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「ねえ、ラブホいかへん?」夜の街で家出少女に声をかけられた牧師はどう答えたか【2023上半期BEST5】

プレジデントオンライン / 2023年9月20日 18時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bhidethescene

2023年上半期(1月~6月)、プレジデントオンラインで反響の大きかった記事ベスト5をお届けします。社会部門の第2位は――。(初公開日:2023年1月12日)
牧師の沼田和也さんは、中学生ぐらいの家出少女から「ねえ、ラブホいかへん?」と声をかけられたことがある。夜行バスの出発を待っていた沼田さんは、少女を救おうと教会の同僚を呼び出すが、反対に「今、この子を引き受けて責任とれます?」と問い詰められる。その後、少女はどうなったのか――。

※本稿は、沼田和也『街の牧師 祈りといのち』(晶文社)の一部を再編集したものです。

■「わたし小さいとき教会行ったことあるんよ」

帰省先での用事をどうにか済ませ、わたしは故郷の繁華街で夜行バスを待っていた。もう7時はまわっているはずだが、まだまだ空は明るい。乗車までだいぶ時間もある。わたしは石段に腰を下ろし、鞄から本を取り出して読んでいた。

ふと目の前に、わたしを見おろすように人が立つ気配がした。通行人とは明らかに異なり、その人物は“わたし”の前にいる。目を上げると、わたしから一歩もないほどの近さに、いつの間にか中学生くらいの少女が立っている。髪の毛は何日も洗っていないのか、頭にぺったりくっついている。血色はいいが、顔は汚れている。首元が緩んで伸びたトレーナーは垢じみて汗臭い。

彼女はわたしの目をじっと見て、言った。

「ねえ、ラブホいかへん?」

「わるいな。おれ、これでも牧師やねん。君、どうしたんや?」
「ええっ牧師さん⁉ わたし小さいとき教会行ったことあるんよ。教会学校、楽しかったなあッ クリスマス会やったよ。あとね、イースター! 卵探ししたなァ」

勢いよく話しだすと、彼女はわたしにくっつくようにぺたんと腰をおろした。どうやら育った環境それ自体は貧困家庭ではなかったらしい。塾やピアノなどに通わせてもらえるていどには、経済的にも豊かであったようだ。それに、教会への抵抗のなさ。クリスマスはともかく、イースター恒例の行事まですらすら話してくれることから、彼女はけっこう長いあいだ教会に通っていたことが分かる。そんな彼女がいったいどういう事情で今、見知らぬ男をラブホテルに誘おうとしているのか。

■「知らんわ。あんなとこ家ちゃうし」

「まあ、言いたくなかったらええんやけど。家帰らんの?」
「知らんわ。あんなとこ家ちゃうし」

彼女はそういうと黙り、繁華街を歩く人々を見ている。スーツ姿で腰掛けるわたしと、そのわたしにくっついて座る彼女との組み合わせ。道行く人々はちらりとこちらを見ると、わたしたちをよけて歩き去っていく。

雨の夜の人々
写真=iStock.com/shadrin_andrey
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/shadrin_andrey

しばらく話していたら、彼女は「ああ、つかれたわ、ほんま」と、いきなりわたしの膝に頭をのせた。通行人の刺すような眼が気になる。とはいえ彼女を追い払うわけにもいかないし、どうしたらいいのだろう。いま警察を呼べば、とたんに彼女は逃げていなくなるだろう。わたしは彼女に膝枕を貸したまま、途方に暮れてしまった。

「なあ。ずっと家帰らんのやったら、君はどうやって生活しとん」

わたしの膝枕から彼女が応える。

「男に金もらったり、ホテルに連れてってもらったりして。そこでご飯食べたり、風呂はいったりしとんねん」
「なあ……そのうち襲われるで。いや、セックスのことやない。殴られたり蹴られたりな、お金とられたり。それと病気うつされてまう。妊娠してまうかもしれんぞ。誰か友だちおらんのか?」
「おるよ。いっしょに集まったりするよ」
「そいつら、君のこと心配しとうやろ?」
「さあ……してへんよ。みんな同じことしとうし。みんなで集まってな、そこからそれぞれ行くねん。男と別れたら、また集合する」

■助ける方法を必死に考えて

「みんな」同じことをしているが、おたがい誰のことも心配しないらしい「みんな」。わたしの言葉に応じる彼女は、わたしのことをいちおう信用してくれたのかもしれないが、潜在的にはわたしへの警戒を怠っていないかもしれない。それと同じように、彼女は自分と同じ境遇の友人たちを、友人ではあるがしょせんは他人と捉えているようだった。友人たちも客の男たちも、わたしも同じ。いつ裏切られるか分からない。最後に頼れるのは自分だけ。そういう「みんな」。自分以外の全員、当然わたしも含んだ「みんな」。

わたしはそっけなく話すふりをしながら、頭はフル回転させていた――落ち着け。彼女を助ける方法を考えろ。考えあぐねた結果、わたしは話が通じそうな同僚に電話をかけてみることにした。もちろん彼女に許可はとった。

「そいつなら君のこと、なんとかしてくれるかもしれへんから」
「うん、ありがとう」

彼女は素直にうなずいた。

■おだやかで痛ましい寝顔

同僚はわたしからの急な電話に、あわてて着替えでもしているのか。それほど遠くはないはずなのだが、姿を現すまでの時間は長かった。待っているうちに、彼女は膝枕のうえで寝息を立て始めた。日ごろの疲れがたまっているのだろう。おだやかな寝顔がむしろ痛ましい。まだ中学生くらいの子ども。街中を歩いている学生たちと、なにも変わらない寝顔。

同僚を待ち続ける時間はねっとりと長く、苦痛であった。やがて遠方から同僚が歩いてくるのが見えたとき、粘っこく張りついた空気は霧消し、わたしは安堵(あんど)した。ところが彼のほうはといえば、わたしに気づくと驚いたように駆けよってきた。

「これはどういうことです」

どうやらわたしの膝枕状態を誤解してしまったらしい。わたしは誤解を解くよりは事情を説明したほうが早いだろうと、彼にこれまでの経緯を話した。彼女も目を覚まして、彼を見上げた。

■「今、この子を引き受けて責任とれます?」

残念なことに、話はわたしの思いもよらぬ方向へ進んでいった。彼は彼女にではなく、わたしに向かって説得を始めたのである。

「難しいですよ、やっぱり。たしかに、この子は厳しい立場だと思います。でも今、この子を引き受けて責任とれます? なにかあったらどうするんです?」

沼田和也『街の牧師 祈りといのち』(晶文社)
沼田和也『街の牧師 祈りといのち』(晶文社)

彼女の顔がこわばりはじめた。彼女は立ち上がり、わたしと彼との論争を、こぶしを握って聴いていた。

わたしは彼と論争しながら、ちらちら彼女のほうを見る。

「いや、だいじょうぶだから。必ずなんとかするからね」

だが、もうだめだった。彼女とわたしとのあいだには、膝枕のときには考えられなかった、なにかとてつもないものが立ちはだかっていた。彼女はわたしの顔から眼をそらさず、少しずつ、少しずつ後ずさりし始めた。まるで野良猫が人間を警戒するように、その野生の鋭い眼をそらさず、少しずつ、少しずつ。どうすればいいのか。彼女を引き止められないか。同僚を納得させることはできないか。

■雑踏の中へ逃げていった少女

「この子を今晩だけでもいいから、とりあえず泊めてくれませんか。それで明日以降、福祉につないでもらえたら。それだけでもいいんですけど。ほんとうはわたしがそうしたいんだけど、あしたは幼稚園の仕事もあるから、バスには乗らないといけないし」
「無理ですよ。それにもう夜です。未成年者を親にも警察にも言わず、勝手に教会に泊めることはできません。わたしもあなたも男性ですよ? そんなことが露見したら、教会の社会的信用にかかわります。彼女に親の連絡先を尋ねてください」
「いや、親には連絡できない。彼女は親には会いたくないと言っている。警察のことも警戒している」
「やっぱり警察に連れて行きましょうよ。警察に保護してもらうしかない」

夜行バスの時間は迫っていた。呼ぶべき同僚を誤ったのか? いや、彼が言うことももっともだ。彼女が大人だったら、彼も教会に宿泊させることに同意したかもしれない。だが中学生である。ここは近代以前のキリスト教世界ではない。牧師の独断で未成年を、誰にも告げず教会に泊めることなどできない。やはり最初から警察を呼ぶべきだったのか?(緊急時に24時間体制で対応する児童相談所の窓口があることを、当時のわたしたちは知らなかった)

そのあいだも彼女は少しずつ後ずさりを続けた。やがて、わたしたちが追いかけても逃げきれるほどに遠ざかると、彼女は繁華街の雑踏へとあっという間に姿を消した。バスは到着し、同僚に見送られながら、わたしはステップに足をかけた。

■いったいどうすればよかったのか

なにもできなかった――夜行バスに揺られながらシートの背もたれを倒し、わたしは目をつむる。まぶたのうらに彼女の、幼さの残る屈託のない笑顔が浮かぶ。同時にわたしを突き刺すように見る、あの二つの野生の眼が。弾むように話す声と、息を殺す沈黙。わたしの膝の上で安心して眠るまぶたと、警戒に光りつつ後ずさる細い眼。

「なにもできないくせに、なぜ、わたしにやさしくした?」
「うらぎり、ぜつぼうさせるために、わたしをしんらいさせ、きぼうをもたせたのか?」

■わたしは彼女の教会を壊してしまった

彼女は幼い頃教会に通ったと言っていた、心から懐かしそうに。今は大嫌いになった親に、連れられて通ったのだろう。だが、少なくともその思い出を、彼女は楽しそうに語ったのだ。彼女にとって記憶のなかの教会は楽しく、なにより安心できる場所だったのである。だからわたしが牧師だと分かったとたん、彼女はわたしを客の男ではなく、頼れる大人として安心し信頼した。彼女はわたしに、思い出の教会を見たのだ。

キャンドル
写真=iStock.com/Chinnapong
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Chinnapong

わたしの膝の上で寝ていた彼女は中学生ではなく、まだ教会に通っていた頃の、幼い女の子だったのだ。親を憎み、家での居場所を失い、男性客を求めて夜の街をさまようようになる前の、あの幼い頃に通った教会を、彼女はわたしの膝に感じていたのだ。

だがわたしは、そんな彼女にとっての教会を破壊した。牧師と牧師が彼女を押しつけあう醜態をさらしたのである。それだけはやってはいけないことだった。彼女が野生の眼を光らせたとき、教会も彼女の居場所ではなくなった。彼女は今後二度と教会には近寄らないだろう。彼女は二度と牧師を信用しないだろう。

■別の答えを探し続けて

責任もとれないのに、わたしはその場だけのいい格好をしようとした。そして責任の所在という重い問題が頭をもたげるや、保身に走ろうとした。それでも、わたしはずるずると考え続けている。「責任をとれないことはやらない」でいいのだろうかと、往生際の悪い悩みを悩み続けている。もう答えは出たではないか。無責任の結果がこのざまである。

それにもかかわらず、わたしは未だに別の答えを探し続けているのだ。彼女を拒絶することは、「責任をとれないことはやらない」という意味では正しい。ただし、「責任をとれないことはやらない」という意味で“のみ”正しい。言っておくが、わたしはあの少女とかかわりを持ったことを正当化したいのではない。わたしが彼女と出遭ってしまったとき、そこには、後先を考えずに応答せずにはおれないなにかがあった。決してうまくやり過ごしてはならない、かかわりの意志へとわたしを衝き動かすなにかが存在したのである。

■予期せず遭遇する他人とのかかわり

わたしの神学部時代の恩師が、かつてこんなことを言った。

「人との出遭いは、交通事故のようなものだよ」

交通事故は予測可能なら起こらないものだ。起こって欲しくもない。それは唐突に、自分の思いなし一切を突き破って起こる。事故を起こしたら、救急車や警察を呼ぶなどしなければならない。放置して逃げたら、それは犯罪である。事故に巻き込まれること。それは自分の意志とは無関係に、その事故にかかわらざるをえなくなることである。わたしは彼女と交通事故を起こしたのかもしれない。その場を立ち去ることは、彼女を轢き逃げするに等しいことだ。ただ、わたしは現場での対処を過った。それも、彼女に対して致命的に。

わたしは予期せず遭遇する他人に対して、どのていど責任をとれるのだろうか。そこで語られる責任とはなんだろうか。わたしたちは、究極的には自分の人生を生きるしかない。自分の人生の責任を他人に負ってもらうことはできない。また、他人の人生におけるあれこれの結果を、その人の代わりにわたしが出してやることもできない。

■他人の人生の結果までは背負えないが…

あの少女がどんな人生をその後歩んでいるのかは分からない。だが、もしもあのとき「適切に」かかわることができたとしても、それは彼女の人生を、彼女自身の代わりに善くしてやったことにはならない。わたしとのかかわりを善いか悪いか判断し、行動を起こすのは、けっきょくのところ彼女自身なのだ。彼女の人生を生きるのは彼女自身だからである。

もしもわたしがあのときバスをキャンセルして彼女とかかわり続けたとしても、それでも、わたしは彼女の人生に現われ出るもろもろの結果について、責任をとることなどできなかっただろう。

ただ、他人に対して責任を負いきれないということは、他人に対して無責任であってもよいこととイコールではない。他人に対してあらゆる意味で責任をとれないということになれば、そもそも責任という言葉が無意味になってしまう。他人と約束を交わすこともできなくなる。わたしはたしかに、他人の人生の結果までは背負えないという意味において、他人に対して無責任にかかわっている。だが、いちど他人とかかわったなら、その人のことが頭の片隅にこびりつき続けるだろう。

■最後の責任は神がとってくれる

わたしたちの業界では「○○さんのことを覚えて祈る」という。それは「○○さんの状態が改善しますように」と言葉に出して祈ることだけではない。忘れようとしても忘れられず、いつまでも頭にこびりついており、「あの後、あの人どうなったかな」と気になり続けている、そのこと自体が祈りなのである。

この少女の責任を、あなたはとれるのですか。その問いに当時のわたしはひるんだ。だが今なら、こう答えるかもしれない。

そうです、責任はとりきれません。でも、この人にかかわってみようと思います。わたしは自分のできる限りのことをします。最後の責任は神がとってくれますから。

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沼田 和也(ぬまた・かずや)
牧師
1972年生まれ。兵庫県神戸市出身。高校を中退、引きこもる。その後、大検を経て受験浪人中、1995年、灘区にて阪神淡路大震災に遭遇。かろうじて入った大学も中退、再び引きこもるなどの紆余曲折を経た1998年、関西学院大学神学部に入学。2004年、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。そして伝道者の道へ。2015年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院。現在は東京都の小さな教会で再び牧師をしている。Twitterはこちら

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(牧師 沼田 和也)

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