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樺太もカムチャッカもロシアに奪われた…江戸時代の鎖国政策が「最大の失敗」といえる理由

プレジデントオンライン / 2023年10月24日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PeterHermesFurian

江戸幕府は黒船来航まで200年以上、鎖国政策を続けた。評論家の八幡和郎さんは「ロシアと領土問題でもめている北方四島だけでなく、樺太やカムチャッカも元々は日本の領土だった。しかし、幕府が鎖国していたために、ロシアが北方領土に進出したのに気づかず、好き放題するのを許してしまった」という――。

■ロシアとの領土問題は北方四島だけではない

北方領土問題というと、国後・択捉・歯舞・色丹の四島の帰属ばかり論じられる。しかし、戦前には千島列島とか南樺太(サハリン)も日本領だったし、最近はアイヌを先住民族とする扱いについて、国内でも議論が対立している。ロシアが北海道に介入しようとし始めている兆しもあり、問題はより複雑だ。

そもそも、なぜ日本列島のすぐ近くにあるオホーツク海沿岸が、遠いモスクワを首都とするロシアの領土になったのか誠に不思議である。それは、徳川幕府が鎖国という愚劣な政策をとったために、ロシアの進出に気付きすらしなかったからなのであって、賢明に動いていればオホーツク海は日本の内海になっていてもおかしくなかった。

同じ時期に、清国では康煕帝がロシアの進出を断固として阻止するために、イエズス会の宣教使たちの知恵を借り、1689年にネルチンスク条約を結んでロシア人を追い出した。そこで、ロシアは日本が領土だと曖昧に認識したまま放置していたサハリンやカムチャッカに矛先を向けたのである。

その知られざる歴史を解き明かし、現代における平和ボケの教訓ともしたい。

■「樺太、千島、カムチャッカ」は松前藩領だった

『平家物語』には、平宗盛が蝦夷や千島に流されても、生きていたいといったことが書かれているとおり、平安時代の人々は蝦夷のみならず千島までも日本の領土として認識していたのである。

地球上のほとんどすべての土地がどこかの国の領土になったのは、19世紀末のことであって、それまでは、無主の地とか、漠然と領土だと認識しているだけの地も多かった。日本の場合も、稲作が普及して六十余州といわれた国郡が設けられた範囲だけでなく、その外縁部も領土だと認識されていた。

秀吉による天下統一後は、蝦夷の松前氏が蝦夷以北の支配を任され、アイヌを支配下に置くとともに、1700年には樺太を含む蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を作成して幕府に提出していた。

1715年には、幕府に対して「十州島(北海道)、樺太、千島列島、勘察加(カムチャッカ)」は松前藩領と報告している。

ところが、松前藩もアイヌを通じた間接支配に頼ったし、江戸幕府は蝦夷地の開発にほとんど興味を示さず、ロシアという国の存在も意識になかった。

■シベリア以東へ進出したロシアに清は抵抗

ロシアでは、織田信長と同世代のイワン雷帝がロシア中心部からキプチャク汗国が分裂してできたモンゴル人の汗国群を一掃し、バルト海、黒海への出口を求めての戦いを始めた。しかし、苦戦が続き、バルト海には17世紀末のピョートル大帝、黒海には18世紀後半のエカテリーナ女帝の時代まで進出できなかった。

しかし、シベリアは意外に早い時期にロシアの領土になった。シベリアの名はオビ川支流域にあったシビル汗国に由来する。ウラル以西では毛皮になる動物が獲り尽くされて不足したので、1598年に毛皮商人のストロガノフが私兵を使ってシビル汗国を滅亡させた(ビーフ・ストロガノフは彼の子孫の発明)。

毛皮商人はさらに東へ進み、オホーツク(オホーツク海最北部の港町)は1648年に、内陸のイルクーツクを4年後の1652年に手に入れた。

これに危機感を持った清の康煕帝は、顧問として使っていたイエズス会の宣教使に命じて、近代国際法に基づいたネルチンスク条約をピョートル大帝と結ぶ交渉を成立させ、交易の保証を条件にスタノボイ山脈を国境として、その南からはロシア人を追い出した。この国境は、19世紀後半まで維持された(アヘン戦争後になってロシアが1858年のアイグン条約で黒竜江左岸を、1860年の北京条約で不凍港ウラジオストックを獲得)。

■江戸幕府がロシアに気づいたのは1771年

そこでロシアは、天下太平の夢に酔っている江戸幕府に気づかれずに、オホーツク海沿岸を進み、1700年ごろにカムチャッカを手に入れた。

日本がそうした動きを知ったのは、1771年になって、戦争の捕虜としてカムチャッカに抑留されていたハンガリー人ベニョフスキーという人が脱出に成功して阿波と奄美に立ち寄り、カムチャッカや千島へのロシアの進出ぶりを報告してからだ。

これに驚いて書かれたのが、工藤平助の『赤蝦夷風説考』や林子平の『海国兵談』であって、田沼意次は遅ればせながら蝦夷地開発や防衛に前向きの姿勢を見せた。しかし、田沼を失脚させて政権を取った松平定信は、蝦夷地を下手に農業開発などして住みやすくしたらロシアに狙われるだけと考え、開発をやめるなど迷走を繰り返すことになった。

■江戸末期にロシアと不平等条約を結ばされる

ロシアではすでにピョートル大帝のころから漂流民を先生にして日本語の学習を始めたりしていた。1782年に難破してロシアで助けられ、エカテリーナ2世とも謁見した伊勢の大黒屋光太夫を連れて、1792年にラクスマンという船長が根室に来て、丁重に通商を提案した。

その後、レザノフが1804年に長崎に現れて通商を申し出たときにも幕府は拒否したが、ナポレオン戦争が起きてロシアの圧力は一時的に弱まったので救われた。結局、1853年のペリー来航を受けて、幕府は1855年にロシアとも日露和親条約を結んだ。これは、米国に対してと同様、ロシアに一方的な最恵国待遇を認める不平等条約だった。

この間、松前藩や幕府の役人たち、あるいは樺太に派兵された各藩の武士たちの持ち場での努力は立派なものも多かった。

もっとも、樺太に派兵された会津藩兵など、宗谷海峡を蔓(つる)で作った網で封鎖しようとしたり、3カ月ほど滞在した後にロシア兵が来ないといって引き上げる途中で難破して、武器も失って命からがら帰国したりと、全てが立派だったわけでない。

■北方四島の一部が返還される可能性もあった

いすれにせよ、国を挙げて真剣に海防に取り組んだわけでないので、日露和親条約では、択捉と得撫島のあいだを境界とし、樺太は雑居の地としたが、ロシアに圧倒され、明治になって樺太千島交換条約でロシアに取られてしまった。

北方領土問題のイメージ
写真=iStock.com/Belus
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Belus

北方領土問題というと、国後・択捉・歯舞・色丹の四島の帰属をめぐって日露両国が角を突き合わせているが、この四島自体の経済価値は低く、両国どちらにとっても第二次世界大戦の経緯をめぐるメンツを守るための戦いだ。

ロシアは絶対に譲らないという人もいるが、プーチン大統領は難しい国境問題を次々と解決しており、「引き分けにしよう」という安倍晋三元首相への提案は、不真面目なわけではなかった。国後を含めた三島の返還とか、二島+残り二島の特別の地位を認めるなどの案があり得た。

それもこれも、ウクライナ戦争で日本が極端な形で欧米側についたので、実現は難しくなったが、それについては、ここでは議論しない。

それよりも日本が反省すべきなのは、鎖国とか専守防衛といった消極策で周囲とのトラブルを避けることだけに汲々としていると、自国の軒先まで他国のものにされてしまうということだ。

■鎖国体制がロシアを好き放題させてしまった

NHK大河ドラマ「どうする家康」では、相変わらず、豊臣秀吉の朝鮮出兵を愚劣の極みとして描いているが、明国が朝貢貿易にしか応じない体制に固執し、間隙(かんげき)を縫って西洋諸国が東シナ海の貿易まで独占する状況のなかで、日本が新秩序を求めて行動を起こしたこと自体は間違っていなかった。

開戦後、2カ月で漢城を陥落させるなど快進撃に酔って、秀吉が明国征服とか夢見た時期もあるが、秀吉も現実の交渉でそんな夢物語を言っていたわけでない。

どういう形にせよ、江戸時代の日本人が大陸や人や物の交流を盛んにし、西洋諸国との交流も維持していたら、ロシアの北方進出の動きも的確に把握できただろうし、寒冷地での生活や経済開発のノウハウも得られたはずである。18世紀後半までなにもせず、ロシアがオホーツク海地域で好き放題して取りかえしがつかないようなことにはならなかった。

■鎖国は「日本を守った素晴らしい外交政策」?

昨年、北海道在住の中村恵子さんという方が『江戸幕府の北方防衛 いかにして武士は「日本の領土」を守ってきたのか』(ハート出版)という本を書かれて話題になった。北方防衛のために松前藩や幕府の武士たちがいかに立派な仕事をしたかということが、この本の中心的なテーマになっている。

たまたま、中村さんの講演を聴く機会があり、そのあと共通の友人である久野潤・日本経済大学准教授らと打ち上げで議論した。そこで、私は、中村さんが紹介される人々の頑張りを顕彰することには異議はないが、そもそも、北海道の近くまでロシアが進出するのを許したのは、鎖国をはじめとする江戸幕府の内向きの外交政策の結果であり、中村さんが本の冒頭で鎖国について「素晴らしい外交政策で日本を守った」と評価するのは間違っていると申し上げた。

そもそも、鎖国とは、ポルトガルとイエズス会によるキリスト教が日本人を魅了しかねないという理由で、日本人の渡航も外国人の来日も禁止して、オランダ人に小規模な貿易独占利益と引き換えに他国の干渉を排除する手伝いをさせ、社会秩序を乱すから新知識は入って来なくても良いという政策だ。

■日本の領土や権益が他国に剝ぎ取られてしまった

だが、当時のポルトガルやスペインには日本を植民地にするような力などまったくなく、キリシタン大名たちも豊臣や徳川の天下に刃向かいなどしていなかった。鎖国しなかったら植民地化されたなどというのは、世界史に対する無知の極みだ。

私が不思議なのは、いわゆる保守派の方の中に「平和憲法を守り専守防衛に徹しておとなしくしていれば安全だ」という意見には反対するのに、「鎖国は良かった」という人が多いことだ。こういう人たちは、鎖国していたからこそ、ロシアにカムチャッカ、樺太や千島を取られたことをどう考えるのだろうか。

平和主義は、自らが愚かな戦争を起こさない歯止めにはなるが、他国が日本に反撃されることを恐れずに、都合の良いように周辺の状況をどんどん作り替え、日本の領土や権益を少しずつ剝ぎ取ることを許すという点において、鎖国と共通する。

鎖国によって、日本の狭い意味での領土は維持されたが、北方ではロシアの進出を許し、紛争を恐れて鬱陵島を李氏朝鮮に譲り、他国が植民地経営や移民などの形で無主の土地を手に入れて勢力を拡大していた時期に、日本は蚊帳の外になってしまった。

近代の日本の戦争は、その結果生じた、無防備な防衛ラインを強化し、人口過剰のはけ口を求めて遅れを挽回するためにやや無理を強いられた結果なのである。その点においても、江戸幕府の鎖国政策は、現代にいたるまでわが国に途方もない悪影響をもたらしたと言えるだろう。

※本記事の内容については、『民族と国家の5000年史 文明の盛衰と戦略的思考がわかる』 (扶桑社BOOKS)も参照

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八幡 和郎(やわた・かずお)
徳島文理大学教授、評論家
1951年、滋賀県生まれ。東京大学法学部卒業。通商産業省(現経済産業省)入省。フランスの国立行政学院(ENA)留学。北西アジア課長(中国・韓国・インド担当)、大臣官房情報管理課長、国土庁長官官房参事官などを歴任後、現在、徳島文理大学教授、国士舘大学大学院客員教授を務め、作家、評論家としてテレビなどでも活躍中。著著に『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス、八幡衣代と共著)、『日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎』(光文社知恵の森文庫)、『日本の総理大臣大全』(プレジデント社)、『日本の政治「解体新書」 世襲・反日・宗教・利権、与野党のアキレス腱』(小学館新書)など。

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(徳島文理大学教授、評論家 八幡 和郎)

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