明智光秀の娘ゆえ「女城」に幽閉…石田三成の人質になることを拒み、死を選んだガラシャ夫人の壮絶な人生
プレジデントオンライン / 2023年10月7日 8時15分
※本稿は、北川智子『日本史を動かした女性たち』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。
■17世紀のオーストリアでオペラのヒロインになったガラシャ
1600(慶長5)年、関ヶ原の合戦の直前に、ある女性が自ら命を絶ちました。その女性はガラシャと呼ばれ、彼女の存在はヨーロッパにも伝わり、ラテン語でオペラにもなっています。
オペラのタイトルは“Mulier fortis, cuius pretium de ultimis finibus, sive Gratia Regni Tango Regina exantlatis pro Christo aerumnis clara.”
短くは、Mulier fortis、つまり、『強い女』というタイトルです。
ガラシャの日本語名は玉でした。彼女は明智家に生まれ、細川忠興の正室となりました。父の明智光秀が1582年に信長を暗殺した後、その仇を討った秀吉が台頭してきます。明智家の出である彼女は今までどおりに暮らすことが難しくなり、夫や細川の一族から断絶され、京都の丹後の山奥、味土野に幽閉されることになりました。
■名門細川家に嫁いだが、父の光秀が謀反を起こし幽閉される
幽閉された場所は後に「女城(めじろ)」と呼ばれるように、玉と彼女の侍女だけが暮らす孤城です。彼女たちの護衛さえも、女城からは離れた丘に建てられた「男城(おじろ)」に詰めているという徹底した幽閉状態でした。玉の侍女としては、学識のある名家の清原家から、いとという女性がそばについていました。清原いとの父は儒教の学者でありながら、いち早く1560年代のはじめにクリスチャンの洗礼を受けていました。
玉の幽閉期間は1年以上に及びます。1584年に豊臣秀吉が細川忠興に玉との復縁を許すと、細川から豊臣への人質として、大坂に建てられた細川邸に住むようになります。丹後の山奥での幽閉を解かれたものの、玉は大坂でも、自由に身動きがとれない軟禁状態に置かれます。
大坂で玉が住むことになった邸宅は、豊臣期に栄えていく大坂城下にあり、後に秀吉の正室・ねねが管理権を持つ玉造という地域にありました。大坂の町が栄えてくる時代を、玉は、侍女とともに大坂で過ごすことになります。
大坂に引っ越してからは、屋敷に軟禁とはいえ、女城の時よりは、外界と接触できたようです。城下町に広がるキリスト教の布教の様子を玉も知ることになり、玉は徐々にキリスト教に感化されていきます。当時、ねねが大坂城内にキリシタン名の侍女を持っていたように、高貴な身分の女性たちは、イエズス会の布教活動に触れる機会があったのです。細川邸からも、玉の侍女たちが大坂の教会に通うようになり、また玉自身も、侍女たちとともに大坂の教会に一度だけお忍びで出向きました。
■軟禁状態からひそかに教会に通い、キリスト教に感化された
もちろん、玉が勝手に邸宅を出ることはできません。それでも玉は、一度だけでも教会に足を運んでおきたかったのです。宣教師を訪問後、玉は侍女を教会に送り、その侍女から教会での説教を聞くようになります。そうしているうちに、侍女のうち、父親もキリスト教徒だった清原いとが、イエズス会の宣教師グレゴリオ・デ・セスペデスから洗礼を受けマリアという名を得ます。他の侍女も同様に洗礼を受け、玉の幼少期の乳母までもが入信しました。ごく自然に玉自身も、なんとか洗礼を受けられないだろうかと考えるようになります。
しかし、彼女は大坂で軟禁状態にあります。宣教師も含め、男性に会うことは禁止されています。そこで玉は、宣教師からではなく、いとから洗礼を受ける形で、クリスチャン・ネームであるガラシャの名を得ることにします。彼女の入信は1587年のことでした。
1600(慶長5)年に、秀吉没後の一連の権力闘争が目にみえる形で始まります。石田三成を筆頭とする、徳川に反発する軍が、細川忠興にどちらの味方になるのかと身の振り方を迫ります。石田側につくのか、徳川側につくのか。迷う忠興を横目に、石田側は忠興の妻を人質として取ることで忠興の動きを牽制しようとします。
ガラシャは人質となることを拒否しましたが、それにより石田側の実力行使で細川家の人々に害が及ぶことを避けて、自宅で死を遂げる覚悟をします。ガラシャは心を固め、辞世の句を詠みます。
■ヨーロッパにも殉教者として伝わったガラシャの最期
ガラシャは屋敷内の侍女を逃避させ、キリスト教では自害が禁止されているため、家臣に介錯を頼み、力尽きたといいます。日本にいたイエズス会の宣教師は、洗礼を受けていたガラシャの置かれた当時の状況を知り、詳細を手紙に書いてヨーロッパへ伝えていました。そうして、その報告によってガラシャの最期は「丹後の女王(Regina)の殉教」として、ヨーロッパに伝わっていったのです。
細川の家が支配していた丹後は、ガラシャ本人が父から受け継いだ土地でした。1度は女城に幽閉され憂き目も見た場所ですが、ガラシャが「丹後の女王」と呼ばれるようになった所以です。
それにしても、彼女のオペラのタイトルがMulier fortis、つまり彼女が『強い女』として劇化されたことは、当時の時代と文化を反映しているように思います。異国の女性のキリスト教への敬虔(けいけん)な姿が、人々の心を揺さぶったのでしょう。
ガラシャに関しての想像や脚色はあったとしても、彼女の死から98年後の1698年、オーストリアのウィーンで日本の「強い」クリスチャンの女性のオペラが上演されていたのは事実であり、ハプスブルク家の貴人たちがガラシャのオペラを鑑賞していたのです。
■キリスト教徒として生きることを選んだねねの養女・豪姫
ガラシャが命を絶つ時に、彼女の周りにいた細川家の女性を助けるよう指示したと言われているのが、ねねと秀吉の養女の1人、豪です。
豪は、加賀藩を治めていた前田利家とまつの子供です。彼女は1574(天正2)年の生まれで、数え2歳の時、秀吉とねねの養女として豊臣家に来ました。ねねと秀吉が最初の居城、長濱城に引っ越す前のことで、まだまだ、天下統一からは程遠い1575年頃のことでした。秀吉に特に可愛がられて育った豪は、ねねと一緒に大坂城に移ります。
賑やかな大坂城で少女時代を過ごした彼女の周りには、母親であるねねとその侍女がいました。ねねは仏教徒だったとはいえ、イエズス会士が伝道するキリスト教にも興味を持っていました。真実かはわかりませんが、1595年10月20日付のフロイスの1595年度年報には、キリスト教が仏教や神道より優れていると言った、と伝わっています。次のようなエピソードがあります。
■「キリストは優れている」と持論を展開した秀吉の正室ねね
……(高山)ジュスト(右近)の母(マリア)は、太閤様の夫人で称号で(北)政所様と呼ばれている婦人(ねね)を訪問するために赴いた。そこで他の貴婦人たちがいる中で、(ねねに)非常に寵愛されていた2人のキリシタンの婦人たちの面前で、話題が福音のことに及んだとき、(北)政所様は次のように言った。
「それで私には、キリシタンの掟は道理に基づいているから、すべての(宗教の)中で、もっとも優れており、またすべての日本国の諸宗派よりも立派であるように思われる」と。
そして(ねね)は、デウスはただお一方であるが、神や仏はデウスではなく人間であったことを明らかに示した。そして(ねねは)、先のキリシタンの婦人の1人であるジョアナの方に向いて、「ジョアナよ、そうでしょう」と言った(ジョアナは)「仰せのとおりです。神は日本人が根拠なしに勝手に、人間たちに神的な栄誉を与えたのですから、人間とは何ら異なるものではありません」と答えた。
それから(北)政所様は同じ話題を続けて次のように付言した。
「私の判断では、すべてのキリシタンが何らの異論なしに同一のことを主張しているということは、それが真実であることにほかならない。(その一方、)日本の諸宗派についてはそういうことが言えない」と。
これらの言葉に刺戟(しげき)されて、別の婦人すなわち(前田)筑前(利家)の夫人は、称賛をもって種々話し始め、あるいはむしろ我らの聖なる掟に対して始めた称賛を続けて、すべての話を次のように結んだ。「私は私の夫がキリシタンとなり、わたしが(夫の)手本にただちに倣うようになることを熱望しています」と。
(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第1期第2巻、83〜84頁)
※一部、括弧の注は著者による。
■豪姫は戦国の世で最も自由に生きられた女性かもしれない
イエズス会士ルイス・フロイスがヨーロッパへ書き送った1595年の日本年報に、ねねは侍女だけでなく、高山右近の母や前田利家の妻と、ゴスペル(福音)について議論を交わしているというのです。
仏教と神道。その2つが混じり合った土着信仰は、当時の日本列島の各地にありましたが、そこに、キリスト教という異国の神が入ってきた時に、排除せず受け入れるというのは誰もが容易にできたことではなかったはずです。キリスト教に接することや、信じる理由は様々でしたが、ねねの娘の豪は、のちにキリスト教に改宗します。
豪は八郎(宇喜多秀家)との結婚の後息子2人をもうけますが、その2人は豪よりも早く洗礼を受けました。豪の父秀吉は、伴天連(ばてれん)追放、つまり、初めは容認していたイエズス会の活動を突如認めない方針を打ち出し、この決断を発端に、日本でのキリスト教弾圧はしばらく続くことになります。
日本のキリスト教徒が国外に追放されたり、公開処刑にまであうとても危険な目にさらされている時勢だったにもかかわらず、豪は信仰心とともに生きました。
豪のクリスチャン・ネームはマリアでした。母のねねのように仏尼にならず、キリスト教徒として生きることを彼女は選びました。そして、1600年代、当時、教会があった生まれ故郷の金沢に引っ越します。
豪は秀吉の周りにいた女性たちの中では、一番自由な選択をしたように思えます。名家に生まれ、名家に養われ、名家に嫁ぎました。それなりの苦労はあったでしょうが、信仰を選び、信仰を貫ける基盤が彼女には与えられていました。
戦国時代の女性たちの様々な要素の中でも、「日本人女性としてこうあるべきだから」という基準で決断をしていないところに、私は魅力を感じます。ねねを含め、波乱の時代を生きた女性たちは、その時代の理屈や理想に沿った生き方をしませんでした。日本の天下統一期の歴史は、女性でも男性でも、人はみな、困難なときに立ち止まってはいけないと教えてくれます。
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歴史学者
米国プリンストン大学で博士号を取得。ハーバード大学でLady Samuraiの歴史のクラスを教え、その内容は欧米や中東、アフリカを含む世界各地での講演活動へと広がっている。著書に『ハーバード白熱日本史教室』(新潮新書)、『異国のヴィジョン』(新潮社)などがある。
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(歴史学者 北川 智子)
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