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なぜ秀吉は小田原城をあっという間に落とせたのか…戦国時代最強の防御力を誇った小田原城の意外な弱点

プレジデントオンライン / 2023年9月30日 15時15分

2016年12月23日撮影、小田原城(写真=663highland/CC-BY-2.5/Wikimedia Commons)

1590年、豊臣秀吉は北条家の本拠地・小田原城を攻め、3カ月あまりで落とした。難攻不落と謳われた小田原城はなぜあっけなく落ちたのか。歴史評論家の香原斗志さんは「秀吉は圧倒的な兵力と最先端の城郭を敵に見せつけることで、北条家の戦意を喪失させた」という――。

■日本最大の城だった小田原城

戦国時代に築かれた日本最大の城はどこか。面積が広いという点では、小田原城がほかの城を圧していた。全周約9キロにわたって総構と呼ばれる城壁が築かれ、水平距離は東西2.9キロ、南北2.1キロ。城下町全体がこの城壁に囲まれ、面積は約3.48平方キロメートルにも達した。

【図表】小田原城の構成と範囲
出典=小田原市歴史的風致維持向上計画「第1章 小田原市の歴史的風致形成の背景」より

「どうする家康」の第38回「さらば三河家臣団」(10月1日放送)では、豊臣秀吉(ムロツヨシ)がこの小田原城を攻める。むろん北条氏には、この戦国最強の城に籠城すれば勝てる、という目算があったのだが、結果は敗れて戦国大名としての北条氏は滅亡する。それにしても、これだけの規模の城がなぜ落城したのだろうか。

小田原城は、明応5年(1496)から文亀元年(1501)のあいだに伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)が入城して以来、関東に君臨した北条5代の本拠地だった。天文20年(1551)にこの城を訪れた南禅寺の僧の東嶺智旺は『明叔禄』に「太守の塁、喬木森々、高館巨麗、三方に大池有り、池水湛々、浅深量るべからざるなり」と記しており、太守たる北条氏康の城は塁に守られ、壮麗な館が建ち、水を湛えた池=事実上の水堀が三方を囲んでいたことがわかる。

永禄4年(1561)には長尾景虎(上杉謙信)が小田原城に侵攻したが、北条方の籠城作戦を突破できずに鎌倉方面に退却。永禄12年(1569)には、今度は武田信玄が攻め寄せている。信玄は城下に火を放つなどしたが、結局、攻めきれずに甲斐(山梨県)に撤退した。

■対秀吉に備えてさらに守りを強化

このように、小田原城は早くから難攻不落だったが、上杉および武田の来襲を受けて外郭がさらに整備された。だが、本格的な整備は秀吉の存在を意識してからだった。

北条氏(当主は氏直だが、外交や防衛は父の氏政が担っていた)は、天正10年(1582)10月に徳川家康と同盟を結ぶと、西方の防衛を強化する必要性を意識し、北西の尾根筋を巨大な堀切で断ち切り(この「小峰山御鐘ノ台大堀切」はいまもよく残っている)、尾根の南面にあらたに堀を造成するなどした。

すでに述べた全周9キロにおよぶ巨大な防塁が築かれたのは、秀吉との関係が悪化した天正15年(1587)以降のことだった。平地では河川や湿地帯など、高台では尾根筋などの自然地形をいかして堀が掘られ、掘った土で土塁が造成された。

総構の堀の規模は場所にもよるが、ある地点の発掘調査の記録では幅16.5メートル、深さ10メートルほどで、堀底に高さが最大1.7メートルの堀障子がもうけられていた。堀障子とは堀を掘る際、一部を仕切り状に掘り残したもので、堀に入った敵の動きを制限するねらいがあった。そして堀の内側には高い土塁がそびえ、9カ所に城門が設置されていた。

そんな防塁が城下をすっぽりと取り囲んでいるのだから、簡単に落城させられないのはあきらかだった。

■小田原城での戦闘は考えていなかったワケ

当時の小田原は東日本最大級の都市だった。それをすべて城壁で囲んだのには、もちろん理由があった。籠城戦が長引くことを想定したうえで、膨大な数の兵員が滞留できる空間を確保する必要があったのだが、それだけではない。

法雲寺所蔵の北条氏直の肖像画
法雲寺所蔵の北条氏直の肖像画(写真=PD-old-100-expired/Wikimedia Commons)

兵糧を貯蓄する場所も必要だし、商人や職人を住居ごと保護して、武具のほか米や塩などを確保する目的もあった。総構の内側には田畑もあり、開戦後は多くの百姓も籠城した。これも食糧を確保する目的につながっていた。したがって、開戦後に城内に滞留した人員は6万におよんだという。

こうして万全の防衛体制を敷いた北条氏だったが、小田原城での戦闘はあまり想定していなかった。戦闘はもっぱら各地の支城にまかせ、そこで防御するうちに豊臣軍は兵糧が尽きるなどして早期に撤退する、というのが北条氏の読みだった。そうすれば戦後の和平交渉を有利に進められる、というわけだ。

このため、箱根山中の山中城(静岡県三島市)、伊豆半島の韮山城(同伊豆の国市)をはじめ、上野(群馬県)の松井田城(安中市)、沼田城(沼田市)、武蔵(埼玉県、東京都、神奈川県東部)の鉢形城(埼玉県寄居町)、八王子城(東京都八王子市)などに、一族や重臣を重点的に配置して防備を固めた。加えて、これらの城とのあいだの通信網も機能するはずだった。

■想定外だった秀吉軍の7万人

ところが、天正18年(1590)3月1日に秀吉が京都を発って以来、戦闘の行方は北条氏の想定外だった。まず3月29日、箱根山中の山中城がわずか半日で落城する。

21年前に武田信玄を撃退できたのも、武田軍が箱根を越えるのに難儀したことが大きかった。それだけに北条氏は山中城を拡張し、各曲輪を障子堀で囲んで万全の体制をとったのだが、想定を超えていたのは豊臣軍の兵員だった。北条側の4000に対し、豊臣軍は左翼に徳川家康率いる3万、右翼に池田輝政率いる2万、中央に総大将の豊臣秀次以下2万。総勢7万人で攻められたからひとたまりもない。

豊臣軍にとっても、山中城攻めは今後の戦局を占う重要な戦いであったため、多勢に無勢で攻めた。その結果、先鋒を務めた一柳直末隊は壊滅し、直末自身も流れ弾に当たって戦死したが、犠牲さえいとわなければ攻め落とせるのである。

箱根山中の北条軍はこの敗戦後、小田原へ向けて続々と退却。それを受けて秀吉の本隊が箱根を越え、箱根湯本の早雲寺(神奈川県箱根町)に本陣を置いた。早雲寺は北条氏の菩提寺だから、そこに秀吉に居座られた北条側のプレッシャーは大きかっただろう。

■丸裸になった小田原城

豊臣軍は東海道から伊豆を経由する軍と、北陸道から上野(こうずけ)を経由する軍の二手に分かれていた。そして、北陸道軍も4月20日に松井田城をはじめ上野のいくつかの城を陥落させると、武蔵に南下して河越城(埼玉県川越市)や松山城(同吉見町)開城させ、鉢形城の攻撃がはじまった。

4月下旬には浅野長吉らが小田原包囲から外れ、相模(神奈川県)の玉縄城(鎌倉市)、武蔵の江戸城(東京都千代田区)のほか、下総(千葉県北部と茨城県南部)や上総(千葉県中部)の城を攻略。5月22日には武蔵の岩付城(埼玉県岩槻市)を落とし、鉢形城攻撃に加わった。

こうして6月14日に鉢形城が、23日に八王子城が相次いで落城。小田原城の支城で落ちていないのは、韮山城と武蔵野の忍城(埼玉県行田市)だけになってしまった。

その間、小田原城はどんどん孤立していった。各地との通信網も遮断され、小田原城内にいた高城胤則が4月15付で下総の須和田神社に宛てた印判状を最後に、小田原城以内と城外で通信が交わされた記録は途絶えている。一方、小田原城の目の前まで迫った豊臣軍が北条方の軍勢に投降を呼びかける「詞戦(ことばたたかい)」は盛んになり、投降する者が現れたため、北条方は守備兵に「詞戦に乗るな」と呼びかけたほどだった。

■秀吉の周到な作戦

秀吉がこの小田原攻めに動員した兵員は22万にも達した。一方、北条氏は領国すべてから5万6000の兵を動員したとされる。この数は戦国大名による動員数としては驚異的だが、秀吉は全国の大名を動員でき、空前の22万になった。100年にわたる戦国時代には起こり得なかったこの状況を、北条氏は読めていなかった。

北条側は5万6000の多くを小田原城内に置き、残りを各地の支城に分散配備したが、これでは圧倒的な兵力の前にはまったく太刀打ちできない。

秀吉は巨大な防塁で守られた小田原城を正面から攻めても落城させるのは困難だと考えて、あえて支城から攻め落として、小田原を孤立させたのである。このため、6月22日に家康配下の井伊直政が、総構の東北面を攻撃したのを除けば、小田原城の周囲で本格的な戦闘は起きていない。

加えて、北条方に圧倒的なプレッシャーを与えたのは、秀吉が箱根の外輪山から続く尾根の稜線上の、標高260メートルの地点に築いた石垣山城だった。秀吉は早雲寺に本陣を置くと、すぐにこの山上に登って検分し、築城を命じている。

■北条側が戦意を喪失したワケ

石垣山城には「一夜城」という呼び名があるから、簡易的な城と思っている人も多いだろうが、実際には本格的な城だった。それも、秀吉自身が5月20日に浅野長政らに宛てた書状に「聚楽又ハ大坂の普請を数年させられ候ニ不相劣様ニ(聚楽第や大坂城を築城したときに劣らないように)」と記したとおり、極めて豪華な城だった。

この時代、関東地方に総石垣の城はなかった。小田原城も総構をふくめて基本的に、土を掘っては盛って固めた城で、天守もなかったと考えられる。ところが秀吉は、小田原城を望む山上に、関東ではじめての総石垣の城を急ピッチで、しかし手抜きをせずに築き、瓦葺の天守まで建ててしまった。

石垣山一夜城から望む小田原城
石垣山一夜城から望む小田原城(写真=Mocchy/PD-self/Wikimedia Commons)

6月26日、本陣を早雲寺から石垣山城に移した秀吉は、小田原城側の木々を伐採させた。一夜にして山上に現れた城を見た小田原方は、「かの関白は天狗か神か、かやうに一夜の中に見事なる屋形出来けるぞや」と仰天(『北条記』)。北条氏直は7月1日に降伏を決意し、5日に滝川雄利の陣所に投降した。

小田原城は信長が先鞭(せんべん)をつけ秀吉が発展させた、天守がある石の城とは異なり、土で固めた旧式の城だった。それでも全周9キロの防塁は、最後まで豊臣軍を寄せつけていない。とはいえ、日本中から集められた22万もの大軍に囲まれれば、どんな城も持ちこたえることができない、ということである。

付言すれば、石垣と天守がない旧式の城であるがゆえに、新時代の石垣と天守を見せられれば、かなわないのではないかと戦意が失われる。実質的な防衛力以前に、見せられた新式の城にくらべると旧式だという引け目も、敗戦につながったといえるだろう。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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