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妹の行く末を案じて父を殺した秀吉に嫁ぐ…孤児から天下人の母にまで上り詰めた淀殿の数奇な運命

プレジデントオンライン / 2023年10月22日 15時15分

映画『キネマの神様』の完成披露試写会に登壇した北川景子さん(東京都千代田区の丸の内ピカデリー)=2021年6月28日 - 写真=時事通信フォト

豊臣秀吉の妻だった淀殿はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「戦国時代には珍しく自己主張が強い女性だった。その性格は、幼少期に両親を亡くし、他人の庇護下で生きた壮絶な経験のせいだろう」という――。

■10代で2度の落城、両親との離別を経験した淀殿

徳川家康が享年75(満73歳)で没するほぼ1年前、大坂夏の陣で自決した淀殿こと浅井茶々が、いわゆるラスボスになることはまちがいない。NHK大河ドラマ「どうする家康」の話である。そのための布石は、すでに第30回「新たなる覇者」(8月6日放送)で打たれていた。

信長の妹、市(北川景子)が再婚した柴田勝家(吉原光夫)は、賤ケ岳合戦で敗れて居城の北ノ庄城(福井県福井市)に逃げ込むが、羽柴秀吉(ムロツヨシ)に囲まれてしまう。市は夫とともに自害する道を選び、浅井長政(大貫勇輔)とのあいだに生まれた茶々、初、江の3姉妹を秀吉のもとに逃がす。

その際、茶々(少女時代は白鳥玉季)が秀吉の前で、いきなり「秀吉の女」になることを許容するような、思わせぶりな態度をとった。それはこういうことだった。子供時代の家康(松本潤)は市に、危機のときには助けに行くと約束し、市はそのことを娘に話して聞かせていた。それなのに、家康は助けに来ないで市を見殺しにしたので、茶々は家康を恨み、「茶々が天下をとる」と宣言して秀吉に投降した、というわけである。

茶々は秀吉を利用して「天下をとる」ことをたくらみ、家康にはみずから命を絶つまで抵抗を続ける。その動機が「どうする家康」では、慕っていた家康に助けてもらえなかったという、母の無念に置かれるということだ。

10代半ばまでに二度の落城を経験し、そのたびに父、母ばかりか周囲の人間がみな死んでいった茶々の生い立ちを考えれば、屈折しないほうが不思議である。だが、歴史を動かした背景が、あまりに小さなスポットに設定されてはいないか。

■史実とは異なる大河での家康と市の関係

そもそも、家康と市が幼少期に交流したという記録はない。

ドラマでは竹千代と呼ばれた家康が、今川義元の前に織田信秀(信長の父)に人質として差し出されていたときの話として、市と交流する様子が描かれた。しかし、竹千代が信秀のもとで過ごしたのは天文16年(1547)から17年(1548)だと考えられるが、市の生年について黒田基樹氏は、「結婚と子どもの出産年齢からの推定として、天文十九年頃の生まれの可能性が高い、とみておきたい」と記す(『お市の方の生涯』)。そうであれば、家康が織田方に送られていたとき、市はまだ生まれていない。

その後、2人が知り合った可能性も否定できないが、市が家康の助けを期待していたことはありえない。

天正10年(1582)10月末、秀吉は勝家と信長の三男の信孝が謀反を起こしたという名目で、信長の次男の信雄に織田家の家督を継がせるというクーデターを起こした。これを受けて家康は、12月22日付の秀吉宛て書状で祝意を表している。すなわち、この時点で、家康は[勝家=市]と敵対していることになり、助ける云々以前の話である。

「淀殿」といえば、北条政子、日野富子と並んで「日本最大悪女」の一人に数えられ、江戸時代には散々「淫婦」として喧伝された。だが、こうした見方について福田千鶴氏は「豊臣氏は徳川氏によって亡ぼされたのではなく、『淀殿』の不義により内部から崩壊していったのだと理由づけており、徳川氏による天下支配を正当化しようとする見方が底流にある」と書く(『淀殿』)。

だから、人間としての茶々をそこから拾い上げることには意味がある。しかし、いくらドラマだからといっても、史実を検証すればすぐに否定される逸話にその行動原理を求めてしまっては、本末転倒だと思うのだが。

伝 淀殿画像(画像=奈良県立美術館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
伝 淀殿画像(画像=奈良県立美術館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■茶々が秀吉に提示した結婚の条件

では、浅井茶々とは、わかっているかぎりどんな女性だったのだろうか。

茶々、初、江の3姉妹が秀吉の庇護を受けたのはまちがいない。北ノ庄城から救い出されたとき、茶々15歳、初13歳、江11歳ほどだったと思われ、当然、自立して生きることなどできるはずがない。

茶々は北ノ庄から安土城へ移ったのち、秀吉が大坂城に移るまで本拠地にしていた姫路城に入ったと考えられている。秀吉に同行して姫路入りしたのであれば、茶々はすでに秀吉にとって特別な存在だったのだろう。そして『渓心院文』には、秀吉が15歳の茶々に結婚を申し入れた旨が記されている。

黒田基樹氏は『お市の方の生涯』に、茶々と秀吉の「結婚」についてこう書く。「これは茶々が、三人姉妹の長女の立場であったことから、妹二人の処世に責任を負っていたこと、それを実現しようとしての行動とみることができる」。すでに実家もない三姉妹の人生は、「しかるべき人と結婚することでしか遂げることはできない状況にあった。そのため茶々は、自身は秀吉からの結婚を申し入れられたことで、秀吉の庇護をうけることができるようになるものの、二人の妹が処世できるように配慮して、自身の結婚の条件に、妹二人の結婚の取り計らいを提示した」というのである。

■秀吉の愛妾ではなく正室だった

秀吉の正室はいうまでもなく北政所こと木下寧で、別妻として茶々のほか、茶々の従姉でもある松の丸殿こと京極龍子、前田利家の娘の加賀殿こと前田摩阿、織田信長の娘の三の丸殿らがいた。そのなかで茶々は早い時期に求婚されたが、前出の黒田氏は、実際に結婚したのは天正14年(1586)の半ば以降で、松の丸殿や加賀殿らより遅いとみる(『お市の方の生涯』)。

ただし、福田千鶴氏は「天正十二年の段階ですでに三姉妹の進路は決められていたのではないだろうか」と書く(『淀殿』)。すなわち、茶々は秀吉の妻、初は京極龍子の兄である高次の妻、江は尾張(愛知県西部)の有力国人、佐治一成の妻(のちに豊臣秀勝、その死後は徳川秀忠と再婚)という進路である。

いずれにせよ、娘たちの「進路」が決まるまで自身の結婚を留保したのであれば、長女としての責任感は強かったと思われる。

ところで、茶々は秀吉の側室、もしくは愛妾だと思っている人は多いと思うが、福田氏は寧々に次ぐ事実上の正室だったとみる。事実、太田牛一は『太閤さま軍記のうち』に茶々を正妻の敬称である「北の御方」と記し、秀吉自身が茶々を、公卿などの正室の敬称である「簾中(れんちゅう)」と呼んだという記録もある。位階をもつ大上臈(おおじょろう)がお付きの女中だったことなどからも、それは裏づけられるという。

■秀吉が激怒した落書き

茶々の立場が、妊娠を機にさらに高まったのはいうまでもない。天正16年(1588)10月に、翌年誕生する鶴松の妊娠がわかると、秀吉はまず茶々を聚楽第(京都市上京区)から茨木城(大阪府茨木市)に移し、淀城(京都市伏見区)が完成すると、さらにそこに移して出産させている。

聚楽第図屏風(画像=三井記念美術館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
聚楽第図屏風(画像=三井記念美術館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

茶々が「淀」という字を付けて呼ばれるのはこのためだが、淀城に住んだのは鶴松の出産前後だけで、その期間は1年にも満たない。

秀吉が茶々を急いで茨木城に移したのは、世間の雑音から茶々を守ろうという意識があったものと思われる。秀吉のそうした意識は、天正17年(1589)2月25日夜に、何者かが聚楽第の表門に張り出した落首への対応からみてもわかる。

数首あったという歌のひとつは「大仏のくどくもあれや鑓かたなくぎかすがいは子だからめぐむ」というもの(『武功夜話』)。当時、秀吉は京都の東山に大仏殿を造る名目で、鑓(槍(やり))や刀を没収していたことと、子種がないはずの秀吉に子供ができたことをかけ、妊娠は大仏(大仏殿の釘やかすがい)の功徳だと嘲笑している。

■あまりに残忍な仕打ち

激怒した秀吉は、聚楽第の番をしていた17人を処刑している。まず鼻を削ぎ、日を置いて耳を切り落としたうえで、2日にわたって逆さ磔にするという残忍な処刑で、その後も100名を超える関係者が処刑されたという。

イエズス会宣教師のルイス・フロイスは『日本史』に、鶴松について「彼には唯一人の息子(鶴松)がいるだけであったが、多くの者は、もとより彼には子種がなく、子供をつくる体質を欠いているから、その息子は彼の子供ではない、とひそかに信じていた」(松田毅一・川崎桃太訳)と書いている。

日本の為政者に忖度(そんたく)する必要がない宣教師が、ポルトガル語で書いてこそ残せた内容で、当時、秀吉に子種がないという噂が広く浸透していたことがわかる。秀吉はそのことに神経を尖らせていたわけだ。

■家康に抵抗し続けたワケ

鶴松は2歳で早世するが、茶々は天正20年(1592)8月に拾、のちの秀頼を出産。茶々は大坂城で寧と並んで「両御台様」と呼ばれ(『佐竹古文書』)、秀吉の死後も豊臣家に君臨することになる。

そして、寧が京都新城に移り住んでからは、大坂城の女主人として秀頼を守り続けた。しかし、秀頼を溺愛するあまり教育すら施さなかった、という見方は誤っている。秀頼の教養は文武にわたって、親王や公卿、高僧といった当時の文化人とくらべて遜色なかったとされる。

ただ、茶々がそんな秀頼を守り続けたのは事実である。慶長10年(1605)4月、家康の嫡男の秀忠への将軍宣下が行われると、翌月に家康は高台院(寧)を通じて、その祝いに上洛するよう秀頼に求めた。しかし、茶々は断固として拒否し、どうしてもというなら秀頼を殺して自身も自害すると主張した。

すでに2度も落城を経験している女性ならではの気概だといえよう。城を攻められては、最初は父と兄を、次は母を失った茶々。かろうじて生き延びることで、ようやく天下人の息子の母にまで上り詰めた。それだけに、大坂城とわが息子には、絶対に手を出させない、という強い思いがあったのではないだろうか。抵抗したのは、家康だからではないだろう。

だが、その気概が強すぎたがゆえに、大坂の陣と、そののちの豊臣家滅亡にもつながった。ドラマの底流にある家康への恨みは荒唐無稽だが、自己主張が強く、それを支える精神力もまた強かったことだけは疑いようがない。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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