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「このまま続けたら詐欺師になってしまう」何を売ってもNo.1になるスーパー営業マンが46歳でラジオDJになったワケ

プレジデントオンライン / 2023年10月25日 10時15分

北海道のHBCラジオで18年続くレギュラー番組「シンセン・ラジオ・ステーション」でDJを務める松田一伸さん - 筆者提供

松田一伸さんは北海道のHBCラジオで18年続くレギュラー番組「シンセン・ラジオ・ステーション」のDJだ。46歳で番組を持つまでは、営業マンとしてさまざまな商品を売りまくった。ところが、あるとき「このまま続けてしまったら詐欺師になってしまうかもしれない」と思い、方針転換する。松田さんの数奇なキャリアを、ノンフィクション作家の野地秩嘉さんが書く――。

※本稿は、野地秩嘉『サービスの達人に会いにいく プロフェッショナルサービスパーソン』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■何でも作り、何でも売るラジオDJ

松田一伸(かずのぶ)。64歳。彼は札幌市在住だ。18年前から地元のHBCラジオでDJをやっている。同時にシンセンという名前の広告代理店社長でもある。社員は4名。うちひとりは妻だ。自らこれまでに3000本以上のテレビやラジオのCMを制作した。

夏が来ると積丹(しゃこたん)半島に海鮮丼の季節限定店舗を開く。名称は積丹しんせん(社長はライスボールプレイヤーの川原悟)。広告代理店と同じ名前だ。そこではウニ解禁の6月から約3カ月間のみ、「うに丼」を売りまくる。同地には老舗が3軒あるので、そこに入れなかった、おこぼれの客を狙うすき間ビジネスである。しかし、海鮮丼の味はいい。

11年前からは「すすきのなまら~麺」、現在では「忍者麺」というレンジでチンするラーメンの販売も始めた。2024年からは故郷に近い美唄(びばい)市で、データセンターの熱を利用して北海道で初めて養殖したうなぎの販売もスタートする。干し芋工場もたぶん世界初。雪室で糖度を上げたさつまいもを茹で、雪室の冷風で乾燥させる。そうすると黄色い色がそのままの干し芋になる。

電子レンジで作れるインスタント生ラーメン「忍者麺」
筆者提供
電子レンジで作れるインスタント生ラーメン「忍者麺」。味は味噌、醤油、博多、海鮮がある - 筆者提供

コロナ禍でマスクが手に入らない時、忍者麺で友情の芽生えたマレーシア人とすぐさまオリジナルマスクを170万枚製作、輸入した。北海道では感謝の嵐だった。

■「取るに足らない仕事」を、本気でやっている

彼の仕事をビジネスコラムで取り上げるとしたら、「マルチパーパス経営」とか「多角化によりグロースする地場の中堅企業」などと表現するかもしれない。

しかし、実態はそんなカッコいいものではない。小さな仕事、取るに足らない仕事だ。手間ばかりかかって収穫は少ない仕事だ。だが、彼はつねに現場の最前線にいる。毎日、いずれかの仕事で何かトラブルが起こるとその場で解決する。問題の解決が彼の仕事だ。

だが、考えてみてほしい。世の中のサービス業の人間がやっていることは、どれも松田一伸がやっていることと変わらない。

みんな、小さな取るに足らない仕事をやっている。日々、問題を解決しながら懸命に生きている。

サービス業の仕事は、MBAを持ったエリートたちから見れば取るに足らない仕事かもしれない。それでもわたしたちサービスパーソンは朝早くから夜遅くまで働いている。エリートたちに「生産性向上うんぬん」と評論される覚えなどない。

わたしたちは流れに逆らうボートだ。オールを手に持ち、精一杯の力で漕ぎすすめている。松田一伸はわたしたちの代表だ。流れにのまれ、岩にぶつかり、激流に翻弄(ほんろう)されながらもDJになる夢を捨てなかったから。

(注:「作家、ジャーナリストは接客業(サービス業)だ」池島信平 かつての文藝春秋社長)

■「DJになりたい」からアメリカ留学を決意

高校3年生の時、彼は北海道大学、北海道教育大学など軒並み受験したが、もちろん落第して札幌の予備校へ通うようになる。なんといっても札幌は彼にとって初めての都会だ。

幼少期の松田さん
幼少期の松田さん(筆者提供)

入学はしたものの、通学はせず、毎日、遊びほうけたのだった。その時、彼は18歳。当時、大流行していたディスコに足を踏み入れた。「カルチェラタン」「パブウエシマ」「ラブリー」……。どこのディスコでも、かかっていた曲は「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977年公開)の「ステイン・アライブ」「恋のナイトフィーバー」「愛はきらめきの中に」(いずれもビージーズ)だった。

痩せていた彼は髪の毛を伸ばし、ジョン・トラボルタのように夜の札幌を歩いた。そして毎晩、ディスコにいるうちに真理を得た。それは、ディスコでいちばんモテるのはフロアで踊る若者ではないこと。問答無用ともいえるくらいモテたのは、ブースでレコードをかけ、英語で曲紹介をするDJだった。

フロアで踊るカッコいい若者だった彼は改心した。

「モテないのだから踊らない」

それより、DJになろう。ただのDJではなく、英語でしゃべるDJだ。それならアメリカへ留学するしかない。そう決心した時も彼は18歳だった。取るに足らない年齢だから、考えることもまた幼稚だった。

■「頑張れ。カネは出せないけど」

しかし、行動派だった。歌志内にいる両親に「アメリカに留学することにした」と告げる。

ふたりは「なんでだ」といぶかしそうな顔をした。

「ラジオのDJになりたいんだ。アメリカの大学にはDJになる学科がある」

両親は破顔一笑である。

「いいじゃないか、すぐ行け。頑張れ。カネは出せないけど」

札幌に戻った彼は予備校には行かず、下宿先で英語の勉強を開始した。同時にアルバイトでディスコのDJの真似事と店員として稼いだ。しかし、アメリカの大学は9月から学期が始まる。急いで勉強しなくてはならない。腕試しにTOEFLの試験を受けたところ420点の成績だった。

その成績ではハーバード大学やイェール大学には絶対に入ることはできない。地方にある大学ならESL(英語が母国語でない学生のために設けられた英語プログラム)のクラスも必要だが滑り込むことができる。彼が見つけたのはユタ州セントジョージにある州立ディクシー大学。同大学には大学のFMステーションとDJになるコースがあった。

■200万円が半年でなくなってしまう

9月に入学するため、彼は予備校生活を切り上げ、アルバイトでためた金と親にもらった金、あわせて1万ドル(当時は日本円で250万円)を腹巻のなかにつめこんで、成田空港からユタ州へ渡った。

入学してすぐ、彼は中古でボルボのアマゾンを買った。週末になるとその車を駆ってラスベガスに出かけ、ブラックジャックに興じたのだった。腹巻に入れた200万円は中古のボルボ・アマゾンとブラックジャックの掛け金に代わり、半年でなくなってしまった。

アメリカで最初に買ったボルボのアマゾンと
筆者提供
アメリカで最初に買ったボルボのアマゾンと - 筆者提供

学費を稼ぐためには日本に帰るしかない。半年後、両親には内緒で日本に帰り、東京でアルバイトをすることにした。幸い、アメリカの大学は単位制だった。学期ごとに単位を取り、積み重なれば卒業できる。半年間、勉強して単位を取り、半年は社会で働く学生も少なくなかった。彼もまた勉強だけの学生生活ではなく、半年はDJとラスベガス、残りの半年は東京でアルバイトという生活を送ることにした。

■電話営業で1350万円を売り上げる

さて、東京に帰った彼はまず住宅を確保した。といっても友人の家に転がり込んだ。だから家賃はタダだ。問題は何をやるか、である。短期間で大きく稼ぐには、人が嫌がる仕事をしなければならない。

最初にイエローページをめくって見つけた高賃金の仕事は、英会話教材の電話営業だった。

教材の値段はワンセットで45万円。1980年の大学卒初任給は11万4500円だから、かなりの額になる。

しかし、彼はためらうことなく教材販売を始めた。

「僕はこのテープを聞いてアメリカに留学したんです」とのセールストークで、なんと最初から1カ月に8セット、3カ月で30セットも売ってしまった。歩合も含めると、ラスベガスで溶かした200万円以上の金が手に入り、それを持ってふたたびアメリカへ旅立ったのである。

翌年、また金がなくなった。躊躇することなく東京の別の友人のアパートに転がり込む。

その年の仕事は英会話教材ではなく、太陽熱温水器の訪問販売だ。それでもまた3カ月で200万円以上の歩合を稼ぎ、アメリカへ。

■「このまま続けていたら詐欺師になってしまう」

しかし、彼は反省した。もともと田舎育ちで人のいいところがある彼にとって高額な教材販売や温水器の販売を続けることには耐えられなかった。インチキ商品とはいわないが、消費者にとっては負担の大きい金額だ。そして、それを簡単に売ってしまう自分の才能にも恐れを抱いた。

「このまま続けていたら、しまいには詐欺師になってしまう」

彼はDJ志望だ。詐欺師になる勉強をしてはいけないと反省し、3年目からは職種を低賃金長時間労働に変えた。

3年目は自動販売機の設置、4年目はチリ紙交換、卒業する年は新宿・歌舞伎町のゲーム喫茶店店長である。しかし、営業の才能は隠せなかった。自動販売機の設置でもチリ紙交換でもカイゼンとくふうを続けることでナンバーワン営業マンになってしまったのである。

そこで、卒業する年は営業職から離れて喫茶店店長になることにした。報酬は1カ月で30万円。3カ月やれば、なんとかアメリカへ行って卒業までの学費を払うことができる。

ところが、一見、地味に見える仕事に落とし穴があった。

彼はため息をつきながら、わたしに打ち明けた。もう時効だからいいかと付け加えながら、である。

札幌市にあるシンセン本社
筆者提供
札幌市にあるシンセン本社 - 筆者提供

■ある日突然、警察が踏み込んできて…

「実はゲーム喫茶のオーナーはポーカーゲームの機械屋で闇カジノやってたんですよ。喫茶店はコーヒーを売るよりポーカーゲームのコインを両替していて、その手数料で儲けていました。

オーナーに言われました。『おい、学生、黙ってたら分け前やる』と結構なお金の小遣いをもらってたんです。そして、2カ月が経ったある日のこと、突然、警察に踏み込まれて、僕も逮捕されちゃいました。8日間も留置場にいたんです。そうですね。同窓じゃない、同室の人は爆弾魔と思いっきり、やくざの人。でも、ふたりはよくしてくれました。

爆弾魔さんからは爆弾のつくり方を教わりましたし。ええ、作ってませんけど。でも、僕は何もしていなかったから、起訴猶予、賞罰なしで放免されました」

留置場にいたことは今でも両親には内緒だ。しかし、本稿で暴露される。

さて、24歳で帰国した彼は札幌に戻り、地元の放送局にディクシー大学のディプロマ(卒業証書)を提出した。ところが、どの放送局も「アメリカの大学は日本の大学ではない」と就職試験を受けることもできなかった。

意気消沈した彼は歌志内へ戻り、実家で英会話教室を始める。すると、同市内で英語がしゃべれるのは彼ひとりしかいなかったこともあって教室は大盛況。放送局の初任給の2倍くらいの金を稼ぐことができたのである。

さて、その後は途中をすっ飛ばして話を進める。

■夢を叶えるまでに28年の歳月がかかった

英会話教室は半年で弟にまかせた。札幌に出た彼は広告代理店に勤める。最初は弱小プロダクション、その後、博報堂のアルバイト、最後はパブリックセンターという道内で知られた代理店に勤務。次長職となる。この間、結婚、ふたりの子どもに恵まれる。広告界で頭角を現し、コピーライター、プランナー、プロデューサー、映像ディレクター、営業と何でもこなす。

34歳になった日、突如として退社、独立した。

「人生は70歳までだと勝手に決めました。70歳で自分は死ぬんだ、と。それまでにDJをやらなくてはいけない。死ぬならマイクの前で死にたい」

彼は本気でそう思った。独立して開業した会社、シンセン(当時は新宣組)は全社員4名にもかかわらず、2畳の自社スタジオを有し、かつ、全員参加の制作営業体制を敷いた。

「忍者麺」をシンガポールに出店したときの様子
筆者提供
「忍者麺」をシンガポールに出店したときの様子 - 筆者提供

それもあって社業はなんとか順調。

そんな彼が自社で番組枠を買い切って始めたのが2005年10月9日放送開始の30分番組、HBC「ヘンシン・ラジオ・ステーション」(2009年5月より「シンセン・ラジオ・ステーション」)だった。18歳で決心したDJになるために28年の時間が必要だった。

同番組は18年間、続いている。内容はゲストを迎えた対談だ。

■わずか15分でゲストを丸裸にしてしまう

「私が会いたいと思ったチャーミングな人たちがゲストです。30分の番組ですが実質の時間は23分間。事前の打ち合わせは10分か15分。それで1回の放送を行います。曲はかけませんが、歌手をゲストに迎えた時は別です。

以前のことになりますが、第1回目のゲストは松崎しげるさんで、その時番組のジングルを生で歌っていただきました。この間は八神純子さんがいらっしゃいました。ドラクエVの時のすぎやまこういちさんも。

すぎやまこういちさん(故人)をゲストに迎えた回
筆者提供
すぎやまこういちさん(故人)をゲストに迎えた回 - 筆者提供

会社もスタジオもオフィスも自宅と一緒なんです。2階に妻とふたりで住んでますから、24時間365日いつでも録音できます。この番組の聴取率は低い時で1%台後半、高い時は2%。2%は10万人くらい。

だから、番組で『3000円のお花をプレゼントします』と言ったらメールが400通も来たことがあります。聴いているのは札幌だけじゃなく、北海道全域と青森、秋田、岩手、福島の海側の東北地区です。今ではラジコもあるので日本全国聴きたい人は聴ける。すごいことですよ」

わたしは彼の番組を見学した。実際にゲスト出演もした。

感心したのは放送前の打ち合わせだった。彼はゲストの人生をわずか15分の間に聞き取り、それをB4の紙1枚にまとめてしまう。聞くのも上手で、裸にされてしまった気分だった。DJでなく、事情聴取を得意とする刑事を目指せばよかったのではないかと感じた。

■どの営業でもナンバーワンになれた秘訣

そして、紙を見せてもらったら、ゲストの歩いてきた道を5つか6つの言葉で表していた。

「30分の放送のために人生を6つの言葉でまとめる」

DJ松田一伸の才能とは人物を極端に簡素化することだ。彼は冗談がうまいわけではない。ほがらかではあるけれど、テンションが高いわけではない。相手の言葉を切り返すのが上手でもない。

だが、相手から言葉を引き出す能力があり、引き出した言葉をたちまちエッセンスにしてしまう能力がある。

営業マン時代に培ったコミュニケーション力でニューヨークでの商談も
筆者提供
営業マン時代に培ったコミュニケーション力でニューヨークでの商談も - 筆者提供

思うに、その能力はディクシー大学のDJ課程で学んだものではないだろう。

野地秩嘉『サービスの達人に会いにいく プロフェッショナルサービスパーソン』(プレジデント社)
野地秩嘉『サービスの達人に会いにいく プロフェッショナルサービスパーソン』(プレジデント社)

英会話の教材を売ったり、自動販売機の設置をお願いしたり、太陽熱温水器を埼玉にたくさん設置したり、原宿のビル街でチリ紙交換の営業をしたり、ポーカーゲーム喫茶での接客で覚えた技だ。どの仕事も相手の人生、人格を瞬時に理解しなくていけない。彼のDJ技術とは対面した相手を理解する能力だ。

彼は商材に詳しいのではなく、買い手を知ろうとする。だから、どんな仕事をしてもナンバーワンになることができた。営業の能力とはモノよりも相手を理解し、相手の話を聞くことだ。何もアメリカのユタ州まで出かけていかなくとも、英会話の教材やチリ紙交換に専念していればよかった、かもしれない。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)、『伊藤忠 財閥系を超えた最強商人』(ダイヤモンド社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。旅の雑誌『ノジュール』(JTBパブリッシング)にて「ゴッホを巡る旅」を連載中。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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