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補助金ナシでNYに工場建設、72歳会長が妻と移住…輸出額最大の日本酒「獺祭」が捨て身で海外に挑むワケ

プレジデントオンライン / 2023年10月19日 11時15分

旭酒造の桜井博志会長 - 筆者撮影

「獺祭(だっさい)」で知られる旭酒造(山口県岩国市)が、ニューヨーク州に工場(酒蔵)を建設し、9月19日に現地生産を開始した。現地ではアメリカ人社員を採用し、酒米の一部はアーカンソー州でも栽培している。なぜそこまでして海外展開に挑むのか。72歳で妻と共にニューヨークに移住した桜井博志会長を現地で直撃した――。(取材・執筆=ジャーナリスト・永井隆)

■ボトル1本1万5000円で提供

――ニューヨーク市中心部からハドソン川に沿って北に向かい、車で2時間ほど。ここニューヨーク州ハイドパークに建設した酒蔵(工場)から、出荷が始まりました。マーケティング、そしてモノづくりの両面で、これからどう展開していくのでしょうか。

【桜井博志会長(以下、博志会長)】純米大吟醸「DASSAI BLUE(ダッサイ・ブルー)」としてニューヨーク州で9月25日から、流通を始めました。1990年発売の日本の「獺祭」に対し、ダッサイ・ブルーと名付けたのは「青は藍より出でて藍より青し」とのことわざから取りました。

マンハッタンを中心にニューヨーク市の高級レストランに、まずは売り込んでいきます。最初は和食店が中心で、「WANO New York」ではボトル(720ml)1本100ドル(1ドル150円で1万5000円)で提供します。おまかせコースが1人200ドル(同3万円)の高級店です。また、寿司店の「Tatsuda Omakase」ではグラス1杯14ドル(同2100円)での提供が決まっています。

日本食に限らず、高級ステーキハウス、牡蠣料理の店、フレンチ、イタリアンなど、高級レストランを攻略していく考えです。

■「量を追わず、価値を提供していく」

大トロと日本酒が合うように、私はアメリカンビーフとダッサイ・ブルーは合うと思います。社長(長男である桜井一宏氏)は、クリーミーな生牡蠣と合うと話してます。なお、日本で生産していないので、ダッサイ・ブルーは日本酒ではなく、厳密には「SAKE」となります。

――一気呵成(かせい)にニューヨークの名店を攻めるのでしょうか?

【博志会長】逆です。「焦るな」と現場には伝えてます。初期の成功を追うあまり、自分たちのスタイルを失うと失敗します。特に、ダッサイというブランドのエッジが崩れてしまうと、すべてを失ってしまう。シェア(市場占有率)という量を追うのではなく、あくまで価値を提供していくのです。このため、最初は小さく入っていきます。ここが、(装置産業であり大量生産を前提とする)ビールとは違う点です。

5、6年かけて、ニューヨークで地歩を固めてから、全米へと打って出る計画です。

〈一宏社長は言う。「0.2%への挑戦なんです」。国税庁の調査では、米国のアルコール市場は、消費金額ベースで2169億3400万ドル(同約32.5兆円)。ビール、ワイン、ウイスキーがその6割を占める。日本酒は(SAKEを含めて)4億200万ドル(同約603億円)と、市場のわずか0.2パーセント。「日本酒は“日本食のお供”でしかないことが、0.2%しかない理由です」〉
ニューヨーク州の北部、ハイドパーク市に建設された「ダッサイ・ブルー」の工場
筆者撮影
ニューヨーク州の北部、ハイドパーク市に建設された「ダッサイ・ブルー」の工場 - 筆者撮影

■まず「日本酒とは何か」を伝えなければ

〈日本食は北米でもブームになって伸びてはいると、たびたび報じられるものの、実際には規模は小さい。日本食店だけへの提供では、どうしても限界がある。なので、多様なレストランにSAKEを売り込んでいくが、そうなると「日本酒の文化、背景について、一流レストランのシェフやソムリエにきちんと伝えなければなりません。新工場はそのための前線基地です」と一宏社長。

工場は、麹造りをはじめ各工程を見学できてテイスティングルームも完備している。日本酒が同じ醸造酒のビールやワインと違うのは、糖化と発酵が同時に行われるなど、つくりが複雑なこと。特に純米大吟醸となると、外部環境の変化に対して敏感であり、冷蔵保存が求められる。

SAKEを知らないレストラン関係者に、飲むだけでなくSAKEが出来上がる様子を見てもらい、保管を含め理解を深めてもらう必要があるのだ。接点が、進出工場である。〉

インタビューに答える桜井一宏社長
筆者撮影
インタビューに答える桜井一宏社長 - 筆者撮影

――料飲店から始めるわけですが、家庭向けの小売はどうするのでしょうか。小売店での日本酒の価格は店によりバラバラと聞きます。

【博志会長】米市場において、日本酒の価格は、流通によってコントロールされています。価格決定権が酒蔵にはない。これは日本酒業界の弱点なのです。自分たちで価格コントロールできる正常な形に、これからしていきたい。ダッサイ・ブルーをSAKEのスタンダードになる強いブランドにしていき、是正していければと。

■より高額なダッサイ・ブルーも投入していく

〈シェア0.2%と、日本酒の存在感があまりに希薄なため、商品に対する流通の支配力が圧倒的に強い、という状況なのだ。

さらに、アメリカの酒類の小売販売は州によって異なる。「ニューヨーク州の場合、リカーストアにワインや日本酒は置けるが、ビールは販売できない。その一方、スーパーではビールを販売できるものの、ワインやウイスキーを売ることはできない」(一宏社長)。これは小規模なリカーストアを保護するためだけでなく、「禁酒法時代のなごりから、酒類販売への規制が残っているため」(現地の関係者)という指摘もある。

なお、9月に発売を始めた「ダッサイ・ブルー タイプ50 720ml」は小売店でも販売され、希望小売価格は34.99ドル(同約5248円)。タイプ50は精米歩合が50%を意味するが、今後は35%、23%と、より高額なダッサイ・ブルーを現地に投入していく方針だ。〉

――実は昨日、ブルックリンのステーキハウス「ピータールーガー」に、行きました。そこでは、ステーキを運んできた中年の接遇スタッフから、「ステーキソースは使わないように。肉だけで味わいなさい」と言われました。

「ではなぜ、ソースをもってくるのか」と質すと、「当店が100年以上前から提供するソースを、好きだというお客さまがいるから。どうしても使いたかったら、一回だけ試しなさい」と諭(さと)されました。値段の高さ以上に、自分たちのソースを否定する対応に驚きました。

■大手はカリフォルニア産の食用米を使っているが…

【博志会長】きちんと説明できるスタッフがいるから、ニューヨークの一流店として認められ、世界から来客があるのです。私達は、こうした店を営業し、ダッサイ・ブルーを広めていく。

――ニューヨーク以外の州は、当面どうしていくのでしょうか?

【博志会長】岩国でつくった獺祭を従来通り展開していきます。

――獺祭の輸出は、いつはじめたのですか。

【博志会長】2004年からです。日本酒のなかでは、いまはウチが輸出金額で最大手だと思います。

〈大吟醸である獺祭は、輸出が始まると「ウォール街の金融マンに、特に愛されました」と一宏社長。金融マンが、ロンドンやデュッセルドルフ、上海などに動くたび、獺祭は世界へと広がりファンを増やしていった。

米市場での日本酒の消費金額4億200万ドルのうち、4400万ドルは日本からの輸出分。残りの3億5800万ドルは、宝酒造や月桂冠、大関など大手が主に西海岸で現地生産する分だ。

これまで、大手各社は和食レストランに比較的安価なSAKEを供給してきた。原料の酒米にはカリフォルニア産のカルローズという品種が使われてきた。本来は食用に栽培されている米だが、酒米としても適性があり、日系の食品商社が高精白して各社に供給している。〉

ニューヨーク工場では日本人のほか、現地採用の米国人スタッフが6人働いている
筆者撮影
ニューヨーク工場では日本人のほか、現地採用の米国人スタッフが6人働いている - 筆者撮影

■“日本酒バブル”は曲がり角を迎えている

〈これに対し、ハイドパークに進出した旭酒造は最高級である純米大吟醸しか作らないのが特徴だ(旭酒造は日本でも純米大吟醸「獺祭」しかつくっていない)。酒米には、王道である山田錦を100%使う。半分は日本からの輸入だが、半分はアーカンソー州の農家が生育したものを調達している。

財務省の調べでは、22年における日本酒の輸出額は前年比18%増の475億円。獺祭は71億円と15%を占めた。米国への輸出額は前年比14%増の約109億円。やはり獺祭が15%ほどを占めるそうだ。

もっとも、今年に入ってからは、日本酒の輸出額は前年を下回ってしまっている。1月から4月で12.5%も減少した。特にアメリカの物価高や在庫調整が影響していたようだが、コロナ後半にアメリカで飲食の消費が急拡大した反動が今年になって現れたともいえる。いずれにせよ、これまで10年ほど続いてきた日本酒のバブル的な輸出拡大は、曲がり角を迎えた格好だ。

一方で「日本国内の日本酒市場は、02年の90万キロリットルに対し、22年は40万キロリットルと縮小に歯止めがかかっていない」(一宏社長)状況。このため、日本酒メーカーは海外市場に活路を求めるしかなく、新たなアプローチが模索されている。〉

■72歳でアメリカ移住を決断した理由

――会長は工場の建屋が完成した後の今年3月はじめに、奥さまとこちらに転居し、工場に常駐されているのですね。

【博志会長】波紋を呼んでます。また会長がついてくる、あいつは72歳で移住してまでやるのか、と(笑)。酒のつくりは、私がすべてわかるわけではない。技術は日進月歩で進化していますから。

ではなぜ、常駐したかといえば、事業が失敗したときの責任を私が取るためです。現場のスタッフは、そのほうがやりやすいはず。責任を私になすればいいのですから。

――責任とはっきり言えるのは、会長がオーナー経営者だからでしょう。サラリーマンはトップからヒラまで、責任という言葉に弱い。

【博志会長】3月に来て、6回の仕込みをパーにしたのは私です。テイスティングしてみて、純米大吟醸としては出せるけれど、“ダッサイ”と冠するなら許せないと私は判断し、却下した。7回目は当落線上でしたが、やはりNGを出す。8回目で、ようやくダッサイとして説明ができるレベルに達しました。

――目先の損失よりも、大切なものがあったということでしょうか。

【博志会長】これを出すわけにはいかない。「これはダメだ」とはっきり言えるのは、私だけなんです。サラリーマン社長の酒蔵なら、これほどやらないし、やらせないと思います。

ダッサイ・ブルーはアメリカでつくる酒であり、アメリカの社会に私たちはSAKEを届ける。日の丸の名誉に、傷をつけることがあってはならんのです。

2023年9月23日、DASSAI BLUEのローンチパーティー
筆者撮影
2023年9月23日、DASSAI BLUEのローンチパーティー。地元の名士らが集まった - 筆者撮影

■麹をつくるのに素手ではなくゴム手袋を…

――旭酒造では初めての海外進出工場ですが、工場はいま、何人が働いているのですか。

【博志会長】日本から派遣されたベテランが3人、現地採用のアメリカ人は6人の陣容です。

――酒づくりにおいて、設備は同じでも、水などの環境の違いがあるのでしょうか。

【博志会長】水はミネラル分が多く、日本の水よりも硬度が高く発酵は速く進みます。また、半分使っているアーカンソー州の山田錦は、日本産と比べて中心部の(デンプン質を多く含む)「心白(しんぱく)」は少ない。ただし、アーカンソーの山田錦はよくできていると、私は思う。問題は、水や原材料ではなく人。

日本と同じような設備を導入して酒蔵を作ったのですけど、何かと微妙に違った。分業化社会で働いてきたアメリカ人社員に、日本人社員がある種の過剰反応を起こして、本来のあるべき姿を失ってしまったのです。

――どんなことが起きたのですか。

【博志会長】例えば、麹をつくるのに、日本人スタッフまでがゴム手袋で作業をしてしまったのです。アメリカ人に合わせて清潔にしようとしたのですけど、本来は手で行い感触を大切にするものなのに。いまは改めて、日本人もアメリカ人も手でやっていますが。

■マルチジョブ型の酒蔵にどう慣れてもらうか

〈一宏社長によれば、「米が蒸し上がる直前に昼休みのチャイムが鳴ったら、アメリカ人従業員はサッサと休んでしまいました。米が蒸し上がったら、次の作業に素早く移らなければならないのに」と明かす。欧米企業の場合、社員は職務内容を詳細に記したジョブディスクリプション(職務記述書)に則って働く。そして、休み時間も厳格に取る。

日本企業では、マルチジョブ型に複数の職務を担うケースは多い。特に酒蔵の場合、酵母という生物の活動に左右される上、少人数でモノづくりを行っているため、陸上競技に例えるなら、短距離しか走らない選手でなく、幅広く職務を担える十種競技の選手が求められる。〉

――アメリカでは分業が徹底していて、自分の職務以外の仕事はしない、というのが一般的ですが。

【博志会長】いまのところ、製造現場ではそれはないですね。そもそも、0.2%のシェアしかなく、ほとんど飲まれていない日本酒の世界に入ってこようと、応募してきたわけです。ウチのアメリカ人社員は少し変わっているのかもしれません。でも、日本酒への情熱、思い入れは、みんな強いのは共通します。

博志会長
筆者撮影

■「酒づくりとは人づくり、なのです」

――ずいぶん前ですが、スズキ前会長の鈴木修さんが、「自分の工程を考えるだけではダメ。前後の工程も視野に入れ、何より製品の完成形のイメージを工場に働くみんなが共有できれば、モノづくりは強くなれる」と話してくれました。分業にこだわらないで、みんなが最終形を思い描きながら働くのは、日本型モノづくりの強さかと思います。

【博志会長】日本の獺祭は、スズキさんと同じ考え方でつくっています。ハイドパークもいずれは、そうした形にしていきたい。

――旭酒造は、杜氏を設けないで社員一人ひとりが醸造の専門家として酒づくりに従事しています。社員による年間を通して酒を造り続ける四季醸造といった、革新的なつくりを採用し成長を遂げてきました。独自の考え方や、つくり方を、旭酒造がもつ日本酒の文化そのものをアメリカ人社員にも伝承していくのでしょうか。

【博志会長】もちろんです。人種は違っても、よりよいものをつくりたいという、モノづくりに対する考えは、日本人と変わりません。酒づくりとは人づくり、なのです。

いずれ、ハイドパークでの“SAKEづくり”を牽引するアメリカ人リーダーは出てくるでしょうし、育てていきたい。

■日本メーカーはどれも負け続きだが…

〈一宏社長は言う。「ニューヨーク州に工場進出したテーマは2つ。一つは、日本の伝統産業である日本酒を世界に広げていく。もう一つは、モノづくりの進化です。日本とアメリカとで、切磋琢磨(せっさたくま)し合って品質をはじめ進化のスピードを上げていきたい。獺祭を超えるダッサイをつくり上げていくつもりです」

「日本ブランドとして、ソニーやホンダはあります。しかし、エルメスやグッチはない。ダッサイ・ブルーをグローバルブランドにしたい。アルコール飲料界のアップルを目指します」〉

――半導体をはじめ、リチウムイオン電池やEV(電気自動車)など、日本の先端分野のモノづくりが、負け続けています。そうしたなか、日本の伝統産業であり文化である日本酒のメーカーが、世界の飲食文化の中心であるニューヨークに出たわけです。大きな決断だったのでは。

【博志会長】私どもの酒蔵は、山口県岩国市の獺越(おそごえ)という辺鄙な田舎にあり、地元では負け組だったのです。私は1983年に3代目社長として跡を継ぐ。安い酒を造り続けていて経営は苦しかった。

そこで、安酒づくりをやめて、90年に純米大吟醸「獺祭」を発売して、東京に出て行きます。というより、出て行かざるを得なかった。東京に出てみると、市場が大きくてシェア競争はなかった。私にとっては、世界よりも東京に出たときのほうが、遠いと感じました。

■投資額は20億円予定→90億円に

――空前の円安が進むなかでの米国進出です。しかも、竣工が4年遅れた上、当初計画より投資額が大幅に膨らみました。旭酒造の売上高165億円(22年度)に対し、投資額はそれの半分以上に上ったと聞きますが、まさに社運をかけたプロジェクトです。

【博志会長】進出を最終決断したのは私です。2017年の初め頃でした。しかし、難しい現実が押し寄せます。

〈一宏社長が説明する。「ニューヨーク州の同じ地域にあっていまも提携する料理大学「カリナリー・インステチュート・オブ・アメリカ(CIA)」からオファーがあったのが2016年末。17年初めに、スーパーマーケットの跡地だった現地を視察し、すぐに会長がGOを出しました。

当初19年春には完成させ、投資額も20億円と見込みました。ところが、資材高騰や円安、排水処理規制への対応などから、工事は進まず、建設費も大幅に増えてしまい一時プロジェクトは凍結されました」〉

旭酒造のニューヨーク工場(酒蔵)
筆者撮影

【博志会長】結局、投資額は最終的に約90億円となりました。当初見込みの4倍以上に膨らんだ。

――建設が進まないとき、葛藤はなかったのですか。

【博志会長】とても悩みました。自分は撤退を決断する度胸もない経営者なのかと、自問しました。口では“やる”と言い続けましたが、社長や幹部は私の苦しい胸の内に気付いていたのでは。その頃の私は、いつもソワソワしてましたから(笑)

■国や自治体からの補助金を受けない理由

――何がよかったのですか。

【博志会長】売り上げが大きく伸びたのです。特に輸出額が伸びた。20年度に35億円だった輸出は、21年には60億円に倍増。22年も71億円で推移したのは大きかった。コロナ禍で中国の富裕層が、家飲み用に獺祭を選んだのは感動的でした。

――旭酒造は、日本酒の海外展開で交付される国や県からの補助金を受けていません。

【博志会長】事業は自立してやるものなのです。官の金を使うと、かえって高くついてしまう。官は回収に来るから。天下りなどを受けたらマイナスは大きい。自立して自力でやり抜いていけば、今回もそうですけど、どこかに良いことはあって、活路は開けるのです。

戦後の産業史を紐解くと、官を頼らなかった自動車は大きく成長しました。本田宗一郎さんは当時の通産省(現経産省)と対立して自動車に参入し、ホンダは世界企業になっていった。

設備投資という点で私が参考にしているのは、経営難だったアサヒビールが1987年に「スーパードライ」を発売した直後に断行した、スピード感のある連続的で大規模な設備投資でした。

当時の樋口(廣太郎)社長の即断力、大胆さは、すごく勉強になってます。設備投資は、タイミングが大切で、伸びるときにやらないと意味はない。なので、今回のアメリカ進出では、投資額は膨らみましたが大胆に断行しました。チャンスは、いつもあるわけじゃない。

一宏社長
筆者撮影

■「勝ちっぱなしではうまくいかない」

――確かに、勝負の時はあります。アサヒは設備投資で流れが変わり、負け組を脱していった。

【博志会長】私どもは、日本酒業界で最も多く失敗を重ねてきました。負けてばかり。99年には地ビールに進出するも失敗し約2億円もの借金を負った。「先はない」と読んだのでしょう、杜氏は部下全員を連れて出ていった。しかし、これを逆手に取ったから、杜氏を使わないいまの生産方式が生まれます。

――旭酒造は、負けながら強くなっているのでは。失敗を重ねているのに、気がつけば存在を高めている。

【博志会長】失敗しないのは簡単なんです。チャレンジしなければいいだけ。でも、企業というのは勝ちっぱなしでは、うまくはいかないのです。同じ山口県に本社があって親交のあるファーストリテイリングの柳井正会長兼社長は、「1勝9敗」と仰っている。私も勝率は高くはない(ちなみに博志会長は1950年生まれで柳井氏より2歳下)。

どうやら私たちは長州藩の流れを汲んでいて、負けながら局面を動かしていくタイプなのかもしれません(笑)。

■仕事とは、小さな成功体験の積み重ねである

――博志会長は経営者として、自身が変わったというタイミング、転換点はあるのでしょうか。

【博志会長】40代になった頃、(つまり1990年に)獺祭を発売した後、獺祭のギフトをカラフルにしてみたら少し売れ出したんです。そこで、また次の小さな工夫をして、またうまくいった。

小さくとも成功を重ねると、それなりに結果はついてくるという感覚をつかんだのです。人によっては1時間でわかる難しいことを、難しいと捉えず、12時間かければ自分でもわかるようになる、と発想できた。すると、経営者として「やっていける」と自信につながった。

私の趣味は酒蔵。365日24時間、経営者になってからずっと仕事のことばかり考えています。この結果、得た感覚なのです。考え続けていると「このやり方なら、できる」と浮かんでくる。もちろん、社員に四六時中働けなど、今の時代に言いませんよ。自分は経営者だから、没入できる。もちろん、失敗もします。何度もね。

アメリカに進出したわけですが、いまは岸辺にようやく上がったところ。小さく、少しずつでも、前に進んでいける道が見え始めています。

旭酒造の桜井博志会長と桜井一宏社長
筆者撮影

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永井 隆(ながい・たかし)
ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう傍ら、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社)、『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。

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(ジャーナリスト 永井 隆)

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