豊臣秀吉の「人の殺し方」は狂気としか呼べない…秀吉が甥・秀次の妻子ら三十数名に行った5時間の仕打ち
プレジデントオンライン / 2023年10月15日 17時15分
■人の殺し方にあらわれる秀吉の狂気
百姓のせがれから関白太政大臣に――。古今東西を見渡しても、豊臣秀吉ほどの出世を遂げた人物は、ほかにほとんど例がない。それだけに自身の生まれへのコンプレックスは大きく、狂気としか呼べない行動につながったように思われる。
その狂気を、NHK大河ドラマ「どうする家康」で秀吉を演じるムロツヨシは、よく描き出している。ただ、秀吉の狂気の最たるものは、人の殺し方に表れていたと思うが、さすがにそれはテレビドラマでは描けない。
最初に秀吉の狂気の実例をひとつ、イエズス会の宣教師ルイス・フルイスの『日本史』から引用したい。病気になった際、秀吉から療養費を受けとって実家に帰り、回復後、僧侶と結婚して一子をもうけた妾の話である。彼女は後日、気軽に秀吉に会いに行ったが、
こうした惨殺が秀吉の身内と関係者に向けられ、史上まれに見るほど残虐に行われたのが、いわゆる秀次事件だった。
■甥・秀次の大出世
秀次は秀吉の3つ上の姉、ともの長男として生まれた。つまり秀吉の甥である。早くは浅井長政の家臣だった宮部継潤、続いて畿内で大きな力をもった三好一族の、三好康長の養子になった。
羽柴姓に戻ってのち、秀吉が織田信雄と徳川家康の連合軍と戦った天正12年(1584)の小牧・長久手合戦では、総大将として率いた別動隊が大敗して、池田恒興と元助父子、森長可らの戦死を招き、秀吉から厳しく叱責(しっせき)されている。しかし、同13年(1585)の四国征伐では戦功が評価され、近江(滋賀県)に43万石を得て八幡山城(近江八幡市)を築いた。
天正15年(1587)には従三位権中納言に任ぜられ(翌年には従二位)、「近江中納言」と呼ばれるようになった。同18年(1590)の小田原征伐では、病に臥せる叔父(秀吉の弟)の秀長に代わって副将を務め、緒戦で山中城(静岡県三島市)を半日で落城させ、秀吉に激賞されている。
ただし、秀吉はあらかじめ秀次に、家康の指示のもとで行動するように命じており、甥の武将としての能力を買っていたわけではないようだ。
小田原攻めからそのまま、家康の補佐のもとで奥州仕置(東北地方の平定)に向かい、その留守中に、改易になった織田信雄の旧領のうち尾張(愛知県西部)と伊勢(三重県東部)の北部などが加増され、100万石の大大名になった。
■悲劇のはじまりは突然に
ここまでも秀次は、一族も子飼いの家臣も少ない秀吉によって、能力以上に抜擢されてきたわけだが、奥州仕置に転戦していた天正19年(1591)のあいだに、秀次の運命はさらに大きく動く。1月22日に叔父で秀吉の懐刀だった秀長が病死し、2年前に淀殿が産んだ秀吉の嫡男の鶴松も、8月5日に急逝した。
藤田恒春氏は「自己を補佐した秀長、後継者として期待した実子の喪失は、何がなんでも補塡(ほてん)しなければならなかった。身内で残っているのは、秀次のみとなった」と記す(『豊臣秀次』吉川弘文館)。事実、11月20日に居城の清須城に戻った秀次は異例の出世を遂げる。28日に権大納言、12月4日に内大臣に昇進、同25日には関白の勅許を得ている。
そして秀吉は、関白たる秀次を京都の聚楽第に残して、自身は天正20年3月に、朝鮮出兵の前線基地である肥前(佐賀県)名護屋へ出陣。それから文禄2年(1593)春ごろまでは、秀吉と秀次の関係に波風が立った形跡はない。
状況が変わったのはその年の8月3日、淀殿が大坂城で、秀吉の嫡男となる拾(のちの秀頼)を産んでからである。秀吉はその報に狂喜し、名護屋を発って大坂に向かうと、二度と名護屋に戻らなかった。もう跡継ぎは生まれないと思って家督を甥に譲ったら、跡継ぎが生まれたのだから、家督を譲った秀吉と秀次の関係が微妙になるのは、容易に想像がつく。
■秀吉が甥を見限ったある出来事
とはいえ、九州から戻った秀吉は9月4日、秀次を伏見城に呼んで「先ず日本国を五ツに破り、四分参らるべしと云々(日本国を5つに分割し、うち4つを秀次が治める)」(『言経卿記』)と提案するなど、手を打とうとはした。10月1日には、生後わずか2カ月の拾と秀次の娘の婚約まで決めている(『駒井日記』)。
翌文禄3年(1594)も、秀吉と秀次はたがいに能を舞い合ったり、公卿を従えて吉野花見を挙行したりと、大過なくすごした。ところが、文禄4年(1595)になると、状況が動きはじめる。
年初から秀吉と秀次はたがいを訪問し合っているが、藤田恒春氏は「実子秀頼をえた秀吉が禅譲を働きかけるためではなかったか」と推測し、「秀次が禅譲の意思を示したならば、秀吉自身に汚名を残すこととなった結末を招来することもなかったのである」と結論づける(同書)。
そして、秀吉が期待する申し出を秀次がしなかったから、なのだろうか。公家の山科言継が7月8日の日記に「関白殿ト太閤ト去三日ヨリ御不和也(秀次と秀吉が7月3日から不和だ)」と書いている。理由のひとつとされるのが、6月20日に医師の曲直瀬(まなせ)玄朔(げんさく)が、後陽成天皇よりも秀次の診療を優先したという事案だった。
もっとも、それはきっかけにすぎなかったのだろう。秀次は8日、弁明のために伏見城の秀吉を訪れるが、会うことすら許されていない。そこで、秀次は頭上に束ねた元結を切り、5、6人を従えて高野山に向かっている。
■最新の研究による秀次の自死の理由
秀次は自分の意思で出奔したのか、秀吉の命で入山したのか。いずれにせよ、秀吉側は10日、各大名に秀次を追放した旨を伝え、同じ日に石田三成や増田長盛ら4人が、秀次を高野山に遣わしたという連署状を出している。つまり、秀次の非を臭わせ、政権の正統性を喧伝したのだが、この先は学説が分かれる。
秀吉が高野山の僧の木食(もくじき)応其(おうご)に、秀次の監視を命じたところまではいい。問題はその後で、福島正則ら3名が検死役として高野山に行き、7月15日に秀次は切腹させられた、というのが従来の説だった。すなわち、秀次は切腹するように政権に命じられた、と考えられてきた。
ところが矢部健太郎氏は史料を精査し、秀吉の許しを得られないと知った秀次が、無実の罪を晴らすため、高野山での蟄居(ちっきょ)という秀吉の命に反してみずから切腹した、と説く(『関白秀次の切腹』KADOKAWAほか)。事実、『御湯殿上日記』には「くわんはくどのきのふ十五日のよつ時に御はらをきらせられ候よし申、むしちゆへ、かくの事候のよし申なり(関白は昨日15日の朝10時、切腹なさったそうだで、無実だからこうしたとのことだ)」と記されている。
仮に秀次が冤罪(えんざい)を訴えて腹を切ったとすれば、政権の誤りを主張された秀吉側は放ってはおけない。そこで、秀次に後付けで謀反の罪を着せたというわけだ。矢部氏は「天下の大罪人・秀次による『謀反事件』として一貫性のある説明をするため、全く罪も責任もない妻女の大量殺戮という、通常では理解不能な方法でもって幕引きを図ったのである」と記す(『関白秀次の切腹』)。
■三条河原に送られた三十数名
矢部氏の説には京都大学名誉教授の藤井譲治氏が、秀次はやはり秀吉の命で切腹したと、史料をもとに反論して結論を得ていない。だが、秀次の意思がどうであれ、秀吉が想像を絶する殺戮を行った事実は変わらない。いよいよそれを見ていきたい。
秀次が切腹した際は、小姓の山本主殿、山田三十郎、不破万作、雀部重政、および東福寺の虎岩玄隆の5名が後を追い、同じ日に側近の木村重茲、粟野秀用、熊谷直之、白江成定らが自刃した。
さらには、26日には木村重茲の妻と娘が三条河原で殺され、嫡男とその嫁の首がさらされ、13歳の女子が磔に架けられたという(『兼見卿記』)。ほかの側近の家族にも、同様の仕打ちがあったのだろうか。また、秀次と関わりが深かった6人が、蟄居を命じられた末に成敗されたという記録もある。
そして、いよいよ8月2日を迎える。『上宮寺文書』などによれば、三十数名が7台の車に分乗させられ、京の街を引き回されたのち、三条河原に送られたという。
■5時間にもおよんだ殺戮劇
1台目には子をもつ女性3人(子は3人。5人とする記録もある)、2台目には公家の菊亭晴季の娘である正室や、東北の大名最上義光の娘である側室ら4人、3台目には武家出身と思われる4人、4番目には公家の四条家の娘ら4人……。史料によって多少のズレがあるが、三十数名が死に装束を着せされ、護送された。
石田三成らが彼女たちを河原に引き立てると、盛られた土の上には三宝に載った秀次の首が置かれていた。三十数名はそれぞれその首を拝まされ、そのうえで一人ひとり首をはねられた。殺戮劇は衆人環視のもと5時間におよび、処刑が終わると全員の遺体を一カ所に集めて土を盛り、「悪逆塚」と刻まれた塔が建てられたという。
当時の社会を震撼(しんかん)させたこの事件の結果、ただでさえ少なかった秀吉の身内はさらに減り、そのこと自体が豊臣政権の弱体化を招いたことは疑いない。加えれば、秀次の旧領は石田三成や増田長盛ら秀吉の側近グループに分配され、彼らは畿内の要地に所領をもって力を増した。それが秀吉の家臣たちの分裂を招き、関ヶ原合戦につながっていった。
だが、その前に、この史上稀にみる凄惨(せいさん)な殺戮、それもあきらかに無実な女性や子供の惨殺は、権力の一極集中が時に招きうる狂気の恐ろしさを物語っている。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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