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「横浜しか行きません」と断言…地元球団を切望した怪物・松坂を一発で口説いた"名監督のひと言"

プレジデントオンライン / 2023年10月21日 12時15分

西武との交渉を終え東尾修監督(右)からプレゼントされたボールを手にする松坂大輔投手=1998年12月9日 - 写真=時事通信フォト

1998年、西武ライオンズの監督だった東尾修さんは、横浜高校(当時)の松坂大輔投手の獲得を目指していた。「横浜(現DeNA)ベイスターズしか行かない」と公言していた松坂さんをどのように説得したのか。東尾さんの著書『負ける力』(インターナショナル新書)から一部を紹介しよう――。

■唯一無二だった松坂大輔

松坂が横浜高校で甲子園に出場した際には、堤さんからフロント、スカウト、首脳陣に「よく見ておけ」というオーナー命令が下された。そんな指示は後にも先にも、大輔一人だったと記憶している。

堤さんはとにかく負けず嫌いなので、ある時はフロントを通じて、ある時は直接電話で指示が飛んできた。誰を使え、誰を二軍に落とせ、といった類(たぐい)のものだ。ただ、その通りにできない時は、できない理由を説明すればわかってもらえたし、誰とは言わないが、試合中に「あいつを代えろ」とベンチに電話して采配にまで口を挟むタイプのオーナーではなかった。

ある時も「大成を二軍に落とせ」と言ってきたが、フロントの人と一緒に落とせない理由を説明したところ、翌日にはすっかり忘れて観戦に熱中していたそうだ。「監督」と一口に言っても、与えられる権限はチームや人によって違ってくる。チームによっては社長や役員のような立場にもなりうるし、部長・主任クラスの権限しか与えられないということもあるだろう。

また、原辰徳の辞任により、現役続行を希望していた高橋由伸が巨人の監督になったことがあったが、辰徳のような人事権は与えられてはいなかったという。由伸に辰徳のような振る舞いができたかどうかは別にして、彼にできることはかなり限られていたのではないかと思う。

■オーナーとは腹を割って話せる関係だった

私の場合、オーナーと腹を割って話せるという点で、由伸よりはやりやすかったのではないかと想像するが、それでも1年目は準備期間がなかったので、一軍・二軍コーチの人事にはあまり手を付けられず、森さん時代の後を引き継ぐ部分が多かった。堤さんは89年から日本オリンピック委員会(JOC)の初代会長を務め、長野オリンピック(98年)の誘致に奔走した人でもある。

そのため海外のスポーツ界とのコネクションも多く、80年から2001年まで国際オリンピック委員会(IOC)の会長だったフアン・アントニオ・サマランチ氏とも親交があった。サマランチ氏の事務所には、代理人を通じて世界中からスポーツ選手の売り込みがある。堤さんに言われてスカウトとともに事務所を訪ねて獲得した選手の一人が、2000年に入団したトニー・フェルナンデスだった。

練習ではわざとトンネルをしたり、工事用のハンマーで素振りしたり、暗室で瞑想(めいそう)したりとかなり変わった選手だったが、チームへの貢献は揺るぎない男だった。ドミニカでお兄さんが亡くなった時も、チームの優勝争いを優先して帰国を延期してくれた。引退後はテキサス・レンジャーズのGM特別補佐を務めたこともあったが、2020年に若くして亡くなっている。

■「横浜しか行かない」と言っていたが…

さて、松坂大輔という投手は本物なのか。

甲子園春夏連覇、PL学園との延長17回の死闘、決勝でのノーヒットノーランなど、高校野球で残した成績は凄まじいものがある。しかし、実績よりも大事なのは、プロの眼で見て「投げる球の質が高いのか」「長く投げ続けられるフォームなのか」というところだ。

甲子園球場
写真=iStock.com/Loco3
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Loco3

テレビ中継で見ただけでも、モノが違うことは一目瞭然だった。しかし大輔は「横浜しか行かない」と公言していたので指名を回避する球団も多く、ドラフト会議ではリーグ優勝を争った日本ハムと、日本シリーズで戦ったばかりの横浜が競合相手となった。

ドラフト会議で運よく当たりくじを引き、横浜希望と言う彼をチームに招くべく、初回の交渉では私の200勝記念ボールを「この重みをどう感じるかは任せる。君が200勝したら返してくれ」と言って渡している。ご両親と本人には「監督としてではなく、一人の投手として責任を持って200勝させる」と約束し、あくまでも競争の中で勝ち残らせて、日本シリーズ第1戦の先発を任せられる投手にすることを宣言した。

251の勝ち星のうち、記念として残していたのは200勝のボールだけだった。その重みをどう感じてくれたのかはわからない。しかし、二度目の交渉で前向きな返事をもらい、あとの細かい交渉や手続きは気持ちよくフロントに任せることができた。

■「影武者」を使ってファン対策をしたことも

大輔の投げる姿を初めて見たのは年明けの1999年1月、西武第二球場で行われた新人合同自主トレの時だった。キャッチボールの球の強さがほかの選手とはまるで違う。体幹の強さもはっきりと見て取れた。ただ、足首などの関節の硬さは気になった。実際、この硬さは現役後半の大輔を苦しめ続けた。

キャンプには、見たことのない数のファンと報道陣が詰めかけた。大輔のグラウンドコートを着た「影武者」を走らせてファンを引き付け、その隙に本人やほかの投手陣を移動させたこともあった。大輔には「西崎幸広を手本にしろ」と伝えていたが、影武者のアイデアは西崎によるものだったらしい。

キャンプを通じて、気になるクセを段階的に修正しつつ、なんとか一軍で投げさせられるレベルにまで持ってくることができた。ただ、疲れもあってかオープン戦では精彩を欠き、与えたホームランも四球の数も多かった。これで一軍ローテーションに加えては、誰の目にも優遇したのが明らかになってしまう。畢竟(ひっきょう)、ローテーションを争うほかの投手たちの士気も下がってしまうだろう。

ラストチャンスは3月28日、サントリーカップ(オープン戦)の対横浜戦だった。先発して6回2安打1失点、6四球は問題にしても11奪三振はさすがの一言、「競争の中で勝ち残らせる」という公約を果たしたといえる内容だった。

■「なんとか勝ち星でスタートさせてやりたい」

さて、問題はいつ投げさせるかだ。

球団からは「西武ドームでの福岡ダイエーとの開幕2連戦で投げさせたい」という要請もあった。開幕投手の西口文也に続く第2戦目では、前日が勝ちでも負けでも、新人にはプレッシャーが大きすぎる。私自身は負けて負けて負け続けて成長したピッチャーだったが、大輔は常に「松坂世代」のトップランナーであっただけでなく、世代を超えて日本中が見守る大スターだ。「何とか勝ち星でプロ野球人生をスタートさせてやりたい」と思って選んだのが、開幕第4戦、東京ドームでの日本ハム戦だった。

東京ドーム
写真=iStock.com/TkKurikawa
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/TkKurikawa

傾斜が大きい東京ドームのマウンドは本格派投手向きで、4試合目ともなれば相手投手の力量も落ちてくるという読みもあった。とはいえ当時の日本ハム打線は小笠原道大、片岡篤史、田中幸雄、マイカ・フランクリンといった錚々(そうそう)たる強打者を並べる「ビッグバン打線」で、高卒新人投手にとってはあまりにも高いハードルだった。

あとから聞いた話だが、その中心にいた片岡と、西武で代打や指名打者として活躍していた金村義明が試合前日に食事をした時、片岡はこう言ったという。

「しょせんは高校生、スライダー投手じゃないですか。明日は血祭りにしてあげますよ」

■最後は身体とマウンドの硬さに苦しめられた

大輔たち横浜高校が春夏連覇を果たす11年前に、PL学園で春夏連覇を成し遂げた片岡は、テレビで横浜対PLを観戦していたらしい。金村が大輔に、「片岡がお前のこと変化球投手って言ってたぞ。あいつにだけは真っ直ぐを思い切りいっとけ」と伝えたところ、大輔はニヤリと笑ったのだそうだ。

初回、3番の片岡に投げ込んだ155キロのストレートは、フルスイングした片岡が尻もちをついたこととあわせて語り草となっている。片岡の出したバットのはるか上を通過した白球を見て、私はマウンドに仁王立ちする18歳の少年が、すでに球界を代表する投手であることを確信した。

大輔は8回を5安打2失点、9奪三振。大輔のあとは橋本、デニー、西崎と繫いで5対2で逃げ切り、チーム全体で彼に初勝利を贈ることができた。本人以上にリリーフ陣の緊張は相当なものだったようだ。この年、イチローとの初対決で3打席連続三振に切って「自信が確信に変わりました」と答えてみせたことも語り草になっている。

東尾修『負ける力』(インターナショナル新書)
東尾修『負ける力』(インターナショナル新書)

大輔は16勝を挙げ最多勝と新人王を獲得、西口が14勝、石井と豊田も2桁勝利を挙げ、前年の横浜との日本シリーズでは抑えとして好投した西崎をリリーフに回し20セーブと、投手陣は強力な布陣となった。ただ、チーム内の最多ホームランが、松井稼頭央と垣内哲也の15本であったことに象徴されるように、打線が不調でチームは2位に終わった。優勝はダイエーホークスで、日本シリーズでも中日相手に4勝1敗の成績で日本一となっている。

大輔はこの年から3年連続最多勝と、またたく間に球界を代表するピッチャーとなり、2000年シドニー五輪や2004年アテネ五輪でも日本のエースとして活躍した。メジャーでも活躍したことは言うまでもないが、身体の硬さとマウンドの硬さに苦しめられ、片岡を斬って取ったあの姿が戻ってくることはなかった。

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東尾 修(ひがしお・おさむ)
元プロ野球選手・監督
1950年、和歌山県生まれ。69年に西鉄ライオンズに入団。チームは親会社やスポンサーが変わったことにより、太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズ、西武ライオンズと3度の名称変更が行われるが、ライオンズ一筋で投げ抜き、エースとして活躍した。通算251勝247敗23セーブ。1995~2001年に西武の監督を務め、二度リーグ優勝へ導いた。2010年に野球殿堂入り。13年のWBC野球日本代表の投手総合コーチに。著書『ケンカ投法』(ベースボール・マガジン社新書)、『負ける力』(インターナショナル新書)など。

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(元プロ野球選手・監督 東尾 修)

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