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「古事記」は日本人向け、「日本書紀」は海外向けの書物だった…ヤマト朝廷が日本神話を編んだ本当の理由

プレジデントオンライン / 2023年10月26日 15時15分

日本書紀神代巻上下(吉田本) 上巻より冒頭部分。紙本墨書、鎌倉時代・13世紀、京都国立博物館蔵。(図版=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

日本の神話を記した『古事記』『日本書紀』はどういう書物なのか。人気予備校講師の茂木誠さんは「白村江の戦いでの大敗した朝廷が、『唐からの独立』と『皇室の正統性』を示すために政治的な意図で書いた。このため海外向けの『日本書紀』は漢文、日本人向けの『古事記』は万葉仮名で書かれている」という――。

※本稿は、茂木誠『「日本人とは何か」がわかる 日本思想史マトリックス』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。

■日本建国神話における「2つの国譲り神話」

日本の神話は、『古事記』『日本書紀』をまとめた朝廷が皇室の祖先神とするアマテラス側の立場、つまり勝者の視点で書かれたものです。スサノオがひどい乱暴者として描かれるなど、恣意(しい)的な部分も感じます。一般的に歴史は勝者が書くもので、世界の神話でもそれは同じです。

むしろ日本神話はまだマシなほうでしょう。敗者の言い分もちゃんと書いていて、敗者のオオクニヌシの要望どおりに出雲大社を建造するところが日本神話のゆるいところです。これが大陸国家なら、攻め込んで、叩き潰して、おしまいです。

日本の神話には、実は二つの国譲り神話があります。

九州に降り立った天孫族(アマテラスの一族)が瀬戸内海を東進し、奈良盆地にあったヤマトの国に攻め込みます。天孫軍のリーダーがのちの神武天皇になるイワレビコです。これを迎え撃ったヤマトの王がニギハヤヒ(饒速日)です。ニギハヤヒは九州から天孫軍が攻め込んでくると、ヤマト防衛軍の指揮をナガスネヒコ(長髄彦)という武将に任せました。

このナガスネヒコ将軍が天孫軍に「お前たちはなぜ攻めてくるのだ?」と問うと、イワレビコが「我らは天孫だから」と答えます。すると、「いやいや、我らの王ニギハヤヒ様だって天孫だ」とナガスネヒコがいいます。「では、その証拠を出せ」とイワレビコ。

そこでナガスネヒコが見せたのは、天孫族の証拠である特殊な矢でした。さて、これを見たイワレビコは「ムムム、おぬしも天孫族か」とひるみます。

■「あなたも天孫か!」とあっさり降伏

ところが、ヤマトの王ニギハヤヒは「あなたも天孫か! 同胞ではないか!」とあっさり降伏して、ヤマトを譲ってしまいました。

最後まで徹底抗戦を続けたナガスネヒコは、主君のニギハヤヒが「止めよ」と命じても従わないので、斬られてしまいました。なんとも微妙な結末です。こうして勝者となったイワレビコが、橿原宮で初代天皇として即位しました。

最近、盾形の大きな鏡が発掘されて、話題になった富雄(とみお)丸山古墳(奈良市)。この「富雄」という名称ですが、調べてみると面白いことがわかりました。最後まで抵抗したナガスネヒコの名前は、「トミノナガスネヒコ」といいます。

富雄丸山古墳で出土した盾形の銅鏡(2023年1月20日、奈良県橿原市)
写真=時事通信フォト
富雄丸山古墳で出土した盾形の銅鏡(2023年1月20日、奈良県橿原市) - 写真=時事通信フォト

つまり、「富雄」とはナガスネヒコの本拠地だったのです。弥生時代の人と推定されるナガスネヒコ本人の、一族の墓かもしれません。

■神話に記された「多民族国家」日本

敗北者ナガスネヒコの子孫は、実は日本各地に散っています。

神武天皇との戦いに敗れた後、東北地方に逃げ込んだのが、ナガスネヒコの弟ともいわれるアビヒコ(安日彦)だという伝承もあります。彼の末裔(まつえい)は東北で勢力を伸ばし、平安時代には岩手県を中心に半ば独立国家を築いた安倍氏として知られています。

安倍氏は平安後期に朝廷に逆らい、滅ぼされました(前九年の役)。この時に捕えられた安倍宗任(むねとう)という武将が京都まで連行され、九州に追放されました。その後、山口県に移った彼の子孫が、安倍晋三元首相の一族です。ですから、安倍一族の祖先はナガスネヒコということになります。二千年の時を超えて、政権を取り戻したわけです。

一方、前九年の役で敗れ、北方へ逃げた安倍氏の少年が津軽(青森県)で生き残り、やがて「安藤」と名前を変えます。この津軽安藤氏は、鎌倉時代から戦国時代にかけてこの地で勢力を誇った武士一族です。

当時の日本最大の港は九州の博多でしたが、それに匹敵する港が青森の十三湊(とさみなと)でした。安藤氏はその港を押さえ、今のロシア領ウラジオストクや樺太の先住民(女真族)とも日本海交易を行っていました。この地盤を蠣崎(かきざき)氏が引き継ぎ、江戸時代に松前藩となるわけですが、安藤氏も元をたどればナガスネヒコに行きつくのです。

東北や北海道の人たちには、縄文系のDNAが色濃く残っています。同じことは沖縄の人たちにもいえます。九州から瀬戸内、近畿地方は弥生系、大陸系のDNAが強く発現します。神話とDNAからわかるように、日本は多様なルーツを持つ多民族国家なのです。

■ルーツはバラバラ、遺伝子も多様

その意味で、古代日本はアメリカ合衆国とよく似ています。先住民も残っていれば、欧州やアジア、中南米から渡ってきた人たちもいる。アメリカはわずか250年であの広大な大陸を征服したため、先住民の殺戮もやっています。

しかし古代日本では、数百年かけて少しずつ渡来人が流入し、縄文人とも混血していきました。古代の日本にはいろんな顔の人がいて、価値観も多様だったはずです。「日本は島国で単一民族国家」ではないのです。

奈良県高市郡明日香村にある、飛鳥宮跡(6世紀末から7世紀後半)の遺構。
奈良県高市郡明日香村にある、飛鳥宮跡(6世紀末から7世紀後半)の遺構。(写真=Saigen Jiro/CC-Zero/Wikimedia Commons)

よく見れば、日本人ほど顔のバラエティが豊かな民族はいません。およそ人種によって「この顔は○○人」と見分けられるものですが、日本人は顔だけ見てもわかりません。それだけルーツがバラバラで、遺伝子が多様だということです。

■国民意識とは、我々がつくり出した幻想である

学校で地域の歴史をきちんと学ぶ機会がないことも問題です。北海道から沖縄まで教科書が一律であるため、古代史はヤマトの歴史ばかりが教えられます。

日本の歴史はそんな単純なものではないでしょう。ヤマト政権にとっての「日本統一」が、地方から見ればヤマトによる「侵略」かもしれません。教科書も都道府県ごとに違っていいと思うのです。

また、日本人とかアメリカ人とか、国民意識というものは、はじめから実態があるわけではなく、とくに近代化の過程において意図的につくられたものです。つまり、国民意識(ナショナリズム)とは我々がつくった幻想なのです。

では、地方国家のゆるやかな連合体が、一つにまとまるには何が必要だったでしょうか。それは、共通の敵です。サッカーにたとえるなら、普段は各クラブチームが競い合っていますが、ワールドカップになれば、日本代表「サムライブルー」として団結する。それと同じです。

日本列島各地の国々の共通の敵として現れたのが、中華帝国でした。強大な隋や唐が朝鮮半島にまで押し寄せ、今にも日本列島に触手を伸ばそうとしていたのです。

それが起きたのはいつか。中国が魏晋南北朝時代の混乱を経て統一され、隋や唐という強力な国家が出現したのは6世紀末以降です。隋や唐は朝鮮半島に侵攻し、今にも日本列島に攻め込む勢いでした。侵略の危機にさらされた日本列島は、いよいよ国家としてまとまらざるを得なくなりました。

もはや多様性を許容する余裕はなくなったというわけです。

■中華グローバリスト蘇我氏vs.ナショナリスト物部氏

6世紀前半、多神教のヤマトに大陸から仏教が伝えられました。巨石や大木、滝などの自然物を祀っていたアニミズム的な原始神道とは対照的に、外来の新しい神様は金箔(きんぱく)に覆われたきらびやかな仏像でした。

「すごい、こんな神様がいたんだ!」と当時の日本人は驚愕(きょうがく)します。仏教の教え自体に興味を示したというより、豪華絢爛(けんらん)な仏像に心を奪われたのです。その一方で、「これは本当に神なのか?」という疑いも生まれ、豪族間で争いが起こります。

外来文化の受容に積極的だったのが蘇我氏です。欽明天皇の13年目(西暦552年)、百済の聖明王(せいめいおう)が献上した仏像と仏教経典の受け入れをめぐって天皇が意見を求めました。この時、蘇我氏を率いる蘇我稲目(そがのいなめ)が、「西方諸国ではみなこれを崇めています。わが国だけが背くことはできません」と答えました。現代風に意訳すれば、「国際的孤立を避けるため、グローバルスタンダードを受け入れましょう」と言ったのです。

それに対して、「変なものを祀るな!」と異を唱えたのが物部(もののべ)氏と中臣(なかとみ)氏でした。

物部氏は神官兼国防大臣でした。物部は「もののふ」とも読みます。「もののふ」は侍のことで、天皇を護る軍事集団です。「国を護る」というと、現代では軍事力を指しますが、当時は「霊的に護る」、つまり祭祀(さいし)の意味もありました。

『先代(せんだい)旧事本紀(くじほんぎ)』という物部氏の伝承によれば、物部はもともとニギハヤヒを守る軍団でしたが、ニギハヤヒが神武天皇にヤマトを譲ったのを契機に、天皇家に仕えるようになりました。物部氏は、「異国の神を祀れば、わが国の神々の怒りを招きます」と猛反対します。「日本文化を破壊するグローバリズムに反対!」というわけです。

この時、日本で初めて、「ナショナリズム対グローバリズム」の対立が起こったのです。結局、欽明天皇は、蘇我氏が自分の屋敷に仏像を祀ることを許しました。

■疫病の流行を機に始まった権力闘争

ちょうどその時、疫病が流行りました。大勢やって来ていた渡来人が、大陸から感染症を持ち込んだのでしょう。

この疫病の原因を、物部氏は「古き神々の怒りだ」と主張し、蘇我氏は「仏罰だ」と反論しました。この崇仏論争(すうぶつろんそう)は、物部氏と蘇我氏との権力闘争に発展し、娘を天皇に嫁がせていた両者は皇位継承問題に介入します。

最終的に蘇我馬子が物部守屋を一族もろとも滅ぼし、物部氏側についた皇族も抹殺して終結しました。

■「敵」に学んで中央集権的な国家体制を整備

蘇我氏は、皇族を担いでは傀儡(かいらい)政権をつくり、政権へのコントロールが利かなくなると抹殺する。これを繰り返し、何人もの天皇や皇族を殺しています。

だから、聖徳太子は天皇になることを望まず、叔母の推古(すいこ)天皇を支えることで実権を握ろうとしました。ところが、49歳で急死してしまいます。

そのあと聖徳太子の長男である山背(やましろの)大兄王(おおえのおう)の一族を蘇我入鹿が攻撃し、自害に追い込むという事件を起こします。調子に乗った蘇我氏がついに大王や天皇の位を狙い始めると、中大兄皇子がクーデタを起こし、蘇我氏を滅ぼします。これが645年の乙巳(いっし)の変(へん)です。

乙巳の変を描いた江戸時代の絵巻物、「多武峯縁起絵巻」。奈良県桜井市・談山神社所有。
乙巳の変を描いた江戸時代の絵巻物、「多武峯縁起絵巻」。奈良県桜井市・談山神社所有。(図版=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

このクーデタを助けたのが中臣鎌足(なかとみのかまたり)で、中臣氏は物部氏に仕えていた神官の家柄でした。つまり、乙巳の変は、物部勢力による蘇我氏に対するリベンジという側面もあったのです。

■白村江の戦いで唐に大敗

この直後、朝鮮半島に激震が走ります。隋の滅亡後に中国を統一した唐によって、百済が攻め滅ぼされてしまうのです。

ヤマトに亡命中だった百済の王子の要請に応える形で中大兄皇子(のちの天智天皇)が百済復興の援軍を送り、ついに中華帝国軍とヤマト軍が激突しました。これが663年の白村江(はくすきのえ)の戦いです。

結果は、ヤマト軍の大敗でした。唐からの戦後処理の遣いが、2000人もの兵士を引き連れて九州に上陸し、ヤマトに対して脅しをかけてきました。軍事力の差は歴然で、まともに戦っても勝てる相手ではありません。なんとか時間を稼ぎながら、唐に対抗できる強力な国家をつくるにはどうすればいいのか。それを考えたのが中大兄皇子改め天智天皇と、弟とされる天武天皇でした。

白村江の戦いのあと30年間、唐と国交を断絶したヤマトは「日本」=「日の昇る国」という国号を採用し、中央集権国家の実現を急ピッチで進めていきます。「唐に対抗するには、唐に学べ!」を合言葉に、官僚統制国家である唐の律令制に基づいた法体系や制度を取り入れた国づくりがスタートしました。

それまで「大王」と呼ばれていた君主の称号も、中華皇帝を意識して「天皇」と改められました。公地公民制を導入し、豪族の支配下にあった土地を天皇の所有としました。人民の数を把握したうえで土地を人民に分配し、徴税する仕組みをつくったのです。

また、唐の侵攻に備えて全国から徴兵した兵士を北九州に配備し、西の守りを固めました。これを「防人(さきもり)」と呼びます。こうして日本は、豪族連合政権の地方分権型国家から、天皇中心の中央集権型国家へと変貌を遂げていったのです。

この時の状況は明治維新に似ています。ペリーの黒船艦隊に遭遇して、「あれには到底勝てない」と衝撃を受けた日本人は、欧米諸国に追いつけ追い越せと西洋文明に学びました。敵に学んだのは明治維新が最初ではなく、そのルーツは白村江の戦いでの大敗にあったのです。

■「日本国とは何か?」という自問

唐と国交を断絶した30年間は、日本人が「日本国とは何か?」を自問する時期でもありました。なぜ、われわれは大唐帝国に抵抗するのか?

この時期にスタートした重大事業が『古事記』と『日本書紀』の編纂です。この二つの書物が書かれた目的は、一つは律令制導入による日本統一を記念した出版事業だったのでしょう。

しかし、もっと重要なのは、敵である唐に対して、「わが国は神武天皇以来、連綿と続く一つの皇統(こうとう)が治めている文明国であり、秦の始皇帝よりも古い建国の歴史を持つ国である」とアピールすることでした。これが『日本書紀』が、漢文で書かれている理由です。

もう一つ、この歴史観を日本人自身に教えるための書物が『古事記』でした。基本的に日本語で書かれていますが、まだ仮名文字が誕生する前なので、日本語の一音一音に漢字を当てた「万葉(まんよう)仮名(かな)」が使われています。

つまり、これら二つの書物は、「唐からの独立」と「皇室の正統性」という政治的な意図で書かれた文書であり、すべてが史実とはいえないのです。

■日本形ナショナリズムの始まり

特に話が盛られているのは古い時代の記述です。日本列島にもともとあったのは地方豪族による地方分権型の連合国家でした。しかし、唐からの侵略の危機にあって、「わが国は昔から一枚岩」と言わざるを得なくなった。

茂木誠『「日本人とは何か」がわかる 日本思想史マトリックス』(PHP研究所)
茂木誠『「日本人とは何か」がわかる 日本思想史マトリックス』(PHP研究所)

もし、「日本国は、実は小国家の連合体」と知られれば、ヤマト政権に不満を抱く地方豪族に外国勢力が加担し、内乱を引き起こさないとも限りません。実際、北九州の豪族が新羅と結んで反乱を起こしています(磐井(いわい)の乱)。ここに、日本型ナショナリズムの始まりを見ることができます。

『古事記』と『日本書紀』の編纂を指揮したのは皇族の舎人(とねり)親王(しんのう)ですが、この時代の最高実力者は、中臣鎌足の息子の不比等(ふひと)でした。鎌足は乙巳の変のあと、クーデタ成功のご褒美に天智天皇から「藤原」という新しい姓を賜ります。ただし、その時に鎌足はすでに臨終を迎えており、実際に「藤原」姓を名乗ったのは不比等からです。

蘇我氏に代表される国内の敵をすべて片づけた藤原氏が、次に外の敵に焦点を当てた事業が、日本の歴史をまとめることだったのです。

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茂木 誠(もぎ・まこと)
予備校講師
東京都出身。駿台予備学校、ネット配信のN予備校で大学入試世界史を担当。東京大学など国公立系の講座を主に担当。世界史の受験参考書のほかに、一般書として、『超日本史』(KADOKAWA)、『「戦争と平和」の世界史』(TAC出版)、『バトルマンガで歴史が超わかる本』(飛鳥新社)、『「保守」って何?』(祥伝社)、『グローバリストの近現代史』(共著、ビジネス社)『ジオ・ヒストリア』(笠間書院)、『政治思想マトリックス』『日本思想史マトリックス』(PHP研究所)ほか多数。YouTube「もぎせかチャンネル」でも発信中。

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(予備校講師 茂木 誠)

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