「夫と離婚した後も義母と同居を続け、最期を看取った」ヤマザキマリが見た"母と祖母のかけがえのない関係"
プレジデントオンライン / 2023年11月13日 9時15分
※本稿は、ヤマザキマリ『扉の向う側』(マガジンハウス)の一部を再編集したものです。
■音楽という職業を持ったシングルマザーの母
1970年代半ば、母がヴィオラ奏者として所属していた札幌交響楽団は、海外や国内、そして本拠地である北海道内でも精力的に演奏活動を行っていた。大きなホールがない場所であっても学校の体育館や屋外でコンサートを開くというその勢いは、クラシック音楽の生演奏などとは無縁の地域における、文化の開拓事業と捉えてもおかしくなかった。
そして、そのような演奏旅行の回数が増えていけばいくほど私と妹の留守番の頻度も増した。高度経済成長が衰えつつあったあの頃、家庭を持ちながらも就労する女性が珍しくない時代へと差し掛かってはいたが、母の場合は音楽という特殊な職業を持ったシングルマザーであり、しかも既に離婚していた夫の母親との同居が、当時我々が暮らしていた団地の界隈で異質さを際立たせていた。
■別れた夫の母親は、母の強い味方だった
演奏家という職業の選択と、東京から北海道への移住を決めた母の意思を理解してくれた最初の伴侶は一緒になって間もなく他界してしまい、その後再婚した男性も海外住まいで結局その結婚生活も長続きはしなかった。型やぶりな生き方に対する周囲の好奇な干渉を気に留めるでもなく、世間体の縛りなど全く意識に無いような母の前向きな天真爛漫さは、かつての育ちの良さの顕れだったとも言えるが、時には頼る人のいない心細さに落ち込むこともあったはずだ。
私たち姉妹が夜にふたりだけで銭湯や買い物へ行く姿を目撃した団地の住民から「誘拐されてもいいんですか!」などと強く怒られたこともあったらしい。そんな時、別れた夫の母親であるハルさんは、母の強い味方についてくれる人だった。母が夫と別れても義母との暮らしを望んだのは、ひとりの女性として、そしてひとりの人間として、ハルさんを心底から敬っていたからだろう。
■親族も無い北海道へやってきて、誰にも頼らず生き抜いた
ハルさんのことは今までにも何度か文章にしているし、私の自叙伝的な漫画の中にも登場するが、彼女について私が知る情報は少ない。樺太の生まれであること、白系ロシア人の血が入っていること、夫とは死別し、その後北海道へ移ってシングルマザーとして女手一つで子供を育ててきたということ。母よりもずっと前の時代に、親族も無い北海道という土地へやってきて、誰にも頼らず自分ひとりの力で生き抜くのにまっしぐらだったハルさんの姿勢に、母は強い共感を覚えたに違いなかった。
![『扉の向う側』イラスト](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/3/4/1200wm/img_34a8dad699b197332e9b1f4a6901384f410482.jpg)
■ある静かな冬の日、ハルさんが置き手紙を残して姿を消した
結婚はしたものの大手建築会社専属の通訳という仕事柄、海外赴任ばかりで滅多に会えないハルさんの息子との離婚を決めた母だったが、他に行き場所のないハルさんには同居の継続を勧めた。私や妹の保育園や小学校低学年時代、運動会や学芸会などで撮影された父兄との集合写真の多くには、母ではなく着物を身につけたエキゾチックな顔立ちのハルさんが写っているが、オーケストラの忙しさが尋常ではなくなりつつある中で、娘たちにもすっかり懐かれているハルさんとの同居は母にとってもありがたかったはずである。
ところが、ある静かな冬の日、ハルさんが置き手紙を残して姿を消した。親族ではなくなった立場で、一緒に暮らし続けるのは申し訳ないし、世間からもいろいろと言われる可能性がある。だから今後はわたしひとりでなんとかします、といった内容の手紙だったようだが、母は「ハルさんがそう決めたのなら仕方がない」と、ハルさんの行方を心配がる娘たちとは違って、その思いがけない顚末(てんまつ)をあっさりと受け入れていた。
■「リョウコさん、ありがとう」「こちらこそ」
それから半年ほど経った頃、夏休みの最中にハルさんから一枚の葉書が届いた。母はその葉書を読むなり、血相を変えたように私たち娘ふたりを自分の車に乗せて、岩見沢という街の小さなアパートに間借りしているハルさんを迎えに行くと言い出した。ハルさんから送られてきた葉書には短い近況が記され「また皆さんと一緒に暮らしたい」という一言が添えられていた。漢字が少なく歪んだ筆跡が子供心にも切なかったが、母にしてみれば気丈にひとりで人生を突き進んできたハルさんの弱音に、居ても立ってもいられなくなったのだろう。
![ヤマザキマリ『扉の向う側』(マガジンハウス)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/a/a/1200wm/img_aa603dba98beaccc7da7194a53660422224516.jpg)
ハルさんは癌を患ってその翌年に亡くなるが、それまでは再び私たちと一緒に団地で暮らし続けた。ハルさんの最期を看取ったのも母だった。病院に入院していたハルさんは、私たちの顔を見ても誰なのか判別できない状態だったが、母のことだけは認識していたようで、「リョウコさん、ありがとう」とかすかな声で伝えていた。母はそれに対し「こちらこそ」と、ハルさんの節くれだった皺だらけの手を握った。
今でも、真っ青な空が視界の果てまで広がる夏の北海道の道を、岩見沢に向けてハンドルを握る母の目線の先に、どこまで行っても追いつけない逃げ水が浮かんでいた光景を鮮明に覚えている。世間体や常識の向こう側に行かなければ出会うことのない、かけがえのない人もいるのだということを、私はあの時知ったように思う。
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漫画家・随筆家
東京都出身。17歳でイタリアに留学、国立フィレンツェ・アカデミア美術学院で油絵と美術史を専攻。2010年、古代ローマを舞台にした漫画『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞、世界8カ国語に翻訳され、映画化も。平成27年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。17年、イタリア共和国の星勲章コンメンダトーレ章受章。文筆著書に『ヴィオラ母さん』(文藝春秋)『ムスコ物語』(幻冬舎)など多数。
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(漫画家・随筆家 ヤマザキ マリ)
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