帝政のパリで辣腕をふるったオスマンによる都市改造なしに現在のパリの町並みはあり得ないように、20世紀初頭のいわゆる三大事業での主要道路の整備、更には1931年の第二次の大規模市域拡張に続く外郭道路の建設と区画整理事業こそ、今日の京都の町並みの骨格を形成している。

京都の空中写真
写真=iStock.com/Leo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Leo

例えば、北大路、東大路、西大路などはその名称からあたかも平安京以来の道路という印象を与えるが、建設されたのは大正から昭和にかけてである。平安京が碁盤の目のように街区を形成したから、京都の町は碁盤の目のようになっているというのは、半ば誤りなのである。

それにも増して見逃してはならないのは、高度成長期の日本の主要都市で例外なく見られた、都心部の高層化が京都の都心では起こらなかったという事実である。そして、その事実に景観保存政策は全く関与していない。

■ホワイトカラーの事業所が集積して都市は出来上がる

都市型の産業集積とはどんなものか簡単におさらいしておこう。都市経済学では産業集積について特化型と都市型集積という類型を利用することが多い。例えば、新潟県燕市に見られる洋食器や福井県鯖江市の眼鏡フレームなどは典型的な特化型であり、特定財の生産に従事する多くの事業所が集積する。他方、都市型集積においては特定財やセクターに集中が見られるのではなく、多様な異業種の事業所が密集して立地する。

その典型は東京や大阪の全国規模の大都市、あるいは札幌、福岡などに代表される嘗ての「支店都市」であろう。これらの都市型集積の目立った特徴は本社機能や営業拠点あるいは研究開発拠点など、ホワイトカラー中心の事業所の集積である。カギとなるのは、このようなセクターのコアに企業向けサービスセクターの様々な業種と企業があること、そしてこれらサービスセクターの企業が強い集積の利益を持っている点である。

■東京・大阪と京都の決定的な違い

京都は同規模の他の都市に比べて、このような企業向けサービスを核とするオフィス集積を呼び込む誘因に乏しいし、実際の立地にも欠ける。企業向けサービスの分野では、立地する事業所が、企業向けサービスを提供すると同時に、他の企業向けサービスの需要者としても存在するという双方向の市場リンクが決定的な役割を果たす。

京都にはこのような都市型集積が決定的に不足している。また、京都は地域労働市場の「厚み」にも欠ける。日本で随一の大学都市でありながら、京都の大学を卒業した学生の大半が京都を去るのが何よりもその強い証拠である。

但し、京都には他の地方都市には見られない「厚み」のある分野が点在し、その多くが工芸や伝統技能にかかわるものである。高度成長期とは戦前からあった京浜や阪神の製造業集積が、都心から郊外、そして近隣府県へと分散する過程であり(Mano and Otsuka 2000)、その中で東京や大阪は次第に本社・営業・研究開発といった機能に特化したオフィス都市に変化していった。

京都では都心部のこの機能純化というプロセスが進行することのないまま、それ以前の手工業中心の集積と飲食店や宿泊施設が中心部で大きなシェアを占め、限られた企業の本社機能は南西回廊に点在して、近代以前とポスト工業化が併存する独特の姿となったといえる。

■オフィススペースが不足し、寺社や飲食店の比率が高い

京都は街路や建築物の姿から見ても他の主要都市には見られない特徴を持っている。明治末期から昭和初期に完成した主要街路が現在でも市の道路網の骨格を形成している。市の中心部では、これらの主要街路を除くと、道路はその殆どが1車線の一方通行である。街路が狭隘であるのは、それだけ低層の家屋やビルが密集しているのと裏腹であり、主要都市の中では最も厳しい容積率限度に比べても、実際の容積率は中心部で規制上限の50%程度に過ぎない。

また寺社地の比率が高く、中心部にも住居が密集し、且つホテル、旅館、レストランなどの施設比率が高いため、京都市の中心部でのオフィスビルの占有率は異常に小さくなっている。バブル崩壊後のマンション建設、近年のホテルブームに押されて賃貸オフィスビルの新築は市の中心部では殆どなく、結果的に京都は他都市に例を見ないほど、オフィススペースの不足が常態化している。

一口でいえば、京都は都心部の高度化を促す産業集積が他の同規模都市に比べても未発達で、相対的に飲食店や宿泊施設の比率が高い。高度化を促す第一の要因はオフィス需要であるが、上に述べたような背景もあって、都心にオフィスを構える需要が京都の産業には大きくなく、阪神経済圏がすぐ近くにあるため、福岡や札幌のような支店オフィス需要も小さい。

高層ビルの少ない京都では、前面の通りからセットバックされたビルが少なく、歩道部分が狭く、高層ビルが目立たないにもかかわらず、道路とビルに挟まれて圧迫感が強い。京都は単に歴史的な建造物や町家が多く残るだけでなく、上のような経緯を背景として、高度成長期に建設された多くのビルの建て替えも進まないという両面で、「古びた」町という印象を与えることになっている。

■ペンシルビル、コインパーキングが多くある理由

京都は周辺部を東山、北山、西山に囲まれ、その裾野部分が殆ど風致地区に指定されている。そのため、市街化部の景観がどう変化するかは、縦横の街路で区切られた矩形の町並みから成る中心部がどのように変化を遂げるかに大きく依存するといえる。京都の景観を巡る様々な係争や議論が、市内中心部、いわゆる「田の字」地区に集中したのは、この地区がブロック単位で再開発や建て替えなどを行うことが極めて困難であったことが要因の一つである。

有賀健『京都 未完の産業都市のゆくえ』(新潮選書)
有賀健『京都 未完の産業都市のゆくえ』(新潮選書)

ちなみに「田の字」地区とは、北を御池、南を五条、東を河原町、西を堀川の通りで囲まれた地域を指す。烏丸通と四条通が矩形の中心を貫き「田」の字をかたどるのでこう呼ばれる。短冊状の一筆単位で建て直されるために、多くのペンシルビルや、歯抜け状になった多くのコインパーキングの存在が目立つ。その背景には田の字地区の大半が都心であるにもかかわらず、個人所有の住居から構成されるという京都固有の状況がある。更に重要なのは、この田の字地区の住民こそ京の町衆の代表であり、京都の政治・社会の動向に決定的な影響を与えてきた人々である。

京都の景観保護政策の厳しさは全国一であり、景観保護の努力に敬意が払われることが多い。それでも、特段の工夫をすることなく、田の字地区では現存の町家を取り壊し、建築基準・規制に従い、4~5階建て15m程度の共用住宅あるいはオフィスビルを建設することで、個人にとっては巨額ともいえるキャピタルゲインが発生する。主要道路に面する土地と合筆して建築することが出来れば、31mの高さまで許容されるから、そのキャピタルゲインは更に大きい。

市内中心部がまとまりなく雑然とした印象を与えてしまうとすれば、その少なからぬ部分はこのような建築基準や規制の変遷と個々人の利害の複合的な結果でもある。

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有賀 健(ありが・けん)
京都大学名誉教授
1950年、兵庫県尼崎市生まれ。京都大学経済学部卒。イェール大学経済学博士(Ph.D.)。専門は労働経済学を中心とした応用経済学。主著Internal Labour Markets in Japan(共著、Cambridge University Press, 2000)。甲子園でソロムコのサヨナラ安打を見て以来のタイガースファン。愛読書はル・カレ、C.カミング、L.オスボーンやF.ブローデルの作品。

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(京都大学名誉教授 有賀 健)

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