こんなやり方で儲かるわけがない…ワコールの「職人技のブラジャー」を伝説の女傑が一目で全否定したワケ
プレジデントオンライン / 2023年10月23日 9時15分
■京都のロミオとジュリエット
復員して5年近く経ったある日のこと、京都の街に明りが灯ろうとしていた。
“はんなり”という京言葉があるが、夕間暮れの京都には雅な言葉がよく似合う。ことに周囲の山々が色づき始めると、行き交う人々もどことなく浮き足立つ。平安絵巻のような紅葉を楽しめる季節が、ついそこまでやってきていた。
「おーい、おーい」
太秦の撮影所から出てきたかのような長身の二枚目が、自転車にまたがったまま京町家の2階に向って声をかけている。誰あろう塚本幸一だった。まるで劇中の1場面。さしずめ2階にいるのはジュリエットか。
ほどなく2階の戸が開くと、そのジュリエットが下りてきた。ところがこちらは意外なほど普通の女性。いやむしろ堂々たる物腰で、まだ若いのに“関西のおばはん”の雰囲気を醸し出している。
「塚本はん、そんな大きな声だしはったら大家さんに聞かれてしまいますがな!」
ジュリエットは当時一般的だった“2階借り生活”をしていたのだ。
彼らが恋人同士でないことはすぐわかる。階段を下りてきた彼女が慣れた様子で荷台に乗ると、彼は勢いよくペダルをこぎ始めた。
■和江商事飛躍のための「秘密兵器」
京都の御池通を西に向う。
戦争直後のため車の往来は少ない。まだ舗装されていない砂利道で走りにくかったが、車を気にする必要がない分、気は楽だ。
当時も自転車の2人乗りは禁止である。
「ポリスマンにつかまったらどうすんの?」
「そんなもん『お母はんが亡くなったんや』言うといたらええねん!」
こうなると映画の世界どころかまるで夫婦漫才だが、幸一はクールな表情を崩さない。
風がなびくと男ぶりがさらにあがる。すこぶるつきのいい男が、若い女性と2人乗りしているのだ。いやが上にも目立つ。
道行く人はみな振り返った。
すると後ろに乗っている女性の表情が次第に緩んでくる。幸一に気づかれないようにしながらも、自然と笑みさえこぼれてきた。それはそうだろう。こんないい男に乗せてもらっているのだ。嬉しくないわけがない。
彼らが到着した先は室町のとある町屋。和江商事と書かれた看板がかかっている玄関を奥に行くと中庭がある。そこに建つ洋館の3階に、何台ものミシンが並ぶ部屋があった。
そこに立った瞬間、彼女はがらりと表情を変え、きりっと引き締まった。
「さあ、始めましょか!」
女性の名は渡辺あさ野。
彼女こそ、和江商事(※ワコール創業当時の会社名)飛躍のための“秘密兵器”だった。
■事業が軌道に乗っても不安は消えなかった
木原縫工所(木原工場)と専属契約を結び、四条河原の決戦を制して高島屋との取引も獲得。勢いに乗り始めた和江商事だったが、それでも幸一の心からは不安が消えなかった。
これから木原にはブラジャーだけでなくコルセットなども製造してもらうことになる。だが、それがどんどん売れていくのをみていたら、いつか木原は自分で売ったほうが儲かると考え、直接販売に乗り出すかもしれない。そうなると和江商事はお手上げだ。
また新たな縫製業者を探す必要があるだけでなく、木原縫工所はかってない強力なライバルとして立ちはだかる。
経営者の最大の仕事は危機管理だ。起こった危機に対処することだけが危機管理ではない。むしろ危機が起きる前にそれを予見し、危機の発生を未然に防ぐことこそ一流の経営者の資質である。幸一にはそれがあった。
そこで考えたのが木原縫工所との合併だった。製造から販売まで一貫した組織を持つことが最も有効な対処方法であり、かつ収益性を高めることにつながると確信したのだ。
■ワコールが業界ナンバーワンになった勝因
この製販一貫システムは、現在ではユニクロなどが採用しており珍しくないが、当時としては独創的な発想だった。そもそも流通経路にしても、メーカーと小売店だけでなく、その間に問屋が入るという分業体制がわが国の商取引の常識であり、役割が細分化されていたのである。
だが女性下着の製造から販売までを手掛ける、日本にはまだどこにもなかった専門企業の道を選んだことこそ、ワコールが業界ナンバーワンになった勝因だった。
幸一は思いきって木原光治郎に合併を持ちかけた。
だがそう簡単に事は進まない。
「昔から嫁ぐにはタンス長持をそろえてからと言います。和江さんとは1年のつきあい。まだ柳行李一つしかそろえられてまへん。せめてもう2、3年待っとくなはれ」
木原はそう言って婉曲に断ってきた。
そんなに待っていたら、木原工場を他社に取られてしまう可能性がある。
「柳行李一つで結構です」
そうも言ったが、話し合いは平行線のまま。考えに考えた末、幸一は思いきった提案をする。
■幸一の思いきった提案に木原も腹を決めた
「木原さん、合併したら、あなたが新会社の社長になってください。僕は専務でいい」
これには木原も驚いた。
「本気かいな?」
「こんなこと冗談で言いません。その代わり、社名は和江商事のままでお願いします」
これを聞いてさすがに木原も腹を決め、ようやく合併を承諾してくれた。
幸一は、最終判断は役員会に委ねることにした。そして中村伊一、川口郁雄、征木平吾と奥忠三の4人に諮ったところ、賛成と反対が2対2の同数となった。
ここで幸一が発言した。
「おまえらの気持ちはわかった。それでは最後に俺が票を入れる。俺は賛成や!」
こうして和江商事は木原縫工所と合併し、新生和江商事として生まれ変わった。
幸一は和江商事の将来のために、社長の座から降りたのである。昭和26年(1951)5月1日のことであった。2カ月後には本社も木原縫工所のある室町に移転することとなった。
■プライドばかり高い職人たちの鼻をへし折る
合併効果はいろいろなところに現われた。
営業部門と製造部門の部門間の人事交流を行うことにより、互いにいい影響を与え合うなど、社内に新風を吹き込ませることができた。
これを好機ととらえた幸一は、それまでノータッチだった生産部門を担当したいと申し出た。
そして対外的な営業部門を木原社長に任せることにした。生産部門と営業部門が一つにならないと会社が一つにならないという考えがあったからだ。
だが職人というのは素人を嫌う。古くからいる工場の職長と裁断部門の男性社員1名がどうしても幸一の指示に従ってくれない。ここで折れたら負けだ。
幸一は木原と相談し、彼らにやめてもらうことにした。これで職場に緊張が生まれた。逆らえない雰囲気ができた。戦場で彼が実践した人心掌握術そのままである。
そして、すぐ次の一手を打った。
プライドばかり高く新たな技術に挑戦する気のない職人たちの鼻をへし折るため、大量近代的な生産システムによる縫製技術を身につけている人間をスカウトしてきたのだ。
それが渡辺あさ野だった。
■伝説の「女傑」渡辺あさ野
ワコールは日本企業としては珍しく、女性が支えてきた会社と言っていい。その歴史の中で何人もの伝説の“女傑”が現われるのだが、渡辺はその筆頭と言ってよかった。
渡辺は幸一より一つ年下の大正10年(1921)生まれである。
京都市右京区嵯峨清滝町の農家の10人兄弟の末っ子で、彼女が2歳の時に父親が亡くなるとすぐに家は貧窮し、母親は朝から晩まで必死に畑仕事をして働いた。それを見て、早く自分も働いて楽をさせてあげたいとばかり思っていたという。
栄養失調でバケツも満足に持てないような体であったにもかかわらず、10歳の時から料理屋の皿洗いとして奉公に出た。幼児虐待ではないかというのは現代人の感覚だ。この当時(昭和6年)、東北の冷害が深刻で娘の身売りが盛んに行われていた。それほど、この国は貧しかったのだ。
「人間、生まれたときはみな丸裸ですけれど、私の場合、その丸裸に着せる物がないというぐらいの貧乏な家に生まれたんです。だから小学校も行ってないです。字は看板で覚えました。酒屋のとこに“酒”と書いてある。あれが酒という字やなってね」
筆者が取材した時、彼女はそう述懐した。
そして15歳になったとき、大阪市旭区にあった海軍陸戦隊の工場で働き始める。学歴も学力もなかったが、海軍は彼女の地頭の良さを見抜き、就職を許可した。
するとすぐに頭角を現わす。とにかく数字に強いのだ。たちまち計算尺を使いこなすようになると、それを駆使し、落下傘製作の際の流体力学的問題についても専門家のような発言をするまでになった。
■海軍工場仕込みの生産工程管理の技術
何より得意だったのが、多くの部品からなる製品を大量かつ均質に生産する手法、フォード方式とも呼ばれるオートメーション生産の工程管理である。はっきりものを言う男勝りの性格もあってリーダーシップは十分。若くして彼女は現場を仕切る立場に抜擢された。
だがここで終戦を迎える。海軍の施設は当然操業停止となり、失業してしまう。
それでも優秀な彼女は、この混乱期をたくましく生き抜いていく。その腕を買われ、京都の四条大宮にあった内外雑貨という会社に勤めることになったのだ。
軍の横流し品である落下傘用の絹地や伸縮性のあるメリヤスを材料に子供服を作ってくれという依頼である。彼女は期待に応え、海軍仕込みのノウハウでたちまち大量生産のラインを作り上げると、5、60人の職工を指導するようになった。
この当時、物資は統制されて配給制度になっている。本当は衣服も配布された衣料切符と交換にしか販売できないのだが、内外雑貨は闇商売をやっていた。
そんなことから、渡辺は警察に引っぱられたこともある。だが、戦争に負けてアメリカに尻尾を振っているような日本の男にとやかく言われる筋合いはない。
「子どもが裸足でおちんちん出して町の真ん中歩いてるんですよ! 着るもんなかったらどないするんですか?」
尋問している警察官がほれぼれするような啖呵を切って釈放してもらった。
■幸一が目をつけた「大量生産体制」
そんな内外雑貨に、ブラパット用の羽二重を買いに来ていたのが幸一だった。
だが幸一は、いつも1反(和服1着分)しか買っていかない。
「一反だけなんて邪魔くさいなぁ~」
渡辺が文句を言っても、
「金ないもん」
と悪びれることなく答える。格好をつけようとするところのない彼の態度が、渡辺には好ましかった。
1反ずつ買っていった代金さえもツケである。
「そう言えば、あのときの代金全部もらったやろか……」
取材の際、95歳だった渡辺は、70年近く前のことを思い出しながら、そう言って笑っていた。
そのうち幸一は内外雑貨の生産体制に興味を持ち始めた。工場はいろいろ知っているが、ここはほかとは比べものにならない大量生産体制を確立している。なおかつ、それを指揮しているのが、いつも彼に羽二重を売ってくれている渡辺らしいのだ。
ある日、だめもとで彼女をこう言って誘ってみた。
「うちの工場をちょっと見てくれへんか?」
「ええよ」
ふたつ返事である。
「でもこっちの仕事終わってからやで」
幸一は彼女が帰宅するのを待って自転車で迎えに行った。
■深夜まで続いた無給奉仕の熱血指導
渡辺は自転車の後ろに乗って、まだ砂利道だった御池通を走って室町の本社工場へと向かった。
道路に面したしもた屋の格子戸をガラガラッと開けて入っていくとすぐ、そこかしこに荷造り途中の木箱が乱雑に並んでいる。きれい好きの渡辺は思わず顔をしかめた。
そして裏にある洋館の3階にある作業場に通してもらい、初めて和江商事の生産工程を見た瞬間、渡辺は、
「えーっ?」
と驚きの声を上げた。思わずみなが顔を上げてこちらを怪訝な面持ちで見たほどだった。
当時の和江商事は1枚のブラジャーの縫製の全工程を1人の職人が行っており、文字通り手作業の職人技の世界だった。渡辺に言わせれば無駄だらけ。大量生産しようという意思を全く感じさせない前時代的光景だった。
(これは教えることようさんありそうやなぁ……)
こうして彼女の熱血指導がはじまった。6時か7時に迎えに行って毎晩11時か12時頃まで続いたが、それが無給奉仕だったというから驚きだ。
「塚本さんお金ないしね。こっちは他の会社で給料もろてたから」
取材の際、さらっと話してくれたが、その心意気に惚れ惚れした。
■「千枚通し」のスパルタ教育
そのうち渡辺は、いらいらしてきた。思わず口調もきつくなる。
「1本針で2度縫うところを、2本針なら1度で縫えますのに。そんなやり方して儲かってへんのと違いますか?」
2本針で縫うなどという発想は、はなから幸一にはなかった。内心舌を巻きながらも、さすがに何度もぼろくそに言われるうち腹が立ち、ついにこう言い返した。
「そない偉そうに言うんやったら、うちに来てやってくれ!」
「しゃあないなぁ。こうなったら本腰入れて教えたらんとあかんか」
ほとんど売り言葉に買い言葉のノリで渡辺の入社が決まった。昭和26年(1951)9月のことであった。
渡辺が入社すると工場内の空気は一変した。
若い縫製工たちは渡辺が教える新しい技術を次々に吸収していったが、つらかったのがベテラン工だ。この世界で年数を重ねているというだけで大きな顔はできなくなっていった。
製造過程のすべてについて工程分析して細分化され、
「はい、ここからここまで何秒で縫ってください!」
と各人に割り当て、トイレへ行く時間まで決められた。
「渡辺さんが来てから働いてばっかりでかなん、あんな人やめてほしいわ」
そんな声も聞こえてきたが、どこ吹く風だ。こっちは頼まれてきてやったのである。
そのうち彼女は、その厳しさ故に社員たちから“正宗”“千枚通し”といった恐ろしい渾名で呼ばれることになる。
だが間違いなく、渡辺の加入が和江商事の歴史の転換点だったのだ。生産体制は一気に強化され、やがてブラジャーやコルセットの大量生産が可能となっていった。
■ブラジャーとスイス時計の共通点
渡辺の加入は幸一の意識をも変えた。この頃から彼は“布帛産業立国”という言葉を口にし始めたのだ。
この当時、わが国における縫製技術者の社会的地位は低かった。そもそも庶民の多くはみな生地を買ってきて、自分で寸法を測って自分で仕立てるか、仕立て屋に頼んで着物を仕立てていた。一反の布地を使い切ることを“反つぶし”というが、縫製業者は“つぶし屋”という一種の蔑称で呼ばれていたのだ。
だが幸一は、繊維加工産業の将来に大きな可能性を感じ始めた。
(これから日本女性が洋装化することで市場は急拡大する。縫製は手先の器用な日本人の得意分野だ。きっと世界と対等に渡り合える。そのうち縫製業者がこの国を支える時代がやって来るに違いない!)
とりわけ女性下着は肌に触れる。布の質に加え、縫製の技術が確かでないと、消費者はそれを敏感に感じ取ってしまう。
彼はしばしばブラジャーを“精巧なスイス時計”になぞらえたが、渡辺という女傑の参加で、おぼろげながらアメリカの背中が見えたような気がした。
■幸一の「人間的魅力」のなせる技
幸一の人材スカウト力に関して、渡辺は筆者にこんなエピソードを披露してくれた。ブラジャーの試作品第1号のモデルが幸一の妻の良枝であったことは既に触れたが、その後は渡辺がモデルとなって試作品を作っていたというのだ。
「裸になってモデルをするのなんか、なんとも思いませんでしたね。今思うとね、ようそんなことやってたなと思いますけど」
いくら気が強いと言っても妙齢の女性である。これも幸一の人間的魅力のなせる技だった。
「徳があるんです。人材の得られる人と得られない人では違ってきます。人材の得られる人は、やっぱりトップになっていきますわね」
渡辺はそう語ったが、その“徳”に惹かれた人材の一人が渡辺あさ野だったわけである。
しばらくして、渡辺が幸一にこう言ってきた。
「塚本さん、電動ミシン買ってくれません?」
電動ミシンはこれまでの足踏みミシンとは性能が格段に違う。大量生産体制の確立には必須のアイテムだった。
渡辺からの要望に応え、幸一は大谷ミシン(現在の大谷)から電動の大型ミシンを5台ほど購入した。
こうして大谷能基社長以下6名がやってきて、工場内で設置作業を行ってくれることとなった。設置作業は終業後のみ。立ち会いをするのは渡辺だ。大規模なものだけに、3日3晩徹夜してようやく工事が完了した。
■「おまえたち、渡辺さんを見ならえ!」
大谷ミシンの人間は昼間にわずかな時間ながら仮眠ができたが、渡辺は昼間も働いている。渡辺あさ野という女傑は、底なしの体力の持ち主でもあったのだ。
組み立てが終わった日の早朝、渡辺がやれやれという顔で近所の風呂屋に朝風呂に入りに行ったのを大谷社長は覚えている(「ミシン整備に徹夜の連続」大谷能基著『ワコールうらばなし』所収)。
大谷は感じ入り、部下たちに、
「おまえたち、渡辺さんを見ならえ!」
と叱咤(しった)した。
その後も大谷と渡辺のコンビで、次々と電動ミシンが増設されていった。
当時は頻繁に停電がある。渡辺はそれに備え、足踏みでも動かせるよう大谷ミシンに改造を依頼したというから周到だ。いやそれどころか、受注が多い時には縫製工の家庭のミシンを持ち込ませたという。
取引先から工場見学の依頼が入り始めたのもこのころからである。見学者はみな、その効率的な作業風景に感心して帰っていく。従業員たちの士気も上がった。
幸一も裁断室の中に入ってコルセットの改良に取り組んだ。こうした姿勢が刺激にならないはずがない。渡辺あさ野という強力な助っ人の協力を得て、幸一は生産部門のリーダーとしての求心力を日々高めていった。
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作家
1960年、名古屋市生まれ。旧・富士銀行に入行、資産証券化の専門家として活躍し、みずほ証券財務開発部長を最後に2008年に退職、本格的な作家活動に入る。山本七平賞受賞の『白洲次郎 占領を背負った男』をはじめ近代日本を形作った人物の評伝を多数執筆。最新作は『ブラジャーで天下をとった男 ワコール創業者塚本幸一』(プレジデント社)。
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(作家 北 康利)
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