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寝たきり認知症の祖母の頭髪に大量のノミがわいていた…「お嬢様育ちの母は父と私を罵倒し、祖母を虐待した」

プレジデントオンライン / 2023年9月23日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/golubovy

50代の女性の母親は、地方の名家の分家に生まれ育ったお嬢様。母親と祖母は30歳の時に婿入りしたメーカー勤務の父親を「ボンクラ」とバカにして、長男のみを寵愛。長女である女性には「産むんじゃなかった」と吐き捨てた。その後、同居する母方の祖母が認知症になったが、家事も育児もできず山岳宗教にハマる情緒不安定な母は祖母を虐待。祖母は死の間際、婿と女性「私の育て方が悪かった。許してくれ」とつぶやいた――。
ある家庭では、ひきこもりの子どもを「いない存在」として扱う。ある家庭では、夫の暴力支配が近所に知られないように、家族全員がひた隠しにする。限られた人間しか出入りしない「家庭」という密室では、しばしばタブーが生まれ、誰にも触れられないまま長い年月が過ぎるケースも少なくない。そんな「家庭のタブー」はなぜ生じるのか。どんな家庭にタブーができるのか。具体事例からその成り立ちを探り、発生を防ぐ方法や生じたタブーを破るすべを模索したい。

■長男教の祖母と母親

九州在住の小栗知世さん(仮名・50代・既婚)の母親は、世間知らずのお嬢様だった。父親(小栗さんにとっての祖父)を3歳で亡くしたため、祖母(小栗さんの曾祖母)と母親(小栗さんの祖母)の、女性ばかりの手で大切に育てられた。地元では有名な名家の分家だったこともあり、地域でも“お嬢様”扱いだった。

小学校低学年の時に終戦を迎え、女学校を出たあとは、本家のコネでお役所の仕事に就き、30歳目前でお見合いをして結婚。メーカーの事務方に務める同学年の婿養子を迎えた。その1年後、待望の長男が生まれ、その3年後、小栗さんが生まれた。

「私が物心ついたときは、兄が一家の長で父は小作人扱い。兄が生まれたとき、母親だけでなく、祖母も曾祖母も大喜びしたのに対し、私が生まれたときは、『ああ、男の子なら良かったのに。女の子は何にもならん』と、ため息をつかれていたと父から聞きました」

曾祖母は小栗さんをかわいがってくれたらしいが、小栗さんが物心つく前に亡くなったため記憶にない。反対に、祖母は小栗さんをまるでいないもののように扱い、目を合わせて会話をしてくれたことがないほどだった。

祖母の言いなりの母親も、兄ばかり大切にし、小栗さんをあまりかわいがらなかった。

「女の子はどうでもいい。いらない。男なら良かったのに。産むんじゃなかった。などは、頻繁に言われては傷ついていました。母は相手が深く傷つく言葉を知っていて、あえてそれを口に出すような人でした」

幼い頃の兄は病弱で、入退院を繰り返していたため、母親は兄につきっきり。料理や掃除、洗濯など家のことの大半は祖母がやっており、母親は祖母の家事をサポートするほか、家の中でシール貼りの内職をしていた。

「幼い頃に実母を亡くした父は継母に育てられ、厄介者として追い出されたような形で結婚したようです。祖母と母に聞きましたが、『うちに負い目のある婿なら、こちらの思い通りになるだろう』と考え、祖母が母の婿に選び、母は祖母に従ったそうです」

まともな親が、大切に育てた娘にそんな相手をあてがうだろうか。それとも、半世紀以上前なら、珍しくないことだったのだろうか。

祖母と母親は、度々父親を「母親のいないかわいそうなボンクラ」「お父ちゃんはバカ」となじるため、夕飯の食卓は荒れた。父親が星一徹さながら、ちゃぶ台をひっくり返すことは日常茶飯事で、次第に父親は家に寄り付かず、外で飲んでくるようになっていった。

一方母親は、若い頃から情緒不安定な人だった。

「私が物心ついた頃からすでに母は、周囲の気を引くためなら平気で嘘をつきました。特に、ポリープができたとか下血が出たなど、同情や心配を誘うような嘘を頻繁につきました。あり得ないほど見栄っ張りで、自分の思い通りにならないと、金切り声を上げて泣きわめいていました」

しかも母親は、兄が幼い頃、身体が弱く、何度も入退院を繰り返したことがきっかけで、ある山岳宗教にのめり込んでいた。

父親はそんな家庭に嫌気がさし、自暴自棄になったのだろうか。小栗さんによれば、もともと働き者で頭の回転も早く、手先が器用な人だったが、転職を繰り返し、ギャンブルやアルコール依存症に陥り、借金までするようになっていた。

「父の実家は資産家で、厄介者の父を婿に取る代わりに経済的に援助してもらう……という交換条件が祖母との間で交わされていたようです。人身売買のようなものですね。私の教育資金も、父の実家から出してもらいました。若くして祖父を亡くしている祖母に対する同情もあったのだと思いますが、父の実家以外にも、曾祖父の兄弟の家からもちょこちょこ援助してもらっていたようです。私の一族は、一族の女子が結婚後に外で労働するということを恥としていたため、母は外で働けなかったのです」

■まともじゃない名家

祖母が元気な頃は、祖母が家事全般と庭の手入れ、畑仕事の一部を担い、家の中も外もきちんと片付いていた。だが70歳を超え、徐々に衰え始めると、家の中はあっという間にゴミ屋敷になっていった。家では猫と犬を飼って祖母がしつけていたが、小栗さんが小学校に上がる頃には、母親がむやみに餌をやるせいか、野良猫が大量に住み着き始めていた。

「母は掃除の習慣がない上に、洗濯もめったにしないし、何でも記念に取っておくし、野良猫が多いときは20匹ほどいましたので、家の中は随分不潔だったと思います。時々入院して、病院の真っ白なシーツのベッドで眠れて、おいしそうな病院食が食べられる兄がうらやましくて、私も入院したいと本気で思っていました」

好奇心旺盛でカメラを覗き込むネコたちのグループ
写真=iStock.com/shaunl
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/shaunl

小栗さんの家では、毎日の歯磨きや入浴の習慣のみならず、毎朝の洗顔や身だしなみを整えるということがなかった。病弱な兄が風邪を引きやすいため、母親が信仰する宗教の教えに従い、縁起を担いで水を使うことを控えていたのだという。

小学校の高学年になると、小栗さんはクラスメートから影で「不潔」と言われていることに気づいていた。しかし小栗さんは、教師たちの言うことをよく聞き、成績も優秀だったため、教師たちに守られていた。

「いつも学級委員長や生徒会などの大きな役を任せられ、先生たちから人前で褒めてもらっていました。やはり、そうすると母の機嫌が良くなるので、無意識のうちに頑張っていたんだと思います。『不潔』と言われることには傷ついてはいましたが、無視できていました。でも、2人組になる時はいつもあぶれていましたし、何となく浮いている自覚はありました」

優遇されていたはずの兄でさえ、ことあるごとに「うちはおかしい。まともじゃない」と言った。

「うちは家族で旅行に行ったことも、家族で外食したこともなかったので、友達から家族だんらんの話を聞く度に驚かされましたし、友達の家に遊びに行くと、家の中のきれいさにびっくりしました。自分の家は名家だと母や祖母から毎日のように聞かされていたので、不思議でたまりませんでした」

小栗さんは家庭科の調理実習で習ったものは、必ず家で作り、家族に振る舞った。

「祖母の料理は醤油と砂糖を使った甘すぎる煮物が多く、正直おいしくなかったので、少しでもまともに暮らしたい一心でやっていました。柔らかくて辛くないものなら祖母も食べてくれましたが、家族全員がそろった状態で食べてもらえたことはなかったと思います……」

■歪な家族

母親は小栗さんが初潮を迎えると、「縁起が悪いから、兄ちゃんの近くに行ったら許さないよ!」と邪険にし、体つきが女性らしくなってくると、「あんた気持ちが悪いね。水商売でもするのかね」と言い放ち、なかなか女性用の下着を買ってくれなかった。父親は、小栗さんが祖母や母親にひどいことを言われていても、助け舟を出したことは一度もなかったが、さすがにこのときは放っておけなかったのだろう。父親が下着売り場に連れて行ってくれて、女性用の下着を買ってもらうことができた。

下着売り場でブラジャーを選ぶ女性の手元
写真=iStock.com/Kanawa_Studio
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Kanawa_Studio

一方、兄は成績も運動神経も良く、母親の自慢の息子だった。しかしそんな兄に対して、父親は当てつけのように暴力を振るった。兄の友達が遊びに来ているときでもお構いなしに、機嫌を損ねると兄に直接手を出すだけでなく、友達と遊んでいたトランプを取り上げて、くみ取り式便所に投げ捨てたりした。

母親は兄には成績のことは言わなかったが、小栗さんには執拗(しつよう)に口を挟んだ。兄は中学卒業後、私立の名門男子校に入学し、そこで成績は上位2割には入っていたが、小栗さんは公立の高校に進学し、上位1割に入っていた。それなのに、テストで100点でないときや、クラスで1番でないときには、「私の同級生の子どもに負けるなんて悔しい! 恥ずかしい!」「私は誰にも負けなかったのに、お前はバカだ!」と金切り声をあげながらヒステリックになじり、答案用紙を破かれた。

兄は、父親が自分にだけつらく当たり、妹の小栗さんにはそうではない理不尽さに耐えきれなくなったのだろうか。それとも、母親に虐げられながらも、トップクラスの成績を維持する妹を脅威に感じたのだろうか。高校生くらいの頃から、「お前は役立たずだ」「社会に出ても使えない」「他の女子の引き立て役だ」などと言ってくるようになった。

小栗さんが大学受験を迎えると、母親は毎日のように、勉強する小栗さんの横で、「おまえは落ちる。兄ちゃんとは違う。お前はバカだ」と繰り返した。

「高3の秋の三者面談の帰り道で気分が悪くなり、フラフラになりながらも何とか病院に駆け込んだら、『精神的なもの』と診断されました。入試当日の朝も母がべったり張り付いてきたため、吐き気で動けなくなり、病院で点滴を打ってから這うようにして受験しました」

結果、学部は違うものの、兄と同じ大学に合格した。

■祖母の介護

少し時間はさかのぼるが、小栗さんが小学校の高学年の頃、76歳の祖母が玄関先で転倒して頭を強打し、血を流して倒れているのを早朝、新聞配達員が見つけた。新聞配達員の声に父親が気付いて祖母を助け起こし、母親が救急車を呼んだ。

時々外の井戸で顔を洗っていた祖母は、足を滑らせた拍子に井戸の囲いで頭を強打したらしい。救急搬送先の病院で入院になり、約半年後に退院。

祖母がいない間、父親が毎晩家に帰ってくるようになったため、小栗さんは「もうこのままずっと入院していてほしい」と思ったという。

しかし元の元気な祖母には戻ることはなく、階段を転げ落ちるように体が弱っていき、80歳を過ぎた頃には徘徊(はいかい)が始まっていた。

「当時私は高校生でしたが、徘徊と幻覚、幻聴が出始めたことで、祖母の認知症に気がつきました。祖母は過去に本家の同世代のお嫁さんにつらく当たられていたのか、よく家を飛び出しては、その人に『殺されるから逃げるんだ』と言っていました」

小栗さんが大学生になった頃には、祖母は完全に寝たきりになっていた。

「祖母が寝たきりになったのは、祖母の徘徊で私や両親が寝不足になって、たまらなくなった母が病院で睡眠薬を処方してもらい、祖母に飲ませたのがきっかけです。母は祖母を叩きながら無理やり食事を食べさせたり、『あんたのせいで私は不幸になった! あんたが結婚相手を間違えた!』などと金切り声を上げながら、祖母の頬を平手打ちしたりしていました」

トイレ介助は母親が拒否したため、父親がやっていた。しかし、介護に疲れたのか、父親は帰ってこない日が増え、祖母はオムツになった。金銭的にオムツを買えない経済状況のときや、父親が帰って来ないとき、小栗さんが大学の課題や実習、アルバイトで家にいないときなどは、そのまま放置されていた。

入浴は、父親が帰宅しているときに気が向けば入れてやっていたが、「水を使うと風邪を引いて死んでしまう」と信じていた母親は、祖母を入浴させたがらなかった。小栗さんが家にいるときは、濡れタオルで髪や身体を拭いてやるなどしたが、決まって母親が「やり方が悪い!」と金切り声を上げるため、すぐに中断された。

「晩年の祖母の髪にはたくさんのノミがわいていました。わが家には大量の野良猫が住み着いていたので、野良猫から貰ったのかもしれません」

接写した女性の頭皮
写真=iStock.com/greg801
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/greg801

ある晩、酒に酔った父親は、祖母の髪をすべて剃り落とし、丸坊主にしてしまう。祖母はなすすべもなく、ただ涙を流していた。

「私と父は、母の愚痴をこぼし合うことで終っていました。母を説き伏せようにもヒステリックになるばかりなので諦めてしまい、その時が来るのを待っている感じでした。母は母なりに、一生懸命介護していたようですが、衛生面で無頓着な上に、認知症であることを恥じて、介護サービスは拒否しますし、なかなか病院に連れて行かないので床ずれもひどい有様でした。父や私が手助けすると、『そのやり方では罰が当たる!』などと罵倒されるので、手を出せないのです。母は途方に暮れると、神さまにお祈りばかりしていました……」

いつしか父親は、「井戸で倒れていたときに助けなければ良かった」と言い、祖母は「もう殺してくれ」と懇願するようになっていた。

祖母が歩けるうちは近所の病院に連れて行っていたが、寝たきりになってからは一度だけ、床ずれで訪問診療を受けたのみ。

そのとき床ずれは骨が見えるほど悪化しており、「よくここまで放っておけるね」と医師は驚いていた。しかし幸いなことに、その医師の勧めで、訪問介護体験を受けることになる。

「閉ざされた家に第三者の救いの手が入ることで、家の空気がガラリと変わり、夢のように気が楽になりました。この頃は祖母も嬉しそうにしていました」

訪問介護体験を受け始めてから1カ月ほど経った夜、祖母は様態が急変して入院し、3週間ほどで亡くなった。死因は老衰。89歳だった。

「祖母は晩年、私や父に、『私の育て方が悪かった。一人娘でかわいそうに思って甘やかしたら大変な事になった。許してくれ』と何度も言いました。祖母の死は、私は自分でも驚くほどショックでした。意外なことに、父もひどく悲しんでいて、母は『なんで死んだんや』と泣きながら繰り返していました。あんなに虐待しておいて、何を今更と思いました。めったに家に寄り付かず、少しも介護をしなかった兄はいつも通りでした」

祖母の死後、社会人になっていた小栗さんは、不眠症から網膜剥離になり、2カ月間の休職を余儀なくされた。物心ついたときから重圧をかけ続けてきた祖母からついに解き放たれたことによって、一時的に精神的バランスを崩したのかもしれない。(以下、後編へつづく)

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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