いつの間にか「スペインで最も有名な日本人シェフ」に…高卒フリーターの人生をがらりと変えた運命のひと言
プレジデントオンライン / 2023年10月15日 12時15分
■スペインで最も注目される日本人シェフ
スペイン北部のバスク地方にある人口約200人の村アシュペ。ここにできた日本人シェフの店「Txispa(チスパ)」が世界的に注目を集めている。
オーナーシェフの前田哲郎さん(38)は、2019年と2021年にグルメ界のアカデミー賞と称される「世界のベストレストラン50」で3位に選ばれた「アサドール・エチェバリ」(以下、エチェバリ)で、2022年3月まで副料理長を務めていた。
そして今年5月、薪焼きをメインとしたレストラン「チスパ」をオープンした。スタッフは総勢8名、テーブル6卓24席の小さな店で、メニューはおまかせコース250ユーロ(約3万7000円)のみ。
アクセスのいい場所ではないが、世界中の美食家が続々と来店している。最近では実業家の堀江貴文さんも来店。オープンわずか3カ月でミシュランガイドの公式ウェブサイトにも掲載された。
食通たちから熱い視線を集めている前田さんだが、12年前にスペインへ渡るまでは、シェフになるつもりはなかったという。
料理学校を卒業したわけでも、日本や海外で修行したわけでもない。スペイン語も英語も話せない。ましてやスペインの位置すら把握していなかったという彼は、どうやって現在の地位を築いたのだろうか。
■無職の息子に父がかけたひと言
前田さんは1984年に生まれ金沢で育った。両親は食器販売店を営んでいる。前田家では、父親が料理を担当していた。晩ご飯や運動会のお弁当、おせち料理まですべて手作り。いりこから出汁をとるなど、父親の料理は本格的だった。
一方、前田さんは「電車運転士の息子が電車に少し詳しくなるような程度には、料理が好きだった」という。
「ただ勉強は苦手でした」と苦笑する。
高校卒業後は、女性ダイエット専門のスポーツジム、水商売の店の客引き、リゾートバイトといった仕事を転々として、19歳で無職となった。
そんなとき、父親から「一緒におばんざいバーをやろう」と提案された。
実家で扱っている器を使い、バスの待ち時間にふらっと入ってもらえるような飲み屋を作ったらどうかな、ということだった。「うん……じゃあやろう」と軽い気持ちで承諾した。
2004年9月、カウンター6席ボックス6席のおばんざいバー「鬼の棲家」がオープン。前田さんはここで初めて父親から、ナスのオランダ煮や里芋の煮物などの料理を学んだ。そこから、料理の道に目覚めていく……わけではなかった。
■25歳、突如訪れた転機
「僕は世間知らずだったんです」と、当時を振り返る。
「今思えば、ベースは親父が作ってくれていたので、それにちょいっと乗っかっただけ。途中からひとりで店を任されていましたが、切り盛りしていた実感はまるでなかったですね。毎日やっていたら現金ができて、飲む分には困らない。なんなら、普通に働いている人より、多少使えるお金も多い。ただそんな感じでした」
オープンして4年目の2008年。ビルのオーナーが変わり契約更新を迫られたが、古いビルであったため消防検査の許可が下りなかった。そして前田さんには、なんとかして許可を取ろうという情熱もなく、あっさり辞めた。
再び無職になった前田さんは、雪山のバイトを転々とした。現在の妻・奈緒美さんと出会ったのは、北海道のニセコで働いていたときのことだ。だが、生活が安定することはなかった。
「当時はずっとお酒を飲んでいて、冬になればスノーボードをする。それ以外は何もない人間でした。車が壊れていてもどうでもいい、服が破れていてもどうでもいい。ほんと廃人みたいでした」
25歳の冬、夢も目標もなくただ酒をあおる日々を送っていた前田さんに転機が訪れる。
■「スペインに行きます!」
親友の結婚式にあわせて、金沢へ帰省した夜のことだ。水商売の客引き時代によく通っていたスペイン料理屋「アロス」に、結婚のあいさつもかねて飲みに行くことにした。カウンターに座ると小ぎれいな格好をした男性が声を掛けてきた。
「海外からですか?」
スノーボードを担ぎ大荷物を持っていた前田さんを見て、男性は海外在住だと思ったのだろう。
「いや、海は渡るんですけど、北海道です」
この時、声を掛けてきた小山将史こそが、前田さんがスペインへ渡るきっかけを作ることになる。彼は当時、バスク地方にあるミシュラン一つ星レストラン「アラメダ」でシェフをしていた。
その日は午前3時まで盛り上がり、早朝から名古屋に行く予定だった小山さんを金沢駅まで見送った。お酒を飲まない小山さんとは対照的に、前田さんは酩酊(めいてい)していた。別れ際、小山さんが言った。
「兄ちゃん、興味あったらスペインのアラメダに研修しにおいで」
「行きます‼」
勢いでそう答えたものの、その時、前田さんはスペインがどこにあるのかも知らなかった。それでも迷いはなかった。
「何かをするときは『準備できていること』が大前提です。当時の僕は何が準備できていたかというと、くるものは何でもつかめるくらいに空っぽだったんです。日常に飽きて楽しいことを探していたときに、たまたま飛び込んできたのがスペインでした」
■修業期間はたったの3カ月
スペイン行きを決め、ハッとする。
海外に行ったことがないからパスポートを持っていない。航空券を買うお金もない。困った前田さんは、北海道の病院で新薬の治験モニターとなり、30万円を用意した。
さらに、金沢に戻った前田さんは知人の紹介で、市内の高級イタリアンで3カ月だけ料理の研修ができることになった。本格的に料理を学んだことがなかった前田さんにとっては、「精神と時の部屋」にいるような苦しい3カ月だった。
「皿洗いからテーブルセッティング、パンをこねて焼くまで幅広く教えてもらいました。誰が僕を料理人にしてくれたかの話をすると、この店のシェフだろうな、と思います。ただ、シェフがめちゃくちゃ怖かったんです。厨房(ちゅうぼう)にかかっているお玉というお玉、鍋という鍋が飛んできました」
鬼のごとく厳しかったシェフも3カ月の研修を終えた日、「スペインでがんばれよ」と涙を流し見送ってくれた。
2010年、なんとか料理人の体裁を整えた前田さんは、スペインへ飛んだ。
■運命の人との出会い
金沢で知り合った小山さんの働くアラメダでの研修は順調だった。スペイン語も英語も話せなかったが、料理をする上でそこまで不便を感じなかった。困ったときは、先輩の日本人シェフが助けてくれた。研修期間の3カ月がたち、正式雇用が決定。ビザの準備をするため日本へ行き、再びスペインへ戻ってくることとなる。
それから半年後、小山さんから「バーベキューのすごく良い店があるから行ってみよう」と誘われ、店から車で約1時間の場所にあるエチェバリに行った。
エチェバリは、ひとり当たりの価格が264ユーロ(日本円で約4万円、レートは執筆当時)。時には予約6カ月待ちになる超有名レストランだ。オーナーシェフのビクトル・アルギンソニスは、とことんまで素材にこだわり、ガスなどは一切使わず薪の熾火(おきび)のみで料理する薪焼きの名手であった。
前田さんは、薪で焼かれただけのシンプルなエビに感動した。塩すら振っていないのになんでこんなにおいしいんだろう。
「料理ってこれだ」
その出会いから前田さんの頭は、エチェバリでいっぱいになった。
■舞い込んだ朗報
「ああ、アサドール・エチェバリ行きたいなあ」と、いろいろな場所で呟いていたある日のこと。料理人がひとり辞めることを耳にした。
「ここだ!」とばかりエチェバリに電話をかけた。「ビクトルに繋いで」と言うが、繋いでもらえない。1度、2度……何度かけても繋いでもらえなかった。なんとかしてシェフと話したい、どうにかならないかと焦る前田さんに一筋の光が差し込む。
「エチェバリで働く料理人の電話番号を知っているって人がいて。そこに電話したら直接、ビクトルと話ができて『じゃあ、1回話をしようか』と言ってもらえました」
ビクトルとの約束の日。
当時、車がなかった前田さんは、住んでいたオンダリビアからイルンまで自転車をこぎ、イルンから電車に乗り、サンセバスチャン経由でドゥランゴへ向かった。
ドゥランゴからは持ち込んだ自転車でアサドール・エチェバリがあるアシュペまでの山道を妻の奈緒美さんと共に、約40分かけて登った。片道合計およそ100kmの道のりである。
■即採用のワケ
前田さんは緊張していた。
エチェバリの駐車場の横にあるレストランの入り口。ビクトルと対面を果たす。スペイン語をほとんど話せない前田さんは、言いたいことを全部書いたメモ帳を取り出し、立ち話のまま「朗読」した。
「ヨ ソイ ハポネス。キエロ トラバハール(私は日本人です。働きたいです)」
スペイン語をろくに話せない日本人の青年が山を登ってきたのを見て、ビクトルは「自転車できたのか?」と驚いていたという。
「気合が入ってるな、と思われたのか『働いていいよ』となりました。『じゃあ、いつからこれる?』みたいな話になっていたと思うんですけど、用意していったスペイン語以外は話せなかったので、全然答えられない。とりあえず、いつでもいいから後はアラメダのシェフと決めてもらうことにして、その日は帰りました」
空の青さが眩しいよく晴れた日だった。
■「生きたレタス」とはどういう意味か
2011年1月1日、エチェバリの初日。
前田さんが出勤すると、従業員はみんな正月休みの最中で、厨房にはビクトルがひとりでミルクを煮込んでいた。「この温度になるまで温めて」と言われ、温度計を渡された。
「鍋を持ってかき混ぜていたら、うっかりミルクの中に温度計を落としてしまって……。よく怒られなかったな、と思いますよ」
これが前田さんの、エチェバリでの初仕事となった。
その後、レタスを洗う仕事を任されるも、「レタスが生きていない」と怒られた。生きたレタスとはどういうことだろうと、模索する日々が続く。ある日は、「お前は今日から前菜担当だ」と任され、戸惑った。
エチェバリの厨房は、前田さんが今まで働いてきたレストランとはまったく違っていたという。
工程が決まっておらず、誰もレシピを持っていない。その日に揃った食材を見て、ビクトルがメニューを決めるため、どんなコース料理になるのかもわからなかった。まるで1本勝負で勝った者だけが本戦に進める「天下一武道会」のような場所、どこまでも料理人としての技量が試される。それがエチェバリの厨房だった。
■だが、情熱はある
「僕の前にエチェバリで働いていたのは、のちにミシュラン一つ星レストラン『神戸bb9(ベベック)』のシェフになられた方や、ミシュラン三つ星レストラン『龍吟』からきた、ガチガチに気合の入った料理人ばかりでした。
そのなかで僕はウナギをさばいてと言われても、触ったことないし……。どうしていいか分からないから、いつも超怒られていました。でも、ビビって何もしないんじゃ、何も始まらない。次もまた振ってもらえるように最大限の努力をする。必死できれいに盛り付けたら、粗のない盛り付けになって。結果、次の週からお皿を任せてもらえるようになりました」
「ごまかすの得意なんですよ」と大きな口を開け、ガハハハと笑った。
経験値を上げていった前田さんは、「料理の原点」を追求すべく大胆な行動をとる。
■僕はバスク人になりたい
エチェバリで働きはじめて4年がたった2015年。
それまでは夫婦揃って職場の寮で暮らしていた前田さんだったが、バスク人の食文化を根本から理解したくなり、空きがあった築200年の石造りの平屋に引っ越しをした。電線などの人工物が何も見えない見渡すかぎり山に囲まれた、電気やガスも通っていない家だった。
前田さんは、昔ながらのバスク人の生活に身を投じることにしたのだ。ニワトリや豚、ヤギを飼い、馬で出勤した。
季節によって変わる自然や草の湿度、香りなどをとことん観察してみた。
すると、ビクトルが感じていることが分かる気がした。その頃には、「生きたレタス」が何なのかも理解できるようになっていたという。
「朝と昼に採るのとでは食感が全然違うんです。太陽が当たっているかいないか、部位によっても硬さが違う。春夏秋冬で日の出の時間も違う。でも、レストランの営業時間だけは変わらない。タイミングを計算して収穫し、ベストな状態でお皿に盛りつけることが『生きたレタス』なのだと分かりました」
■炎の魔術師と呼ばれて
前田さんはエチェバリの代名詞である薪焼きのレシピを試作し、積極的に提案するようになった。その行動力が功を奏し、今までビクトル以外に焼き場を担当する人がいなかったエチェバリで、唯一焼き場を任せてもらえるようになる。
気がつけばコースの半分は前田さんが焼くようになり、世間からは「ビクトルの右腕」「副料理長」と呼ばれるようになっていた。
その頃のエチェバリは、「世界のベストレストラン50」で34位、13位、10位と年々順位が上がり、世界の料理関係者から一層の注目を集めていた。
エチェバリの評価が上がると同時に、「副料理長・前田哲郎」の知名度も上昇。メディアで取り上げられることも増えていった。
同時期に、サッカースペインリーグ1部のクラブ、エイバルに移籍してきた乾貴士選手の食事も作ることとなる。友人から頼まれた仕事だったが、5年間、乾選手の料理を前田さんが、掃除を妻の奈緒美さんが担当した。
現役選手として活躍できる期間が短いアスリートのストイックさを間近で見た前田さんは、「自分もがんばらないと……」と奮い立った。
■どんなに活躍しても給料は19万円
ある時、世界中を食べ歩く美食家で“世界一のフーディー”とも称される浜田岳文さんから依頼がきた。自宅を開放し「テチュバリ」という名をつけて、料理を振る舞った。
それが口コミで広がり、実業家の堀江貴文さんや世界のトップレストランを紹介する「OADレストランランキング」の主催者などの著名人からも次々と予約が入るようになった。
「最初は材料代でひとり50ユーロ(約7500円)だけもらっていました。良い食材をそろえて、このくらいの肉使うなら150ユーロ(約2万2000円)もらわないとな、となって。最終的には、ひとり400ユーロ(約6万円)いただいていました」
これをきっかけに日本への出張依頼も入った。2018年に石川県白山の山奥で開いた1週間限定のポップアップレストラン「テチュバリ」を皮切りに、毎年知り合いづてに声がかかるようになる。石川県の白尾海岸にて2日間限定で開催した際には、オンラインで販売した60人分のチケットがわずか18分で完売した。
北海道や沖縄、シンガポールへも飛んでいった。その時のコースの単価は4万~8万円。イベントに呼ばれれば1日で80万円支払われることもあったという。
しかし、スペインに戻れば一介の雇われシェフに戻る。
この時、エチェバリでの前田さんの給料は1300ユーロ(約19万円)だった。スペイン統計局(Instituto Nacional de Estadistica)によると、スペイン飲食店業者の平均月収はおよそ1314ユーロ(約19万円)。スペインの目線でみても、仕事量の多い副料理長の給料としては、低所得だと言える。
「僕から給料を上げてくださいって、お門違いな気がして言えませんでした。スペイン語を喋れない時から毎月ちゃんと給料を払ってくれていましたし。ただ、それでもやっぱりいろいろと不満になってきてしまって……」
個人での評価が上がれば、自我も芽生えてくる。「独立」の2文字が前田さんの脳裏をかすめるようになっていた。
■5年間受け続けていた「いじめ」
日本やスペインのメディアにも取り上げられるようになり、順風満帆に見えた前田さんだったが、この時、心の異変が症状として現れていた。
「動いていないと泣いていました。バスに乗る、座る、泣く。コーヒーを頼む、出てくるまでの間に涙が流れてくるみたいな、そんな感じでしたね」
前田さんは足元をじっとみつめながら、絞り出すように言葉を吐き出した。
「突然日本人(の自分)がやってきて、目立つようになって、ビクトルとも仲良くして、好きな皿も任されている。そうなると、やっかみはひどかったですね」
おはようと言っても従業員は誰も返事をしてくれず、前田さんが考案した皿は手伝ってもらえなかった。嫌がらせなのか国民性なのか誰も掃除をしないで帰るので、ひとりで残って厨房を片付ける日々を過ごした。ビクトルは、わが道を行くタイプなので気にしていない。聞けばこの状態が5年間続いていたという。
「誰にも口を聞いてもらえない場所に行くのは嫌だったけど、仕事に行かないとそれこそ自分の存在価値がなくなってしまうので、行かないわけにもいかなかった」
先ほどまでニコニコしていた前田さんの顔から、笑顔は消えていた。
「たまにビクトルが見せる『うまいな』の笑顔に、死ぬほど救われていました」
■「俺もう辞めようと思っています」
ただ、ビクトルに認められれば認められるほど、誰もサポートしてくれない状況にあった前田さんの仕事は増える一方。そうなると自分の考えた料理が店の名前で出ていることにも反発心が生まれ、次第に生意気な態度をとるようになっていったという。
「俺の考えた皿じゃないから俺やんないわ、とか言うようになっていて。自分ならそんな従業員いたら殴ってると思うんですよ。だから、すごくギスギスしていました。今振り返ればよくクビにならなかったなと思います」
ある日、エチェバリの常連だった起業家の平井誠人さんから「よかったらご飯どうですか?」と誘われた。
平井さんと話す中でぽろりと本音が漏れた。
「俺、本当は自分の料理をしたいんですよ。もう、ビクトルともうまくいってないですし。金沢でお店ができるようになったら、何も言わずに辞めようと思っているんです」
■シェフから言われた思いもよらない提案
そう伝えた前田さんに、平井さんは、はっきりこう言った。
「テツさん、それはないわ。10年もお世話になっておいて。ちゃんと気持ちを伝えて終わったほうがいいよ」
それから、毎日のように平井さんからメッセンジャーに、メッセージが届くようになる。
「テツさん、ビクトルとちゃんと話せましたか?」
執拗(しつよう)にくるリマインダーに、「ほっといてよ」と思いながらも背中を押された前田さんは、ビクトルに本当の気持ちを伝えることにした。
「最近ブスッとしていてごめんなさい。ビクトルにはすごく感謝している。一緒に働けることも誇りに思う。それにエチェバリを辞めたいわけでもなくて……。ただ自分の料理をしてみたいんだ」
するとビクトルはこう言った。
「俺はもう引退するからエチェバリを買ったらどうだ?」
■バスクでやりたいことがある
ビクトルから思いも寄らない提案を受けた前田さんは、平井さんにお礼をかねて報告のメールを入れた。すると、こんな返事がきた。
「(ビクトルの)レガシーを継げるのは、テツさんしかいないと思う。日本人がそこにたどり着いたって、すごいことだよ。それができるなら、なんでも協力するから」
そうして、平井さんが資金面を含めサポートする形で、2人はタッグを組むこととなる。
「エチェバリの営業権を買い、家賃を払っていく」とのことで、話し合いの結果、一度は合意に至った。
だが、エチェバリで働いているビクトルの家族たちが首を縦にふらず、エチェバリを買い取る話はあっけなく立ち消えた。
それでもやはり、バスクでやっていこうと決意した前田さんは、「同じ村の中でお店をだそうと思っている」と、ビクトルに相談。
「それはお前の人生だから俺に言えることは何もないよ。好きなようにやりな」
前田さんは、エチェバリから100メートルほど先の丘の上にある山小屋を新たな挑戦の場に選んだ。
2022年3月、10年間におよぶ、エチェバリでの日々は幕を下ろした。
■ようやく「この道でよかった」と思えた
今でも時々、エチェバリでシェフを続けるビクトルと山でばったり会うことがあるという。
一部のメディアでは、エチェバリの近くで新しくレストランをオープンした前田さんに対し、非難の声があがっていた。だが、渦中の2人の会話はいたって平穏だ。「シェフって大変だね」「俺、生意気だったね」と、静かな会話をする。
「僕はビクトルの30年の経験を10年間に圧縮して学ばせてもらいました。彼とまったく同じことをするのでは意味がない。次のステップに進むことが、料理を教えてもらった責任だと思っています。ビクトルのレストランに対する惜しみない姿勢が好きでした。自分もそうありたいと思っています」
取材が終わろうとしたとき、前田さんは「今の自分が“良い”とは思ってないんですけど……」とぽそりとつぶやき、こう語った。
「昔は廃人のように生きるか、もしくは存在意義を探していました。あの時大学に行っていたら、実家が金持ちだったら、ああだったらこうだったらと考えてしまい不安だったんです。でも今は、自分にはこの道でよかったな、と肯定できるようになってきました。最近すごく楽しくて。軽いです、心が」
そう答え、すがすがしい顔で笑った。
前田さんは、素材の人生を最高の状態でお皿に盛り「おいしい」と喜んでもらえることに全力を尽くす。
10年間、「アサドール・エチェバリ」の副料理長、ビクトルの右腕という大きな看板を背負ってきたシェフは今、「日本人・前田哲郎」として新しい扉を開けた。
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1982年生まれ。美容師として4カ国で働いたのち、北スペインのカンタブリア州へ移住。 インタビュー記事やスペインを題材にしたコラムを執筆している。
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(スペイン在住ライター きえフェルナンデス)
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