「これ、味の素に合うんじゃないか」味の素のインド成長を支えた"赤茶色の酸っぱいスープ"の正体
プレジデントオンライン / 2023年10月13日 10時15分
※本稿は、黒木亮『地球行商人 味の素グリーンベレー』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
※本稿は、2009年の話です。登場人物の肩書は当時のものとなります。
■味の素に合う地元の料理を探し続ける日々
約3カ月後――
濵野(※)はいつものように、炎暑の中、営業マンたちの行商に同行した。気候は、4、5月の「ホッテスト」から「ホッター」になったが、日中の気温は軽く35度くらいになる。
※濵野勝男氏:2003年に設立されたインド味の素社のマーケティング部長
午前中の行商が終わると、濵野はいつものように営業マン2人と町の食堂に昼食に出向く。
その日の食事は南インドの定食、「ミールス」だった。
表通りからバイクの音がやかましく聞こえる店に3人で入り、テーブルにつくと、皿代わりの大きなバナナの葉と、水が入ったステンレスの筒が各人の前に置かれ、食事に使う右手を水で洗う。スプーンやフォークはない。
ウェイターがやって来て、2リットル缶サイズのステンレスの容器で何種類かのカレーを持って来た。緑豆のカレー「ダールタルカ」、豆と野菜のスパイシーなカレー「サンバール」、冬瓜、ヨーグルト、ココナッツのカレー「プリセリ」、カボチャと豆のココナッツミルク煮「オーラン」など、ベジタリアン料理だ。
濵野らは「それは何?」「そっちをくれ」などといいながら、好みのカレーをバナナの葉の上に盛ってもらう。
続いて、炊いたロンググレイン米や豆粉を薄いせんべいのように焼いたパパダムが運ばれて来た。
(ダールやサンバールは、駄目だったしなあ……)
濵野は手づかみで食事をしながら思案する。
味の素に合う地元の料理を探すため、しばらく前から食事の際には必ず味の素を振りかけるようにしていた。
しかし、1日3食インド料理を食べ続けても、入れてもあまり変わらなかったり、入れないほうが美味しいと感じることもあったりして、これといった料理はまだ見つかっていない。
■南インドの人々が毎日のように食べる「ラッサム」
味の素の販売のほうも、昨年は倍増したが、今年に入って伸び悩み、濱野は「みんな頑張っているのに、なぜ伸びないんだろう?」「取扱店も増えて、考えられる販売はすべてやって、気合と根性と忍耐で頑張っているのに」と悩んでいた。
テーブルに、赤茶色のスープがステンレスの器で運ばれて来た。
タマリンドやトマトを黒コショウやニンニクで味付けして煮た「ラッサム」というスープだった。
爽やかな酸味が特徴で、南インドの人々は毎日のように、ご飯の上にかけて食べる。
(ラッサムか……これはまだ試してなかったな)
濵野は、ラッサムを少し飲んでから、インドの小売でメインになっている2.5グラムの味の素の小袋を取り出し、振りかけて指でかき混ぜた。
(ん⁉ なんか美味い!)
一口飲んで、驚いた。
味が信じられないほどまろやかになり、うま味も際立っていた。
(これ、味の素に合うんじゃないか……⁉)
■うま味調味料と酸味は親和性がある
日本でも、酢の物に味の素をかけると美味しくなるといわれており、うま味調味料と酸味は親和性がある。
「エクスキューズ・ミー、プリーズ・トライ・アジノモト・フォー・ユア・ラッサム(ちょっと、ラッサムに味の素を入れてみてくれる?)」
濵野は、インド人スタッフに、味の素の小袋を渡した。
「ミスター・ハマノ、ディス・イズ・デリシャス!」
2人のインド人は、味の素を入れたラッサムを飲み、目を丸くした。
2人はすぐご飯の上にラッサムをかけ、美味そうに食べ始めた。ご飯をかきまぜる右手の動きが、普段より軽やかに見える。
■「このメニューだ!」大喜びで飲み明かした
濵野はチェンナイに戻ると、早速、宇治(※)にラッサムの件を報告した。宇治も試してみたところ、非常に美味しくなると分かり、2人で「このメニューだ!」と大喜びし、その晩は飲み明かした。南インドの人々は、ラッサムを年に300回くらい食するので、味の素が使われるようになれば、大きな売上増が期待できる。
※宇治弘晃氏:インド味の素社の取締役
その後、消費者テストも実施したが、期待どおり、味の素を入れたほうが美味しいという評価が9割に上った。
それからは販促ポスターや営業マンのセールストークを「美味しいラッサムは味の素なしではつくれない」に統一し、一点突破の営業を推し進めた。
■「ラッサムと味の素」の試食キャンペーンを実施
10月――
チェンナイは雨季に入り、多少過ごしやすくなったが、それでも日中は35度を突破し、灼け付くような日差しが頭上から照り付けていた。
あと数日で、「ディワリ」と呼ばれる、光(善)が闇(悪)に勝ったことを祝う、ヒンズー教の新年のお祭りがやってくる時期だった。
庶民が住む団地の一角に味の素のキャラバン・カーが3台停まり、人々が群がっていた。
キャラバン・カーの側面には大きな看板が取り付けられ、ラッサムの鍋に味の素が振りかけられている写真と「美味しいラッサムは味の素なしではつくれない」というキャッチコピーが、丸い輪ゴムを並べたようなタミル文字で書かれていた。
大きなパラソルの下のテーブルに、それぞれA、Bと大きく書いた紙が貼られた寸胴鍋サイズの黒い鍋が2つ置かれ、人々がそれぞれの鍋からラッサムを注(つ)いでもらい、試食していた。
「ニーンガル・エーヤイ・ヴィルンピナール、アダイ・インゲー・エルドゥンガル(もしAのほうが美味しいと思ったら、ここに書いて下さい)。Bのほうが美味しいと思った人は、こちらにお願いします」
新商品開発のために雇われた、黒い口髭に白い厨房着姿のシェフがタミル語でいって、試食をした人たちに、どちらが美味しいか投票させていた。
ラッサムと味の素の組み合わせの試食キャンペーンであった。
■100人が試食し、投票結果が集計された
Aは普通のラッサム、Bは味の素が入ったラッサムだ。
人々は物珍しさもあって鍋が置かれたテーブルに押し寄せるようにやって来た。
オレンジ、ピンク、水色など色とりどりのサリーをまとった中高年の女性が多いが、Tシャツ姿の若者や、白髪の男性などもいる。
試食をした人が100人に達したところで、投票結果が集計された。
「それでは、アンケートの結果を発表します!」
厨房着姿のシェフがマイクを手に、トラックの上の特設ステージに立ち、タミル語でいった。
背後の赤と白の大きな看板にも、「美味しいラッサムは味の素なしではつくれない」というキャッチコピーがタミル語で書かれている。
「ちなみに、みなさんにはお知らせしませんでしたが、こちらのAの鍋が普通のラッサム、Bの鍋が味の素を入れたラッサムでした」
自分の左右にある台の上に置かれた、A、Bそれぞれの蓋付きの黒い鍋を指していった。
「それでは結果を発表します。……Bが美味しいと思った人が80人!」
わあーっという歓声と拍手が湧き起こった。
「Aが美味しいと思った人、およびどちらも同じと答えた人が20人でした。『美味しいラッサムは味の素なしではつくれない』ことが証明されました!」
拍手は続く。
■人々の反応は目覚ましく、イベントは大成功
「それでは続いて、ラッキー・ドロー(抽選)の結果を発表いたします!」
インド人のセールス・マネージャーがいった。
試食をした人たちには抽選券が配られ、複数の人に賞品が当たるようになっていた。
「1等は、31番です!」
歓声が上がり、当選したサリー姿の中年の女性がステージへと案内される。
「コングラチュレーションズ!」
キャンペーン用の赤と白のベースボールキャップに、味の素の赤いお椀のマークと社名が入った白いTシャツ姿の宇治がにこにこしながら賞品を贈呈する。
賞品は「ディワリ」のお祭りのときにマサラチャイ(スパイス入り紅茶)を飲みながら食べる「ミターイ」という地元の菓子の詰め合わせだった。ナッツやスパイスを牛乳と砂糖で練ったものや、小麦粉にたっぷりの砂糖を入れて餃子のような形にし、油で揚げたものなど、何種類かのセットで、派手な包装がしてあった。
続いて2等以下が発表され、インド人社長のマノハランや他の社員が賞品を贈呈する。
さらに味の素のサンプルが全員に配られた。
人々の反応は目覚ましく、イベントは大成功だった。
■1500回のキャンペーンを実施しCMも放映
インド味の素社はキャラバン専門のスタッフを雇い、教育した上で、5台のキャラバン・カーを仕立て、タミル・ナードゥ州を中心に、5台×月25日×1年間=延べ1500回のラッサム・キャンペーンを敢行した。
さらにテレビCMも制作して宣伝した。
いくつかのパターンの30秒のCMがつくられ、そのうちの一つは次のようなものだった。
小学校低学年くらいの可愛らしい女の子が、サリー姿の祖母、母親とラッサムをつくる。「まずトマトを切ります」「ニンニクとコリアンダーを炒めて」という女の子のセリフや調理の音とともに、シズル感のあるカットが映し出される。女の子が「美味しいラッサムができました」というと、母親が「美味しいラッサムはまだ完成してないのよ。味の素を入れなきゃね」といって、誇らしげな笑顔で味の素を振りかける。画面は、祖母、父母と女の子の食事シーンに変わり、食卓の4人が笑顔で、ご飯とラッサムを手で混ぜて食べ、女の子は皿に残った汁まで飲み干す。ラストは味の素の赤い文字と創業百周年のロゴ、「味の素美味しいね、ワオ!」というタミル語のセリフで締め括られる。
■小売店向けのリテールで前年比84.5%の増加
さらにインド各地で催される食品関連の展示会に出展して、味の素の説明やラッサムの比較試食を行なったり、地元の医師・看護師・栄養士・科学者向けに味の素の安全性の説明や調理方法の実演を行なったりした。またタミル・ナードゥ州マドゥライ市周辺の偽物品の取り締まりを保健省に要請し、南部主要四都市で偽物品・リパック品への注意喚起の新聞広告を掲載したりもした。
こうした努力で味の素の売上げは着実に伸びていった。特に小売店向けのリテール(50グラム以下)の伸びが目覚ましく、2009年は対前年比で84.5パーセントの増加、翌年は131.1パーセントの増加を記録した。
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作家
1957年、北海道生まれ。早稲田大学法学部卒、カイロ・アメリカン大学大学院(中東研究科)修士。銀行、証券会社、総合商社に23年あまり勤務し、国際協調融資、プロジェクト・ファイナンス、貿易金融、航空機ファイナンスなどを手がける。2000年、『トップ・レフト』でデビュー。主な作品に『巨大投資銀行』、『法服の王国』、『国家とハイエナ』など。ロンドン在住。
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(作家 黒木 亮)
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