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「家康へのいやがらせ」ではなかった…最新研究でわかった「秀吉が家康を関東に追いやった本当の理由」

プレジデントオンライン / 2023年10月1日 11時15分

重要文化財「豊臣秀吉像」(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵。〈伝 狩野光信筆〉(画像=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

1590年、豊臣秀吉は徳川家康に関東への移封を命じた。歴史評論家の香原斗志さんは「よく言われるような左遷人事ではなかった。秀吉は天下統一のカギを握る重要な土地の統治を信頼のおける家康に任せたかったのだろう」という――。

■秀吉にとって家康が「脅威」というのは大げさ

小田原の北条氏が滅亡させられると、徳川家康は豊臣秀吉の命で、北条氏の旧領だった関東に国替えになり、本拠地を小田原でなく江戸に置いた――。

のちの江戸時代、ひいては首都が東京に置かれることにもつながり、多くの人に馴染み深い史実だろう。「どうする家康」の第38回「さらば三河家臣団」(10月1日放送)でも、このことが描かれる。

よく語られるのは、秀吉にとって家康という存在は脅威だったので、北条氏が滅亡したこの機会を利用して、体よく遠方に追いやったという説明だ。たしかに、そういう面もなかったとはいい切れないが、秀吉にとって家康が「脅威」だというのは、豊臣政権が強大化したこの時点では、家康を買いかぶりすぎでもある。

むしろ秀吉は、豊臣政権のなかでいまだ不安定な関東および東北を、しっかり平定して統治するために、家康の力を最大限に利用しようとした、というのが最近の研究者たちの主だった見解である。

■ショックは受けてもチャンスだった

「どうする家康」では、秀吉(ムロツヨシ)から関東に移るように命ぜられた家康(松本潤)は、ショックを受けるとともに、家臣たちにすぐに伝えられずに思い悩むようだ。

実際、家康も家臣たちもショックを受けたことだろう。縁もゆかりもない土地に移封になった大大名など、これまで例がなかったからなおさらだ。しかし、この移封のおかげで家康は力を貯え、のちの天下獲りにつながったともいえるのである。

柴裕之氏は「小田原合戦が勃発すると、徳川氏はその軍事的解決を担うべく先陣を務めた。そして合戦後、徳川氏は関東の安定と奥羽への押さえとして、これまでに積み上げてきた政治活動の実績が買われたことに加え、北条氏が敵対したことによる始末をつける意味で、戦後処理を負わされた格好となり、関東に移封されたのである」と書く(『徳川家康』)。

妥当な見解だと思われるので、ここに書かれたことの意味をひもといていきたい。

■関東のことは家康にまかせた

家康が大坂城に登城して秀吉に謁見し、正式に臣従したのは、天正14年(1586)10月27日のこと。それから間もない11月4日付の上杉景勝宛秀吉書状には、その際に家康と相談したことには「関東の儀」「八州の儀」(関八州=関東のこと)があって、その「惣無事」については家康にまかせた旨が記されている。

同様の内容は、たとえば伊達氏の重臣、片倉小十郎に宛てた秀吉の書状にも「関東惣無事の儀、今度家康に仰せ付けられ候の条」と書かれている。

要するに、秀吉は関東のことは家康にまかせた、ということだが、ここに出てくる「惣無事」については説明が要るだろう。「惣無事」とは関白になった秀吉が、大名同士の領土紛争を「私戦」として禁止したことを指す。

徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉
徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(図版=大阪城天守閣/PD-Japan/Wikimedia Commons)

秀吉は大名たちにまず「惣無事」を命じ、双方の大名がそれを受諾すれば、秀吉が領土の裁定をし、それを双方が受け入れればそこで解決する。だが、反発すれば武力討伐の対象になる、というものだった。

そして秀吉は、家康に関東の「惣無事」をまかせたのである。

■秀吉から命じられた家康の役目

そのために秀吉は、臣従した家康にまず、家康に逆らう信濃(長野県)の国衆の真田、小笠原、木曾の3氏を帰属させた。こうして徳川領国の平和を保証したうえで、関東の「惣無事」をゆだねた。その際、「惣無事」の主要な課題は、北条氏を臣従させることにほかならなかった。

秀吉は天正15年(1587)に九州を平定すると、それには従軍しなかった家康に関東(および奥羽)の「惣無事」を迫った。ところが、天正16年(1588)4月に行われた後陽成天皇の聚楽第行幸に際しても、北条氏は上洛しない。そこで家康は同年5月、北条氏政、氏直父子に宛てて起請文を送って、上洛と秀吉への出仕を促し、受け入れられないなら氏直に嫁がせた娘の督姫を返してほしい、と書き送っている。

これを受けて8月に、氏政の弟で氏直の叔父である氏規が上洛し、秀吉に北条氏の臣従の意を示した。そして年内に氏政が上洛することを約束したので、秀吉は北条氏の領土問題を裁定。真田氏が上野にもつ沼田領と吾妻領のうち3分の2を北条氏に引き渡すように命じ、これで「惣無事」は実現するはずだった。

ところが、北条氏の家臣の猪俣邦憲が、沼田領内で真田氏領のまま残っていた名胡桃城を攻め落としたため、秀吉は激怒して北条の武力討伐を決める。秀吉の決定は、先に記した「惣無事」の流れに沿ったものだった。

■秀吉が家康の実績に頼った

これを家康側から述べると、次のようになる。秀吉から関東の「惣無事」をまかされたが実現できなかった。このため、3万の軍勢を率いて小田原攻めの先陣を務めるように命じられた。

前出の柴氏は「この出陣は、豊臣政権による『関東・奥領国惣無事』活動に支障が生じた場合、家康が真っ先に軍事的解決に努めることを役割(責任)とする『奉公』であった」とし、戦後の関東移封についても「北条領国の制圧が迫るなか、徳川氏が果たす役割(責任)が関東移封という処遇だったというのが実情である」と記す(同書)。

秀吉の全国平定には、関東に君臨する北条氏が臣従することが必須だったので、家康にそれをまかせた。ところが、家康にはそれができなかったので、代わりに家康自身に関東を治めさせる。ある意味、合理的な措置である。

加えて、家康は織田政権のころから北条氏以外にも北関東の諸大名や、陸奥(青森、岩手、宮城、福島の各県と秋田県の一部)の伊達氏や出羽(山形県と秋田県)の最上氏らと外交関係を築いていた。秀吉はその実績に頼りたかったのである。

このため、秀吉は早くから、家康を関東に国替えさせることを決めていたと思われる。北条氏直が投降したのが天正18年(1590)7月5日で、家康の関東移封は7月13日に発表になったが、5月にはその噂は広がっていた。6月には秀吉と家康のあいだで合意があったと見られている。

小田原城 2018年7月
小田原城 2018年7月(写真=アルヴィンツ/CC-Zero/Wikimedia Commons)

■決して左遷人事ではない

また、本多隆成氏は「関東転封が豊臣政権による『惣無事』政策の一環であったことは、新領国の知行割に際して、秀吉の介入があったことからも知られる」と書く(『定本 徳川家康』)。

関東移封後、10万石を超えた家康の家臣は、上野(群馬県)箕輪(高崎市)の井伊直政が12万石、同館林(館林市)の榊原康政と上総(千葉県)大多喜(大多喜町)の本多忠勝がそれぞれ10万石だった。いずれも知行高から入封地まで、秀吉から細かく指示されている。箕輪と館林は北関東から奥羽へとつながる東山道中にあるなど、秀吉は関東と奥羽を統治すること念頭に、家康と家臣団を配置したことがわかる。

江戸に関しても、かつては家康が入ったころの江戸は東国の一寒村で、家康が苦労して発展させた、とされていた。しかし、それは江戸時代に家康神話を形成するためにつくられた話で、実際には、当時の江戸は各地から物資が集積する経済上の要地だった。そのうえ関東から東北に向かう主要街道の起点で、水運にも恵まれていたため、関東と東北を抑える要地として、秀吉は家康を江戸に入部させたのである。

豊臣政権が安定するか否かを左右する急所の統治をまかされたのだから、家康が移封を好んだかどうかはともかく、左遷であったとはいえない。重臣の入封地まで細かく指定したことからも、秀吉が関東を重視していたことが伝わる。

■合理的な領国経営が可能に

こうして豊臣政権における関東と奥羽の「惣無事」の拠点となった家康の領国は、知行高がそれまでの120万石から倍増して240万石、近江(滋賀県)の領土などを含めると、250万石を超えた。いうまでもなく豊臣政権のなかで最大だった。

たとえ見知らぬ土地への転封でも、この圧倒的な加増によって、家康は豊臣政権のなかで他を圧する経済力を有し、秀吉の没後に豊臣恩顧の大名たちを手なずけることが可能になったといえる。

また、安藤優一郎氏は「じつは家康にとって、関東転封とは悪い話ばかりではなかった。国替えに乗じて先祖伝来の土地と切り離すことで、独立性の高い家臣の力が削げるメリットがあったからだ」と書く(『徳川家康「関東国替え」の真実』)。

家康の家臣団は三河(愛知県東部)譜代を中心に、忠誠心が高いイメージがある。とはいえ、武田氏の滅亡後は版図が一気に増え、家臣団の統制に苦労していたと考えられる。こうしてまとまりが失われかけた家臣団を統制するには、彼らを父祖伝来の土地から切り離して独立性を奪うにかぎる。

かつて織田信長は、清洲城(愛知県清須市)から小牧山城(愛知県小牧市)に居城を移転して、家臣を父祖伝来の土地から切り離し、機動的な部隊を創り上げた。それを家康は関東で、より大規模に行った。

そして、10万石以上の重臣の配置は秀吉に従いつつも、42名におよんだ1万石以上の家臣は、交通の要地に点在する北条氏時代の支城に配置した。縁もゆかりもない土地だからこそ、しがらみにとらわれずに理想的な配置が可能で、結果として、合理的な領国経営が可能になった。家康は最初から、そのことを見越していたのではないだろうか。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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