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首まで地面に埋め、通行人にのこぎりで挽かせる…江戸時代の庶民が恐れた「6種類の残酷すぎる死刑」とは

プレジデントオンライン / 2023年10月25日 17時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Hiob

江戸時代の犯罪者はどのような刑罰を受けたのか。歴史作家の河合敦さんは「死刑は罪の軽重に応じて6種類あった。最も重い刑は、主人を殺害するといった大逆罪に限定された鋸引だが、あまりに残酷だったために実際の刑として成立しなくなった」という――。

※本稿は、河合敦『日本三大幕府を解剖する 鎌倉・室町・江戸幕府の特色と内幕』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

■首を刎ねる斬首刑だけでも3種類あった

正刑のうち最も重いのが死刑である。だが、その死刑も罪の軽重に応じて「下手人、死罪、獄門、磔、火焙り、鋸引(のこぎりびき)」の6種類に分かれていた。

下手人、死罪、獄門の3種は、いずれも刀で首を刎(は)ねて殺す処刑方法である。

その違いは、殺された後にある。

下手人は単に首を切り離されるだけだが、死罪は遺体を試し切りにされたり、そのまま放置されたりする。獄門は、台の上に首を晒されるという恥辱を受けた。

死刑(打ち首)は、伝馬町牢屋敷内の東北隅に設置された切場(処刑場)で執行された。下手人は昼間、死罪は夜と決まっていたようだ。

牢獄から引き出された死刑囚は、牢庭改番所(ろうていあらためばんしょ)へ入れられた。瓦葺きで平屋建ての小さな建物である。室内には役人などの関係者がずらりと並んでおり、死刑囚は縁側に腰掛けている検使与力の前に引きすえられ、鍵役が名前や肩書、年齢などを確認し、本人が相違ない旨を告げると、検使役が罪状と判決を記した文書を読み上げる。読み終わると、死刑囚は「おありがとう」と言わなくてはならなかった。

■死刑囚は土壇場に座らせられ、執行を待つ

その後、死刑囚は引き立てられて切場へ連れていかれる。このとき牢の前を通過するが、各牢の前に来ると、牢名主代が哀悼の言葉をかけるのが慣例だった。

切場の入口で死刑囚は半紙を二つ折りにしたもので目隠しされた。これを面紙と呼ぶ。その後、土壇場に座らせられる。土壇場は斬首になる台で、その前には大きな穴が空いている。ここに首が落ち、血が流れ出るのである。

死刑囚が着座すると、切り縄の背結びや喉縄が小刀で切り放たれ、執行人たちは着物を引っ張って両肩までずり降ろし、手をそえて首をのばし、さらに死刑囚の両足を強く後ろに引いて身体を前に出した。

死刑囚の首に添えた介助者の手が離れた瞬間、首討役は刀を振り下ろした。

■切り落とされた首は獄門台に3日間晒された

首討役は町奉行所の当番同心がつとめることになっていたが、江戸では麴町平河町の浪人山田浅右衛門が非公式につとめて以来、代々山田家の当主が執行することが多かった。

死刑囚が下手人の場合は、遺体は引き取り人に下げ渡された。死罪の場合は、遺体は刀の切れ味を確かめる試し切りなどにされることもあった。また、罪人の財産は没収された。

遺体は捨て置きということで、本所や千住の回向院に葬られた。獄門の場合は、切り落とした首を水で洗い、俵に入れて青竹を貫いて千住の小塚原や品川の鈴ヶ森の刑場に運び、獄門台のうえに3日間晒したのである。

主殺しや放火など、当時の重罪は、今のべたような処刑ではなく、もっと残酷な方法で公開処刑となった。それが磔、火焙り(火刑)、鋸引である。

これらの刑は千住の小塚原か品川の鈴ヶ森の刑場で執行された。まずは磔について説明しよう。

■6人から槍で20~30回突き刺される磔刑

牢屋敷から出された死刑囚は、刑場に向かう途中、この世の名残として、最後の食事が許され、好きなものを飲み食いすることができた。代金は検使役が自分の懐から出すことになっていた。

いよいよ死刑囚が刑場に到着すると、罪木と称する柱に体を縛りつける。罪木は長さ二間の太い柱に手と足を縛る二寸角の二本の横棒が交差した形になっている。

ここに荒縄で罪人を縛りつけてから三尺余り掘った穴の中に罪木を立てかけ、地面をよく突き固めて倒れないようにする。

検使役は、部下の同心に命じて死刑囚に名を尋ね、相違なき旨を確認した上で刑の執行を命じた。

白衣に股引、脚半、尻端折姿に縄襷をかけた突手6人のうち、2人が槍を握って左右に分かれ、死刑囚の目の前で槍の穂先を交差させる。これを見せ槍と呼ぶ。

その後、二尺ほど下がって、いきなり「ありゃ、ありゃ」と声をあげながら、槍を罪人の脇腹に突き刺した。槍を抜くとき、血が柄に伝わらぬよう必ずひねりを加えた。およそ二十数回から三十回ほど交互に突く。ひねりを加えるため、傷口が大きく穴をあけ、そこから血液だけでなく臓物や食べ物なども飛び出すため、そのむごさにいかなる剛胆な見物人も青ざめたといわれる。また、すぐに死ねないため、罪人の苦痛は甚だしいものであった。

■火あぶりの最後は陰嚢や乳房を焼いた

十数回、槍をつくと多くの者は絶命するが、頃合いを見計らって浅草弾左衛門が死体を改め、検使役の許可を得た上で突手に命じて咽喉を右から刺し貫かせた。これを止(とど)めの槍と呼ぶ。

検使役が死亡を確認した後、そのまま三日二夜、遺体はそこに放置された。

火焙りの刑も品川の鈴ヶ森か千住の小塚原のどちらかで執行されたが、その前に、属刑(付加刑)として「引き廻し」がおこなわれた。放火の場合は、火をつけた近辺や被災地域を裸馬などに乗せられて、その憔悴(しょうすい)した姿を世間に晒された。

磔柱に縛り付けるところまでは同じだが、木の枝などを罪人の前後左右へ立て掛け、藁などをかぶせて火をつける。たちまち炎があがり、ぱちぱちと音を立てて身体が焼けていく。そのさい執行人が竹ぼうきで罪人を叩いて炭を落し、さらにほうきに火を移して鼻の穴に向ける。こうして黒く焼け焦げたところで検使役が確認して刑は終了となる。

なお、火罪執行後、止めをさすため鼻を焼くが、男の場合、さらに陰囊(いんのう)を焼き、女の場合は乳房を焼いた。これをとめ焚きと呼んだ。

枯れ草を燃やす火
写真=iStock.com/Jenniveve84
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Jenniveve84

■あまりに残酷で成立しなくなった「鋸引」

さて、磔や火あぶりより残酷なのが、鋸引であろう。

これは主人を殺害するなど、大逆罪に限定された。身体を土に埋めたり、箱の中に押し込めたりして、首だけ地面の上に出させ、その脇に鋸を置き、通行人に挽かせるのである。だが、次第に通行人で首を挽く者はいなくなり、実際の刑として成立しなくなった。しかしながら、形式的にはその風習は幕末まで残された。

鋸引と決まった死刑囚は、市中を引き回しとなり、その後、「穴晒箱」と呼ぶ首だけ出す箱の中に入れられ、日本橋南詰広場に2日間晒された。このとき、両肩に切り傷をつけ、その血を二本の竹鋸に塗りつけ、首の左右に置いておくのだそうだ。そして最後は、刑場において磔となったという。

■武士の死罪には名誉ある切腹が科せられた

武士の死罪は庶民とは異なった。極刑にあたる罪を犯した武士は、切腹という措置を命じられる場合が多かった。切腹は、武士として名誉の死に方だとされたからだ。

腹の切り方は一文字や十文字など、いくつものバリエーションがあるが、一般的なのは、小刀を左脇下に突き立て、刃を右方向へグイッと引き回し、続いて心臓を貫き、柄頭(つかがしら)を持つ手の握りを変え、そのまま一気に臍まで切り下ろす。それでも絶命できなければ、自らの咽喉を刺し貫いて息を止めた。

座って鞘に刀を収める武士
写真=iStock.com/Josiah S
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Josiah S

時代がくだってくると、実際に腹を切らず、扇子や木刀を紙に巻いて小刀に見立て、それに手を伸ばしたとき、介錯人が首を打ち落とすようになった。これを俗に「扇子腹」などと呼んだ。

切腹は室内ではなく、庭先で執行された。伝馬町牢屋敷で切腹を命じられるさいは、牢屋敷の裏門に近い揚(あがり)座敷と百姓牢の間の空き地に切腹場が臨時につくられた。

左右と後方の三方に白木綿の幕が張り巡らされ、切腹場には砂が撒かれ、縁なしの畳二畳が置かれ、その上に白木綿でできた蒲団(大風呂敷)を敷いた。

■あえて首の皮一枚だけを切り残した理由

検使与力、御徒目付、御小人目付が左右に分かれて座り、切腹する武士は麻の裃を身につけて白木綿の上に着座する。検使与力は、その武士の姓名と年齢を確認し、自分が検使役として出張した旨を相手に告げ、「用意はよろしいか」と問う。「よい」と答えたなら、介添人が三方に紙に包んで短刀に見立てた木刀や扇子を載せて、本人の正面三尺あまりのところに置く。

頃合いを見計らって武士は肩衣の前をはずし、衣服をくつろげ、短刀をとらんと前に左手をつき、右の手を伸ばす。いよいよ三方に右手が達しようとするその刹那、介錯人が刀を振りあげて首を斬るのである。

手慣れた介錯人は、あえて首の皮一枚だけを切り残す。首を斬り落としてしまうと、重みがとれて身体が後ろに倒れ、介錯人自身が血を浴びてしまうことがあるからだ。

皮一枚残せば、首が垂れ下がった重みで身体は前に倒れる。このとき介添人は素早く首を引き立て、同時に刀で残る皮を切断する。その後、介添人は首をつかんで顔の正面を検使役に向けた。遺体は、白木綿に包んで取り片付けられた。

■罪の回数で文字が変化する入墨刑

最後によく時代劇に登場する入墨刑について紹介しよう。これは、窃盗犯に科される属刑にあたる。

江戸の場合、伝馬町牢屋敷の牢屋見廻り詰め所近くの砂利の上に筵(むしろ)が敷かれ、そこに犯罪者が引きすえられ、検使役として鍵役が詰め所縁側に着座し、本人の名前、年齢、入牢日などを確認したうえで、刑が執行される。

河合敦『日本三大幕府を解剖する 鎌倉・室町・江戸幕府の特色と内幕』(朝日新書)
河合敦『日本三大幕府を解剖する 鎌倉・室町・江戸幕府の特色と内幕』(朝日新書)

まずは対象者の左肌を脱がせ、そこに墨で文様を描き、その箇所に針を刺して皮膚を突き破り、墨を刷り込んで水洗いして墨が入ったかを確かめる。不十分な箇所には再び針を刺し、入墨を完成させる。最後は牢屋敷の責任者・石出帯刀が確認、その後再度、入墨の箇所に黒々と墨を塗り、紙でまいて紙ヒモでしっかり結び、完全に乾いたところで本人を呼び出し、最終チェックをおこなった。

江戸の入墨刑は左腕の肘関節の下に二本線を入れた。大坂は肘より上に施した。

佐渡では「サ」という文字を入れたが、腕ではなく額に入れる地域もあった。たとえば御三家の紀州藩では、なんと額に「悪」という字を刻んだ。広島藩では、初犯だと額に「一」と入れ、再犯すると「ノ」を足して「ナ」という形にし、三度目は「犬」という字にする。つまり、犬畜生にも劣るという意味だ。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史作家 河合 敦)

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